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ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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《国家》と《人としての自由》について~「ホワイト・クロウ」と「僕たちは希望という名の列車に乗った」~

昨日はひさびさの「パルシネマしんこうえん」で、映画を続けて2本。
あらためてパルシネマ、貴重な映画館だなあと思う。
支配人が息子さんに代替わりしてから、また新たに館内にきめ細かくいろいろな工夫がされていて、とても心地よく映画に浸ることができる。
たった1300円で豪華2本立て。上映する作品もリクエストに応えて多彩に用意してくれるし、シネコンとは真逆な、手作り感満載の雰囲気がなんともいいんだなあ。
私の前の座席のカップルなんか、ワインなんて開けちゃってたっぷり2本の映画、4時間以上をゆったりと楽しんでおられました。

今回の上映作品の1本目。
イギリスの名優レイフ・ファインズが監督した『ホワイト・クロウ』(2018年)。
バレエ界の伝説、ルドルフ・ヌレエフ。彼が1961年にソ連からフランスに亡命するまでの、若き日を描く。
正直、それほど期待していなかったのだけど、非常に見ごたえのあるおもしろい作品だった。

《国家》と《人としての自由》について~「ホワイト・クロウ」と「僕たちは希望という名の列車に乗った」~_d0153627_15262035.jpg

ヌレエフ役に抜擢されたウクライナ出身のバレエダンサー、オレグ・イヴェンコはじめ、今をときめくスターダンサーのポール・ポルーニンほか、ロシアやヨーロッパのすぐれたダンサーの舞台シーンはほんとうにすばらしい。
ソ連の小さな自治共和国の片田舎で育った少年が世界的なバレエダンサーに育っていく過程、その苦労と強い自我のありよう。エルミタージュ美術館、ルーブル美術館、パリ・オペラ座などにロケした壮麗な画面構成。
ヌレエフはわずか23歳で亡命したので、この映画で描かれるのは彼が世界を席巻し続けるカリスマとして君臨する、その手前の時代だ。そのためソ連でのシーンがかなりを占めるが、それらのシーンも登場するロシア人たちも実にリアルで、そこにもレイフ・ファインズ監督のこだわりを感じた。
でも、私が一番心をうばわれたのは、ヌレエフがパリの空港で亡命を決意し、決行するシーン。
貧しさの中、彼をバレエへと押し出してくれた母、ともに過ごした仲間たち、すべてを捨てて彼はフランスへ亡命する。それも突然に、実にわずかな時間の中で決断を迫られて。
そのとき彼が発することば、「僕は自由になりたい」。
当時、ソ連からの亡命は、国家への裏切りであり、命の危険と等価だった。故郷に残された家族も虐げられる可能性が高い。それでも、彼はそうした。

まだソ連のバレエ学校を卒業するころ、所属予定のバレエ団を不満とするヌレエフに、女性の役人がこう言い放つシーンがある。
「誰があなたをここまで育てたの? 親が学費を出した? 国家よ! 国家に育ててもらったんでしょう! 今度はあなたが国家に貢献するんです!」と。
そう、芸術とは無縁の貧しい家庭に育った少年がバレエを学びはじめたときから、彼は《国家の子》になったのだ。そして《国家の子》としてずっと生きていくことが定められていた。
彼は、そこから逃亡したのだ。心を引き裂かれ、命もかけて。


2本目の作品、ドイツのラース・クラウメ監督『僕たちは希望という名の列車に乗った』(2017年)。
ベルリンの壁建設の少し前、1956年の東ドイツでの実話に基づく映画だ。

《国家》と《人としての自由》について~「ホワイト・クロウ」と「僕たちは希望という名の列車に乗った」~_d0153627_15272102.jpg

東ドイツの小さな町の高校3年生のクラス。ある生徒が中心になって、当時起きていたハンガリー動乱の犠牲者への黙祷を、ある日の授業中にやろうということになる。
たった2分間の黙祷。
ところがそれが大変な事件へと発展し、彼らは国家への反逆者の烙印を押されていく。当然、親たちも巻き込まれる。
首謀者は誰か、という犯人探しが始まり、卑劣で容赦ない取り調べの中、18歳の若者たちは傷つき、はげしく翻弄される。

その中のひとりの男子生徒は、父がある過去を持つゆえに重労働に従事しているが、彼自身は進学クラスで優秀な成績をおさめ、将来が保障されるコースの手前に立っている。
事件のさなか、彼は他の生徒とともに教師からこう怒鳴りつけられる。
「おまえたちが進学コースで学べていることを感謝しろ!」
つまり、国家に特別に育ててもらっているおまえたちは、感謝して国家に従順であれ、ということだ。こうしてがんじがらめにされ、罪を問われる彼ら。

その後、彼らがついにある決断に至り、決行するまでが映画では描かれているのだが、それは『ホワイト・クロウ』の中で立ちあらわれる《国家》と《人としての自由》という問題と重なりあう。
映画のラストのその後、彼らはどうなったのかは、原作である『沈黙する教室 1956年東ドイツ~自由のために国境を越えた高校生たち~』(アルファベータブックス)にくわしい。私はまだざっとしか読んでいないが、実際にこんなことがあったのか、という驚きと、大人たちの責任について深く考えさせられる。

パルシネマさんが、《国家》と《人としての自由》の問題、という共通のテーマを持つと考えてこの2作品を今回カップリングしたのかはわからないけれど、2本を見終えたとき、私の中に重く残ったのはそのことだった。
そして、そのテーマはまったく遠い世界や遠い時代の話ではなく、今この国で生きている私たちが突きつけられつつある問題でもある。
社会体制の違いは、本質的なことではない。
少しずつ、気づかないうちに、私たちの《人としての自由》は《国家》に飲みこまれようとしてはいないか。それを許す気配が、ひろがってきてはいないか。
帰りの車中でスマホだけを見つめる人々を眺めながら、すばらしい映画を観たあとの感動とともに、重いかたまりが私の胸でうずいた。


# by higurashizoshi | 2019-10-15 00:22 | 観る・読む・書く・聴く

高橋大輔選手、2020年からアイスダンスに転向

一昨日、夜に仕事が終わってスマホを開いたら、「高橋大輔、アイスダンスに転向」の文字が飛び込んできた。
もちろん、一瞬まったく理解できず、フリーズ。
何かの特別企画? ギャグ?
これって仮想世界?

記事を読んでいくと、どうも事実らしいとわかり、
パートナーが村元哉中選手とわかり、
シングルとしてはこの12月の全日本がラストとわかり、
気づくと涙を流して電車に乗っていた。
いろんな思いが交錯して、整理がつかなくて、あのときは衝撃をまともに受け止めるすべがぜんぜんなかった。

あれから2日。
以前からアイスダンスが大好きで、ほぼすべての国際試合を追いかけてきた。ここにもずいぶんアイスダンスについて過去書いてきたと思う。
その大好きなアイスダンスに、大好きな大ちゃんが選手としてやってくるのだから、うれしいの二乗じゃないか!
と、やっと思えるようになってきた。
それでも、テレビに大ちゃんが哉中ちゃんと出演しているのを見ると、
「おや? これって現実? 夢?」
といまだに思う。

哉中ちゃんがクリスとのカップルを解消したあと、パートナーに巡り合えていなかったこと、モチベーションを持てなく苦しんでいたことを聞いていた。
だから、哉中ちゃんのほうから思い切って大ちゃんにアプローチし、トライアウトにこぎつけ、そして二人が決断にいたったことを知って、アイスダンスファンとして、哉中ちゃんを応援していた身として、ほんとうにおめでとう!と心から思う。

ただやっぱり、大ちゃんのファンとしては、とうとうシングル選手としての高橋大輔の終結のときが来たことが、たまらなく切ない。
復帰して、まだ2シーズン目。
今の4回転時代の中で、大ちゃんの成熟したスケートがどう展開していくのか、年齢とのバランスの中でどのくらい可能性を伸ばしていけるのか、すごく楽しみだった。
「氷艶」での新たなチャレンジも、これからまだ数年はシングル競技でがんばったあとに、念願のカンパニー設立への足がかりにしていくのだろうと思って見ていた。

復帰後はファンにとっては思いがけないごほうびというか、いつ終わるかわからないプレゼント期間みたいなものと覚悟を決めて大ちゃんの演技を見てきたはずなのに、いざこうやって思いがけない形で終わることが現実になると、思っていた以上に動揺して、悲しい。
でも、気を取り直すと、アイスダンスでの大ちゃんを見る楽しみ、これからも滑り続けてくれることへの感謝があふれてくる。
という、あっちこっちに引き裂かれる思いでこの2日間は過ぎた。

でも、この明るい笑顔。
アイスダンスがどれほど大変な競技か、本人にもわかっているはずなのに、これから過酷なチャレンジをまたするというのに、こんなにわくわくして楽しそうなのだ、この人は。
そして、これからずっとスケートで表現をしていくうえで、アイスダンスに転向することが必ずプラスになると思う、と本人の口から聞いたとき、すごく腑に落ちた気がした。

高橋大輔選手、2020年からアイスダンスに転向_d0153627_23184931.jpg

今年の全日本はやっぱり泣きながら(しょうがないんだよ!)観ることになると思うけど、年が明けたら《アイスダンサー高橋大輔》の新しいスタートが待っている。
経験豊富なズエワ先生と、英語に堪能でオトコマエな哉中ちゃんがついてるから、きっと大丈夫。
あ、でも全日本で台乗りできたら、今度こそ世界選手権出てくれないだろうかと、復帰後結局一度も国際試合で新生・ダイスケタカハシを披露せずに終わるのはあまりにもったいない!といまだ未練は捨てられないのだった…。

# by higurashizoshi | 2019-09-30 23:24 | フィギュアスケート

ドッグマン

5か月半のごぶさた。
ほんとうに久々に映画のレビューを書いたので、アップすることにしました。

ドッグマン_d0153627_19073727.jpg

すごい映画を観た。
イタリアのマッテオ・ガローネ監督『ドッグマン』。
さびれた片田舎の町で犬の美容店を経営するマルチェロは、離れて暮らす幼い娘と会うのがなによりの幸せ。大好きな犬を扱う仕事と、近隣の仲間とのつながりがあれば満ち足りる、いかにもつつましい男だ。
そんな彼にとって、暴力的で無茶な要求ばかりしてくる町の嫌われ者シモーネとの縁が切れないのが、唯一の不安材料だった。

小柄で貧弱な体つき、おどおどした表情、いかにも権力を持つものに利用されそうな風貌のマルチェロ。対して、シモーネは巨漢で怪力、自制心も倫理観も皆無な暴君だ。
気弱なマルチェロはシモーネの要求にいつも屈し、じりじりと立場を悪くしていく。やがて決定的な犯罪の片棒を担がされることになり、マルチェロの人生は暗転する。その顛末を、映画はひたすらに、マルチェロの表情を執拗に追いながら描く。

そもそもこの町が、異様にさびれすぎている。とうてい人が暮らして経済が回っているとは思えないほどの、すさまじいさびれっぷり。ここからすでに、この物語はリアルというより寓話に近いのだということが提示される。

マルチェロの周囲の仲間たちも、平和にサッカーに興じたりしつつ、みな相当ひと癖ある男たち。その筋に頼めば、町の困り者のシモーネを殺してもらえるぜ、どうするよ、などという相談を平気でする。結論は「そこまでしなくても、いずれあいつは誰かが殺す」。闇が深い。
結局、誰も手を汚したくはないのだ。そんな強面の男たちの相談の中で、マルチェロだけは戸惑ったようなあいまいな表情を浮かべている。
彼が何を考えているのか、なぜシモーネに徹底的に支配されてしまうのか、そもそもシモーネのことをどう思っているのか、見ている私たちには容易にはわからない。私たちはマルチェロを痛々しく思い、同時になんと情けないヤツかと憤る。自分だったら、こんな惨めなことにはならないと。自分だったら…?

果たしてそうか。

シモーネの窃盗仲間が殺しかけたチワワを、マルチェロは命がけで助けに行く。
一方、ピストルでシモーネが撃たれれば、母親のもとに運んで治療すらしてやる。
その行動は、やさしさなのか、愚かさなのか。
悪魔のようなシモーネの前に、無力な子羊のようなマルチェロ。彼はしかし、目の前で苦しんでいる命があれば、無条件で救おうとする人間でもある。と同時に、麻薬の販売にも手を染めて小金を稼ぐ、小ずるい一面もある。そして、幼い娘とともにいるときは、ただただ愛に満ちている父親でもある。

ドッグマン_d0153627_23515839.jpg

(以降は、映画鑑賞後に読むことを勧めます)

私は、映画を追いながらずっとマルチェロのことを、「この人は、何なんだろう」と思っていた。
無力で、無垢で、狡くて、汚くて、弱くて。
それなのに、マルチェロから目が離せない。

マルチェロがほしかったもの。
最愛の娘との時間。それに必要な金。
仲間とのつながり。犬とのつながり。平穏が続くこと。
それは、私たち誰もがほしいもの、必要なものだ。
それがおびやかされたとき、それらを守るためなら、私たちは多少の犠牲は払える。大きな犠牲だって、きっと。
マルチェロは、それをやっただけ。そのやり方がどんなに愚かで、間違っていたとしても。

マルチェロは、シモーネを殺したくなんかなかった。
自分がシモーネの犬にされていたから、自分が人間になり、シモーネを犬にしてみたかったのだ。
そして、ただ、謝らせて、許してやって、元に戻りたかった。
友だちに。仲間に。

友だち、仲間、安心。
その幻想を追って周囲に合わせ続けた結果、マルチェロは《友だち》すべてに捨てられ否定された。最後はシモーネしかいなかったのだ。生身でかかわりあう相手は。

しかもその相手を殺してしまったマルチェロは、今度は《ついに俺が町の困りものシモーネを始末してやったぞ!》と、かつての仲間へアピールできることに気づいて、捧げものよろしくシモーネの死体を担いで、仲間に見せにいくのだ。
この鬼気迫るシーンのなんと惨めで、なんと哀しいことだろう。

重く大きなシモーネの死体をかついで、町の広場へとよろめき歩くマルチェロ。
その歩みがふと三拍子に聞こえて、まるで十字架をかついでゴルゴダの丘を歩くイエスのようだと思った。
愚かなマルチェロ。罪深いマルチェロ。でもその罪は、彼だけのものなのだろうか。

広場にたどりついても、もちろん、もう仲間などいない。友だちもいない。
幻想が消え、狂騒ののち残ったのは、人殺しになった自分だ。
もうマルチェロには、それをつぐなうすべはない。
ラザロのごとく蘇らせたあのチワワのように、あがなえるものは今は何も残されていない。
それを理解したマルチェロの、茫然としたまなざし。

その表情を見ながらふいに理解した。
マルチェロは誰でもない。
主体性がなく、流されるままここにたどりついた彼は、無なのだ。
そして、マルチェロは誰でもある。
平凡で、守りたいあたりまえを、守ろうとしただけの、愚かで、弱くて、哀しい人間。
マルチェロは、私たちなのだ、と思った。

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強大な権力や暴力の前にさらされたとき、彼のようにふるまわないと誰が言い切れるだろう。
支配と服従。
それは人対人の関係だけでなく、国同士や、民族同士の関係にも当てはめうる。
シモーネという強大な国に、押しつぶされそうになった弱小国。そんな空想も、映画を観ながら私の中に立ちのぼった。

残酷な寓話が完結したとき、不思議に私は苦しさや哀しさよりも、この世界の大きな仕組みを俯瞰したような静かな高揚をおぼえていた。
ラストで長く長くカメラがとらえたマルチェロの、あの虚無の深い穴へとすべりゆくような、それでいて不思議に無垢な表情とともに、この感覚は長く自分の中に根をおろすだろう。

# by higurashizoshi | 2019-09-16 19:08 | 観る・読む・書く・聴く

4月1日は、スピッツの日

約3か月ぶりの更新。
ここを開いた方は、《長らく昏睡してた人間をふと見ると黙って目を開いてた》みたいな、「うわっビックリした~でも生きてた~」という驚きと少々の安堵を味わわれたことでしょう。さすがはエイプリルフール。たいへん、ご無沙汰しておりました。

さて3か月の間に、何があったか。
2019年が明け、1月には大阪の「NHK杯展」でフィギュアのお衣裳などを愛で、新年会をいくつかやって、城崎へ短い旅をし、そうこうしてるうちにヨーロッパ選手権と全米選手権が怒涛のように続き、あっという間に2月。
2月初めは福島~東京に行き、帰って四大陸選手権。昌磨さんの活躍に落涙したのち、大好きなリンドグレーンの「長くつしたのピッピ」展で京都。保養関係の交流会、恒例の味噌仕込み、などなどで3月。
やたら寒い3月は絶不漁のイカナゴをやっとこ少量炊き、世界ジュニア選手権、シニアの世界選手権に熱狂ののち、京都・南座で玉三郎さんの舞台に見とれ、直後上京、積年の夢だったルーファス・ウェインライトのライブを堪能し、「奇想の系譜」展で若冲とか其一とか観て、千鳥ヶ淵や新宿御苑で桜を愛で、帰ってきて昨日は「マタイ受難曲」の演奏会(今回は聴衆として)。
もちろんこの間にせっせと仕事をやり、映画もそれなりに観て、歌の練習をがんばり、ちゃんと飲みにも行き、とにかく忙しい日々でした。

で、ついに今日4月1日。
私にとって今日はスピッツが主題歌を担当した朝ドラ「なつぞら」の放映開始日!
私、朝ドラってほぼ観ないのですが、昨夜からドキドキが止まりませんでしたわ。
世間をにぎわす新元号発表とか、それがどうしたという。
こんな形でのスピッツの新曲発表、マサムネくんの歌声がテレビから全国に半年間毎日何度も流れるという、スピッツ的に華々しすぎて信じられない事態が始まる日なのですから。

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さて、初めて聴いた主題歌「優しいあの子」は、メロディも歌詞も、草野マサムネの持つ、つつましくも深い優しさ、心くばりに満ちた曲でした。うーん、すてきな曲だ。
でも、この歌の雰囲気とかわいらしいアニメーションのイメージで、またもスピッツに関して《癒される温かいサウンド》的な評価がひろまってしまうんだろうなあ、とも思い、ちょっと複雑。
たとえば歌詞の最後に「コタン」というアイヌ語を持ってきたことの意味。こう来たか、とスピッツの歌詞を味わうファンは感じたと思うけれど、そのあたりは一般的にはなかなか理解されないだろうし。

なにはともあれ、スピッツにとり今年は朝ドラ主題歌に始まって、そのシングル発売(3年以上ぶり!)、新しいアルバム発売、全国ツアー、年末はおそらく紅白出場という大変な年になりそうです。
めでたいことだが、確実にチケットさらにさらに取りづらくなるよね…(悲)

フィギュアについては世界選手権についてすら、何ひとつ書けてませんが、BSもCSもシングルはもとよりカップル競技もふくめ全部観てはいます。
ツイッターではちょこちょこフィギュアのことつぶやいてるのですが、なかなかブログにはいたらず…。うう。
でも、とりあえず昏睡から覚めたので、フィギュアについても何か書くような気がします。
よければ、またのぞいてみてください。

# by higurashizoshi | 2019-04-01 18:28 | 観る・読む・書く・聴く

暮れゆく2018年

フィギュアスケートのことを含め、まったくブログに触れずにもう年の瀬も押し詰まり、今年もあと2日。
今年の漢字は「災」らしいけど、わたし自身にとっても今年の特に後半は「災」の連続だった。《呪われた秋》と自ら名付けた9月から11月、フィギュアスケートの競技シーズンに入っても、ほぼテレビでCS含め観られるものは網羅して観ていたけれど、とてもそれについて書くだけの余裕というかパワーはなかった。

全日本選手権、現役復帰した髙橋大輔選手のショート、フリー。
練習再開からたった半年あまりで、全日本のトップレベルまで戻してきた凄さと、最後の最後にフリーのあのプログラムを完成させられず終わったことの悔しさ。世界選手権の選考を辞退したことへの複雑な思い。
そして来季も現役続行の意思を示してくれたこと、ファンとしては希望をつなぎたいけれど、来季スケート連盟の強化選手に彼が入るのかどうかなど、ことはそう単純ではないだろう。
でも、ともかくうれしかったのは、大ちゃんが《今はスケートが大好き》と言い切るようになってくれたこと。そして、「できるだけ長く人前で滑ることを続けていきたい」と明言してくれていることだ。
ファンはこの言葉を待っていたんだよ。あなたがスケートを自分の愛するものとして中心に置き、自分の意志で滑り続けてくれること。それがどれほどクリエイティブな行為で、たくさんの人に希望や幸福感を与えることか…。

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来季がどうなるにせよ、少なくとも氷の上で大ちゃんを見続けることができるのは確か。
それも、これまでとはきっと違う意思のもとで彼がつくりだす世界を、目にすることができるだろう。
本当に、本当にうれしい。

そして今回の全日本、ある意味大ちゃんよりも印象的で心うたれたのは、宇野昌磨選手だった。
これまで故障の少なかった彼が、ショートの前に足首をケガしていて、結果的にはショートもフリーも強行出場となり、そしてあの鬼気迫る演技で孤高の1位を守った。
フリーは構成を少し落としたとはいえ、とても右足首を歩けないほど傷めている人とは思えない演技内容。
追い詰められた昌磨は、激しく、強かった。

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すべてが終わるまではケガについて一切語らず、フリー後には約束通りきちんと説明を尽くし、今回はケガをしたからこそ自分を信じることができたと語った彼。
「どうしてそんなにまでして(試合に)出たいの?」と樋口コーチに聞かれて答えた言葉、
「僕の生き方です」。
あまりにもかっこよすぎて、しみじみと「凄いひとだ」と思った。
静かなたたずまいの彼の中にある、貪欲さとプライド。
それは、世間に流布している宇野昌磨のイメージ、《可愛らしさ》や《ほんわか天然》とは遠く隔たっていた。
彼がこれからどんなふうに変化していくのか、どこまでの高みまで行けるのか、見守りたい。

ここ数日は、CSで放映しているロシア選手権を時間を作って観つつ、年末の仕事をひとつひとつ片づけている。
《呪われた秋》は去り、ようやく静かな冬が訪れた気がする。
年が明ければ、ヨーロッパ選手権(ハビエル・フェルナンデス選手の引退試合となる)、四大陸選手権、そして世界選手権。そのころには春が近づいてくる。

もちろん、今年はけして悪いことばかり起きたのではない。
私にとってプラスになる経験も、いろんな人とのかかわりの中で、たくさんさせてもらった。
初めて、台湾も旅した。来年は、ロシア極東部に行きたいなと夢見たりもしている。

この「ひぐらしだより」は、今後も細々ながら閉じることなく続けていきたいと思う。更新がなかなかないので「もう書かないのかな」と思われた方もいるかもだけど、気長に待っていただければ、こんなふうにひょっこり書いたりします。

2019年がどうか平和に少しでも近づく年であるように。
みなさんにとってなごやかで、うれしいことの多い年になりますように。
生きることは力仕事だけれど、その中にあるよろこびを忘れず味わえる自分でありたいと思います。




# by higurashizoshi | 2018-12-30 01:49 | フィギュアスケート

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