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ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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カティンの森

カティンの森_d0153627_1491975.jpg
2007年 ポーランド
監督 アンジェイ・ワイダ
出演 マヤ・オスタシェフスカヤ アルトゥル・ジュミイェフスキ ヴィクトリャ・ゴンシェフスカ マヤ・コモロフスカ



数年ぶりに、ひとりで映画館に行くことができた。
そして観たこの作品は、ひとりで映画館で観るべき映画だった。暗闇の中で、たったひとりで対峙するべき映画だった。

1940年、一万数千人のポーランド軍の将校たちが虐殺された「カティンの森事件」。長く真相を語ることがタブーとされてきた、第二次大戦末期の事件である。
歴史にうとい私は、その名前と、おぼろげな知識しか記憶になかった。だが昨年4月、この事件の70年目の慰霊式典に向かうポーランド大統領ら政府高官を乗せた飛行機が墜落するという、信じられない惨事が起きたことで、「カティンの森事件」についてにわかに知ることになった。
この事件は、ナチスドイツとスターリン率いるソ連軍が、たがいを犯人として罪をなすりあっただけでなく、戦後ポーランドがソ連の衛星国となったために、さらに真相は闇へ葬られることになったという。長い東西冷戦の中で、この事件の名が歴史の表に出ることはなかった。
カティンの森で、いったい何があったのか。誰がそれをしたのか。どのようにそれは行なわれたのか。その全貌があきらかになったのは、冷戦が終わりを告げ始めた1990年。真実を世界が知るまでに、50年という長い年月がかかったのだ。

アンジェイ・ワイダはこのカティンの森事件の遺児である。彼は母とともに、父の生還を信じて待ち続けた少年時代を過ごした。父の死を知り、カティンで父たちがなぜ、どのように殺されたのかを知ったときから、「カティンの森事件」を映画にすることがワイダの生涯かけての目標となった。
私は20代のころワイダの映画をいくつか観ている。『地下水道』『灰とダイヤモンド』の鮮烈な印象、『大理石の男』『鉄の男』などもポーランドの複雑な政治状況をわからないままに、それでも興味深く観た。その後、86年の『愛の記録』以降の作品はまったく観る機会がなかった。
ワイダは『鉄の男』を最後にポーランド政府から国外に追われ、「カティンの森事件」の映画化という目標を形にできない長い歳月を過ごした。ソ連が崩壊、ポーランドの政権が変わり、やっと何の検閲も受けず、自由に作品をつくれる時代がやってきた。ワイダはそれからさらに15年以上の時をかけて、多くの試行錯誤を繰り返しながら構想を練り上げ、80歳にしてついにこの映画『カティンの森』をつくりあげた。彼の生涯に時代はぎりぎりで間に合ったのである。

ワイダの長い多彩な作品歴のなかで、この映画は集大成といえるだろうし、信じられない歳月をかけてとうとう作品にすることができた、彼の原点の具現化ともいえるだろう。
これをいったいどんな形で、どう描くべきか。おそらく多くの逡巡ののちにワイダが選んだのは、カティンの森で犠牲になった将校たちの家族、なかでも彼らの生還を待ちつつ生き抜く女性―妻たち、娘たち、姉妹たちを物語の中心にすえることだった。
冒頭、大尉の妻アンナがソ連軍が侵攻してきたポーランド東部に、幼い娘を連れてたどり着く。夫アンジェイを探しに、人々が逃げまどう混乱をぬけて、首都からやってきたのだ。アンナは、すでにソ連軍の捕虜になっていた夫とつかの間再会する。そして収容所への列車に乗せられる夫を、娘とともにむせび泣いて見送る。
ここを物語の起点として、夫を待ち続けるアンナとその娘、そして同僚の将校たちのそれぞれの妻や姉妹たちの、それからの年月がはじまる。彼女たちがみな、夫や父や兄弟の無事を祈りながら、それぞれの苦難を越えて生きていくさまが、静かに鮮烈に描かれていく。
一方、収容所に送られた将校たちの様子も並行して語られていく。はるか故郷で家族が祈っているのに呼応するように、彼らも生きのびて祖国の再生に尽くそうと自分たちを励まし続ける。しかし、将校たちの動向は、彼らが別の収容所に移送されていくという時点で、ぷつりと描写がとぎれる。

カティンの森事件の犯人がナチスドイツではなく、ソ連軍であったこと。それは、今ではスターリンがポーランドを徹底的に支配するための方策だったということも含め、あきらかになっている。ポーランド軍将校の半数がここで殺されたともいわれる。
しかし、ワイダはソ連軍が犯人であることははっきりと描きつつ、ソ連を糾弾することはしない。アンナと娘の危難を救うソ連軍大尉を印象深く登場させ、この映画の目的はそこにはないことを明確にする。
1940年、カティンの森で何があったのか。誰がそれをしたのか。
そのふたつの問いには、いわば外側から答えが提示される。ソ連の支配下に入ったポーランド国内で、カティンの森事件はむごたらしい現場の実写フィルムとともに、反ドイツのプロパガンダとして利用されていく様子が描かれる。しかし多くのポーランド人たちは、それがソ連の犯行であることを知っていて、ときには命をさらしてでもその事実を告発しようとする。アンジェイと同じ隊の中尉の妹アグニェシュカは、兄の形見のロザリオを手に断固としてカティンがソ連のしわざであったという主張を曲げず、秘密警察に逮捕されていく。カティンの遺児である若者タデウシュは、履歴書に「ソ連に父を殺された」と書き、書き直しを迫られても拒絶する。

そしてカティンの森事件についての三番目の問い―それはどのようにおこなわれたのか、について、ワイダは映画の最後にその答を置いた。
観客はすでに、歴史的事実として虐殺があったことを知り、誰が、何のために、という先のふたつの問いの答も知らされた。殺された将校たちの家族の長い苦難、ポーランドという小国の苦しみをつぶさに見た。なによりも、夫や父や兄弟を思い続ける人々の強さと深い愛情をなまなましく、身近で体験するように感じてきた。
そのように観客をワイダはみちびき、そして最後に、1940年春、雪の残るカティンの森でおこなわれたことを見せる。見せるというより、そのただなかに観客を放り込む。
そこに立たされたどの男もどの男も、愛する家族があることを私たちは知っている。彼らに、虫けらのように殺される理由などないことを知っている。
このシーンが残酷であるとしたら、それはワイダがすさまじい執念で《事実》を刻みつけようとしたからだ。どうしても絶対に、カティンの森での虐殺とはどのようにおこなわれたのかを、彼はフィルムに刻みつけたかった。ただの再現ではなく、《事実》として。

ラストの数分、私はこのことを受けとめなくてはいけない、受けとめなくてはいけないと思いながら、涙と震えがとまらなかった。映画館を出て、駅までの道を歩くあいだも涙が流れつづけた。外の風景がまるで違ってみえた。
人間はなんて残酷なんだ、なんということをする生きものなんだ、そう思い、自分もそういう生きもののひとりであることを忘れてはいけないと思った。
もちろん映画は《事実》ではない。《事実》は過去のその場所にしかない。けれどぎりぎりのところでワイダはそれをフィルムの中に作りあげた。そうするしかなかったのだし、そのようにして「カティンの森事件」は後世に伝えられていく新しい形を得たのだと思う。
by higurashizoshi | 2010-07-06 14:13 | 観る・読む・書く・聴く

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