ひぐらしだより
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81歳の戦時体験
この5月で、父は81歳になった。4年前に胃がんで切除手術をしたとはいえ、元気で今も現役で仕事をしているスーパーじいちゃんである。
その父の誕生祝いを、この前、姉の家族と合同でやった。料理は手作りの持ち寄りということにして、私の担当メニューのひとつは最近得意技のちらし寿司、今回は《岡山祭り寿司》ふうバージョン。父の母、つまり祖母が岡山出身だったので、父には祭り寿司はおふくろの味なんだそうだ。
岡山の祭り寿司にはかかせない、ままかりという小魚がここでは手に入らないので、〆サンマで代用したり、だいぶ本物とはちがうようなのだけど、まあ気持ちは本物ってことで。
そのほか、姉も私もいろんな料理を作ってきて、並べると壮観!
ミミは父の大好物のだし巻き卵を作って、じいちゃんからうまい、うまいと喜ばれた。
この誕生祝いの日、姉の提案で、父に戦時体験を孫たちに話してもらおうという企画があった。ふだんはそういう実体験をきちんと聴く機会はないので、貴重なチャンス。私や姉だって、断片的にはいろんな話を父や母から耳にしてきたとはいえ、まとまって聴くことはほとんどなかった。
父は16歳で終戦をむかえている。
さかのぼると、2歳で満州事変、8歳で日中戦争がはじまり、10歳で第二次世界大戦が開始、12歳で太平洋戦争に突入、翌年の昭和17年、13歳のときに長患いしていた父親が死去。翌18年、一番上の兄がサイパンで戦死。翌19年、二番目の兄がガダルカナルで戦死。翌20年、三番目の兄が中国で戦病死。終戦までの4年間、父は肉親を毎年亡くし続けたことになる。
父が表に書いて説明してくれるのを聴きながら、いまさらながらすさまじい十代を生きたのだなあと思う。終戦の年の春、父は中学校から海軍兵学校に入学した。大好きな兄たちを殺した敵を、天皇陛下のためにうちやぶり、みごとに自分も死ぬのだと心から思っていたという。と同時に、幹部養成校である兵学校に入れば、ごはんがお腹いっぱい食べられるというのも実は魅力だったのだそうだ。食べ盛りの少年時代、いつも空腹に苦しめられて、白米のごはんを夢にまで見た。とにかく配給の食糧では生きていけないので、あちこちの空き地に収穫の早いカボチャを植えて、「カボチャばっかり食べとるから、顔がだんだん黄色うなるんや」。
そして前評判どおりに兵学校では念願のごちそうをふんだんに食べ、地獄のような厳しい訓練に耐え、さあこれからだと思っていた矢先に戦争は終わった。しかも、絶対に負けない神の国だと教わった日本が負けたのだ。父にとって戦争は、重なる肉親の死のはてに、自分の死の覚悟がぶっつりと断たれて、それまでの価値観のすべてが空白になって終わった。
タタもミミも、父の話を真剣に聴いていた。結局この日は時間が足りなくて、くわしく語りきるところまではとてもいけなかったので、姪っ子の提案で来月に《第2回・おじいちゃんに戦時体験を聴く会》をやることになった。父が元気で語れる間に、孫だけでなく私も父の話をたくさん聴いておきたいとあらためて思う。母も、昔のことはよく憶えているので、話に参加してくれそう。これはなかなか、おもしろいことになってきた。
その父の誕生祝いを、この前、姉の家族と合同でやった。料理は手作りの持ち寄りということにして、私の担当メニューのひとつは最近得意技のちらし寿司、今回は《岡山祭り寿司》ふうバージョン。父の母、つまり祖母が岡山出身だったので、父には祭り寿司はおふくろの味なんだそうだ。
岡山の祭り寿司にはかかせない、ままかりという小魚がここでは手に入らないので、〆サンマで代用したり、だいぶ本物とはちがうようなのだけど、まあ気持ちは本物ってことで。
そのほか、姉も私もいろんな料理を作ってきて、並べると壮観!
ミミは父の大好物のだし巻き卵を作って、じいちゃんからうまい、うまいと喜ばれた。
この誕生祝いの日、姉の提案で、父に戦時体験を孫たちに話してもらおうという企画があった。ふだんはそういう実体験をきちんと聴く機会はないので、貴重なチャンス。私や姉だって、断片的にはいろんな話を父や母から耳にしてきたとはいえ、まとまって聴くことはほとんどなかった。
父は16歳で終戦をむかえている。
さかのぼると、2歳で満州事変、8歳で日中戦争がはじまり、10歳で第二次世界大戦が開始、12歳で太平洋戦争に突入、翌年の昭和17年、13歳のときに長患いしていた父親が死去。翌18年、一番上の兄がサイパンで戦死。翌19年、二番目の兄がガダルカナルで戦死。翌20年、三番目の兄が中国で戦病死。終戦までの4年間、父は肉親を毎年亡くし続けたことになる。
父が表に書いて説明してくれるのを聴きながら、いまさらながらすさまじい十代を生きたのだなあと思う。終戦の年の春、父は中学校から海軍兵学校に入学した。大好きな兄たちを殺した敵を、天皇陛下のためにうちやぶり、みごとに自分も死ぬのだと心から思っていたという。と同時に、幹部養成校である兵学校に入れば、ごはんがお腹いっぱい食べられるというのも実は魅力だったのだそうだ。食べ盛りの少年時代、いつも空腹に苦しめられて、白米のごはんを夢にまで見た。とにかく配給の食糧では生きていけないので、あちこちの空き地に収穫の早いカボチャを植えて、「カボチャばっかり食べとるから、顔がだんだん黄色うなるんや」。
そして前評判どおりに兵学校では念願のごちそうをふんだんに食べ、地獄のような厳しい訓練に耐え、さあこれからだと思っていた矢先に戦争は終わった。しかも、絶対に負けない神の国だと教わった日本が負けたのだ。父にとって戦争は、重なる肉親の死のはてに、自分の死の覚悟がぶっつりと断たれて、それまでの価値観のすべてが空白になって終わった。
タタもミミも、父の話を真剣に聴いていた。結局この日は時間が足りなくて、くわしく語りきるところまではとてもいけなかったので、姪っ子の提案で来月に《第2回・おじいちゃんに戦時体験を聴く会》をやることになった。父が元気で語れる間に、孫だけでなく私も父の話をたくさん聴いておきたいとあらためて思う。母も、昔のことはよく憶えているので、話に参加してくれそう。これはなかなか、おもしろいことになってきた。
by higurashizoshi
| 2010-05-31 22:53
| 雑感