ひぐらしだより
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あきらめずに
大の苦手である車の運転を、父の入院以来ほぼ毎日しないといけなくなり、それからずっと運転し続けている。車に乗らない日は数えるほど、というくらい。実家にも行かなければいけないし、あちこちの用事も車で、ということが増えた。これまで行けなかった(道がわからない、地図が読めない等々)場所にも勇気を出して行ってみる。で、案の定道に迷って冷や汗、でも少しずつ行けるところが増えてきた。「ケガの功名」とはこのこと。
とはいっても、相変わらず遠くにはとても行けないし、毎度毎度ひやりとしたりハラハラしたりの繰り返し。高速道路なんぞはいまだ宇宙空間だし、モノの役に立つ、というほどにはとてもなってない。
先日、近所の公会堂の集まりの特別企画として、福島に行ってきたOさんとIくんの報告会をやった。Oさんは自分の車に、みんなから寄付されたレゴや食料をいっぱい積み込んで明け方に明石を出て、夕方会津若松に到着したそうだ。
そうだよ、車を運転するというんなら、こういうことができなきゃ。そしてOさんはさらに会津でお米を山ほど積み込んで、南相馬の避難所まで行ったそうだ。これらは車があってこその仕事。というか、自由に運転ができてこその仕事。私はいつかこんなことができるのかしらん。目の前にある淡路島にすら橋を渡って行けないというのに。
せいぜい今のところは、父を乗せてコープに買い物に行くとか、母を病院に連れて行くとか、その程度のこと。それでもささやかに、必死の運転が人の役に立っている…といえなくはないか。
この報告会には、いつもの公会堂の集まりに来たことがない人たちも何人も来られた。
震災のこと、原発のこと、みんな何とかしたい、何かをしたいと思いながら「何もできないでいる」というのが共通の気持ちなのだなあと思った。
この日は神戸で脱原発のデモ(というよりパレードという感じだったらしい)があり、そこから帰ってきた人も何人か来ていた。
いつもにこにこして穏やかな友人がいて、私はその人がそばにいると気持ちが落ち着くのだけれど、彼女が福島原発の一号機が爆発したオブジェを自作して頭にかぶって歩いた、というのを聞いて度肝を抜かれた。
ずっと昔から原発建設に反対してきた彼女は、今回の原発事故に関して「はらわたが煮えくり返って何も手につかない。こんなことになってまだ原発続ける、作ると言ってる人がいるなんて」と話した。「農家の手伝いに行って土をさわっても、この土も汚染されていくのかと思うとたまらない。農家にとって作物は子どもみたいなもの。町で暮らす人にはこの気持ちはわからない」とも。
そうだ、怒りが足りないのだ。彼女の話を聞いて私は思った。原発のデメリットを隠し、安全神話を振りまき、ありうる最悪の事態から目をそむけ無防備だった政府と企業に対して、もっと怒っていいのだ。というか、怒らなきゃウソだ。自分たちの国なのだから。
そして、そんな政府と企業を育ててきたのは、どこかヨソの誰かではなく私たち国民なのだということを、ちゃんと目を開いて見ないといけない。
この震災と原発事故のパニックのあと、2ヶ月が過ぎた今、少しずつみんなの中に疲れとあきらめが広がっているような気がする。原発についての報道がだんだん熱を失っていくようなのはなぜだろう。事態は好転どころか悪くなっているのに。
「何もできない」、そんなことはない。情報を集め、感性のアンテナをきちんと張っていたら必ずできることは見つかる。具体的な何か、ではなくても、この国のできるだけ多くの人が原発の今の状況をちゃんと監視するだけでも必ず変化につながる。
明石公園のあそぼうかい。今月は新緑の中で野点をすることになっていた。
ところが、あそぼうかい史上最高の豪雨。それでも子どもも大人も来るわ来るわ、広場のところのあずまやで雨を避けて30人くらい集まって、ぎゅうぎゅうになりながらお抹茶を点て、和菓子をいただいた。これはこれで野趣(?)ゆたかというか、楽しかった。
元気な子たちは雨の中飛び出して、ずぶぬれのドロドロになって遊んでいた。
この日は、原発を避けて関東から一時移住してきた親子も来られていた。土地に根づいて生きることも、自分の意思で安全な場所へ移って生きることも、それぞれの選択。
その親子は大自然の中にあるログハウスを借りて暮らし始めているのだそう。当然、車は必需品の暮らし。その日も高速使って2時間かけて来られたとか。
運転は得意なんですか? とそのお母さんに聞いてみたら、「はい。車があればどこへでも」。
ああ、これでなくちゃ。運転できるからにはこうでなくちゃ。とまた少し落ち込む私…。
いやいや、一歩ずつではないか。と思いつつ、愛車(きいちゃん)に乗って家に帰る。いまだ、自宅の車庫にきいちゃんをまっすぐ入れられないことも、気にするな。
すべては、あきらめないことで少しずつ進んでいく。きっとよい方へ。
とはいっても、相変わらず遠くにはとても行けないし、毎度毎度ひやりとしたりハラハラしたりの繰り返し。高速道路なんぞはいまだ宇宙空間だし、モノの役に立つ、というほどにはとてもなってない。
先日、近所の公会堂の集まりの特別企画として、福島に行ってきたOさんとIくんの報告会をやった。Oさんは自分の車に、みんなから寄付されたレゴや食料をいっぱい積み込んで明け方に明石を出て、夕方会津若松に到着したそうだ。
そうだよ、車を運転するというんなら、こういうことができなきゃ。そしてOさんはさらに会津でお米を山ほど積み込んで、南相馬の避難所まで行ったそうだ。これらは車があってこその仕事。というか、自由に運転ができてこその仕事。私はいつかこんなことができるのかしらん。目の前にある淡路島にすら橋を渡って行けないというのに。
せいぜい今のところは、父を乗せてコープに買い物に行くとか、母を病院に連れて行くとか、その程度のこと。それでもささやかに、必死の運転が人の役に立っている…といえなくはないか。
この報告会には、いつもの公会堂の集まりに来たことがない人たちも何人も来られた。
震災のこと、原発のこと、みんな何とかしたい、何かをしたいと思いながら「何もできないでいる」というのが共通の気持ちなのだなあと思った。
この日は神戸で脱原発のデモ(というよりパレードという感じだったらしい)があり、そこから帰ってきた人も何人か来ていた。
いつもにこにこして穏やかな友人がいて、私はその人がそばにいると気持ちが落ち着くのだけれど、彼女が福島原発の一号機が爆発したオブジェを自作して頭にかぶって歩いた、というのを聞いて度肝を抜かれた。
ずっと昔から原発建設に反対してきた彼女は、今回の原発事故に関して「はらわたが煮えくり返って何も手につかない。こんなことになってまだ原発続ける、作ると言ってる人がいるなんて」と話した。「農家の手伝いに行って土をさわっても、この土も汚染されていくのかと思うとたまらない。農家にとって作物は子どもみたいなもの。町で暮らす人にはこの気持ちはわからない」とも。
そうだ、怒りが足りないのだ。彼女の話を聞いて私は思った。原発のデメリットを隠し、安全神話を振りまき、ありうる最悪の事態から目をそむけ無防備だった政府と企業に対して、もっと怒っていいのだ。というか、怒らなきゃウソだ。自分たちの国なのだから。
そして、そんな政府と企業を育ててきたのは、どこかヨソの誰かではなく私たち国民なのだということを、ちゃんと目を開いて見ないといけない。
この震災と原発事故のパニックのあと、2ヶ月が過ぎた今、少しずつみんなの中に疲れとあきらめが広がっているような気がする。原発についての報道がだんだん熱を失っていくようなのはなぜだろう。事態は好転どころか悪くなっているのに。
「何もできない」、そんなことはない。情報を集め、感性のアンテナをきちんと張っていたら必ずできることは見つかる。具体的な何か、ではなくても、この国のできるだけ多くの人が原発の今の状況をちゃんと監視するだけでも必ず変化につながる。
明石公園のあそぼうかい。今月は新緑の中で野点をすることになっていた。
ところが、あそぼうかい史上最高の豪雨。それでも子どもも大人も来るわ来るわ、広場のところのあずまやで雨を避けて30人くらい集まって、ぎゅうぎゅうになりながらお抹茶を点て、和菓子をいただいた。これはこれで野趣(?)ゆたかというか、楽しかった。
元気な子たちは雨の中飛び出して、ずぶぬれのドロドロになって遊んでいた。
この日は、原発を避けて関東から一時移住してきた親子も来られていた。土地に根づいて生きることも、自分の意思で安全な場所へ移って生きることも、それぞれの選択。
その親子は大自然の中にあるログハウスを借りて暮らし始めているのだそう。当然、車は必需品の暮らし。その日も高速使って2時間かけて来られたとか。
運転は得意なんですか? とそのお母さんに聞いてみたら、「はい。車があればどこへでも」。
ああ、これでなくちゃ。運転できるからにはこうでなくちゃ。とまた少し落ち込む私…。
いやいや、一歩ずつではないか。と思いつつ、愛車(きいちゃん)に乗って家に帰る。いまだ、自宅の車庫にきいちゃんをまっすぐ入れられないことも、気にするな。
すべては、あきらめないことで少しずつ進んでいく。きっとよい方へ。
by higurashizoshi
| 2011-05-14 23:35
| 雑感