ひぐらしだより
S | M | T | W | T | F | S |
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 |
《よろこび》について
日々仕事をし、自分の中の課題を追いかけ、好きなものを追いかけ、そうやって忙しく生きている。生きている中には、しんどいことも嫌なことももちろんたくさんあるけれど、《好き》を追求する心はたぶん、私は人一倍強いと思う。本を読み映画館に通い、絵画を求め、芝居を観にいき、旅にも出る。いろんな人たちに会い、時間をともにする。
そう考えてみると、私には、何かに夢中になる、という経験は多い。熱中すると周囲が視界から消えるほど何かに没入する。それはたしかによろこびであるといえる。
けれど、何もかも忘れてよろこびにひたる、ということはまずない。
いろいろな事情に取り巻かれている大人であれば誰しもそうだろう、とも思うけれど、どんなときも心のどこかに確実なブレーキ機能があって、常にそれを意識している。
病気の家族をいつも抱えてきたこの数十年、もはや習い性になった不安と、あきらめへの準備。
そして私自身の奥につねにある、安心して何かに身をあずけきってはいけない、それは危険であるというサイン。
よろこびを感じはじめた瞬間、かならずどこかから立ちのぼってくる昏い声のようなものがある。
おそらく、私の場合は《詩や小説を書く》という作業だけが、ほぼそこから離れて過ごせる唯一の場で、それは創作することによって別の世界を自分の中に構築できるからなのだと思う。
ただしそれは当然、解放された楽しいだけの時間ではなく、《書く》ことは、ときにつらい道程でもある。
それなくしては生きていけないけれど、しんどさともつねにつき合っていかなければならない。
つまり、これもまたアンビバレントで、《ただ、よろこびに満ちる》こととは遠い作業なのである。
という、毎度たいへんめんどくさい自分を抱えて、この夏の終わりにある駅にいたとき、ふと目にとまったポスターがあった。
それは、日本の暮れの風物詩、ベートーベンの第九を地元の大ホールで歌いましょうというポスターだった。
ベートーベンの中で第九はそんなに好きじゃないし、これまで歌いたいと思ったことはなかったはず。
はず、というのは、なぜかそのポスターを見た瞬間、「あ、私、これやる」と思ったからだ。
合唱は高校時代、コンクール志向の体育会系合唱部でガンガンやって、あとは大学で演奏会に出来心で一度出て以来、まったく縁がない。
歌うことは好きで一時ボイストレーニングを受けたこともあったけど、ぜんぜんうまいわけじゃない。
いや、そもそも合唱っていう集団行動は、ヘンクツな孤立人間に成長した自分にとってはまったくの逆指向である、と思い定めていたはずなのに。
だのにだのに、なんでかわからないけど「これやる」と思い、申し込み、先月から練習に参加している。
最初はとっても戸惑った。
周りは第九経験者ばかりの中、ドイツ語歌詞どころかメロディすらまるでわかってない私。
聴いても聴いても、やっぱり楽曲として大して好きになれない第九。
モソモソとみなさんのあとをついて練習して、家でも楽譜を見て覚えて、うーんこれ楽しいのかな? なんで私これやるって思ったんだろ? とハテナだらけの日々だった。
それが、練習を始めて一ヶ月半、初めての本番ホールでの合同練習も終えて、少しずつ楽曲の輪郭が見えてきた気がした先日。
少人数での練習中、自分の中でなにかがふわりとなって、歌いながらちょっと空中にいる感じがした。
おお、なんだこれは?
その直後、声楽家である先生がこんな話をされた。
「音楽なんて、世の中の効率や金儲けから一番遠いところにある。何かあれば一番に切り捨てられてしまうもんですよ。でも、生きていく中で、これこそが大切なものじゃないですか? 音楽という美しいもの、よろこび、これが生きるって、生きてるってことだと僕は思う。それを少しでも人に伝えたくて僕はこの仕事をしてるんです」
あー。
先生!
そのとき私は理解した。あの「ふわり」と「空中にいる感」の名前を。
あれは、どんなうしろめたさとも、不安とも無縁な、とても単純な《よろこび》だったんだと。
身体を楽器にして音を鳴らす、そして人と共鳴する。
大昔に書かれた楽譜をなぞりながら、無心に歌を響かせる。
まだほんとに少しの滞空時間だったけれど、確実にあのとき、私は《よろこび》の中に浮いていた。
それは、なんというか、《ただ、ある》とか、《ただ、いる》という感じだった。
熱も帯びていなければ、情緒的でもない。
理屈立ってもいないし、うしろも前もない。
ああ、こういうことだったのか。
なんてシンプルで、そしてなんて私にとっては難しいことだったろう。
ほんのちょっと味わったその《よろこび》に、また会えるだろうか?
なかなか上達しない中で、このあとどんどん《よろこび》が増えていくという都合のいいことにはならないだろうけれど、もう一度、いやできれば何度かは、会いたい。
そう思って12月末の本番までの練習を過ごしたい。
先生がいつも言っている、「よろこびをお客さんにも届けてあげる気持ちで歌うんですよ」というところまでは、とてもとてもいかないだろうけど。
***
「Japan Open」昨日でした。いよいよ競技シーズンが本格的に始まっています。
次回から、またフィギュアスケートのことをぼちぼちと書こうと思います。
そう考えてみると、私には、何かに夢中になる、という経験は多い。熱中すると周囲が視界から消えるほど何かに没入する。それはたしかによろこびであるといえる。
けれど、何もかも忘れてよろこびにひたる、ということはまずない。
いろいろな事情に取り巻かれている大人であれば誰しもそうだろう、とも思うけれど、どんなときも心のどこかに確実なブレーキ機能があって、常にそれを意識している。
病気の家族をいつも抱えてきたこの数十年、もはや習い性になった不安と、あきらめへの準備。
そして私自身の奥につねにある、安心して何かに身をあずけきってはいけない、それは危険であるというサイン。
よろこびを感じはじめた瞬間、かならずどこかから立ちのぼってくる昏い声のようなものがある。
おそらく、私の場合は《詩や小説を書く》という作業だけが、ほぼそこから離れて過ごせる唯一の場で、それは創作することによって別の世界を自分の中に構築できるからなのだと思う。
ただしそれは当然、解放された楽しいだけの時間ではなく、《書く》ことは、ときにつらい道程でもある。
それなくしては生きていけないけれど、しんどさともつねにつき合っていかなければならない。
つまり、これもまたアンビバレントで、《ただ、よろこびに満ちる》こととは遠い作業なのである。
という、毎度たいへんめんどくさい自分を抱えて、この夏の終わりにある駅にいたとき、ふと目にとまったポスターがあった。
それは、日本の暮れの風物詩、ベートーベンの第九を地元の大ホールで歌いましょうというポスターだった。
ベートーベンの中で第九はそんなに好きじゃないし、これまで歌いたいと思ったことはなかったはず。
はず、というのは、なぜかそのポスターを見た瞬間、「あ、私、これやる」と思ったからだ。
合唱は高校時代、コンクール志向の体育会系合唱部でガンガンやって、あとは大学で演奏会に出来心で一度出て以来、まったく縁がない。
歌うことは好きで一時ボイストレーニングを受けたこともあったけど、ぜんぜんうまいわけじゃない。
いや、そもそも合唱っていう集団行動は、ヘンクツな孤立人間に成長した自分にとってはまったくの逆指向である、と思い定めていたはずなのに。
だのにだのに、なんでかわからないけど「これやる」と思い、申し込み、先月から練習に参加している。
最初はとっても戸惑った。
周りは第九経験者ばかりの中、ドイツ語歌詞どころかメロディすらまるでわかってない私。
聴いても聴いても、やっぱり楽曲として大して好きになれない第九。
モソモソとみなさんのあとをついて練習して、家でも楽譜を見て覚えて、うーんこれ楽しいのかな? なんで私これやるって思ったんだろ? とハテナだらけの日々だった。
それが、練習を始めて一ヶ月半、初めての本番ホールでの合同練習も終えて、少しずつ楽曲の輪郭が見えてきた気がした先日。
少人数での練習中、自分の中でなにかがふわりとなって、歌いながらちょっと空中にいる感じがした。
おお、なんだこれは?
その直後、声楽家である先生がこんな話をされた。
「音楽なんて、世の中の効率や金儲けから一番遠いところにある。何かあれば一番に切り捨てられてしまうもんですよ。でも、生きていく中で、これこそが大切なものじゃないですか? 音楽という美しいもの、よろこび、これが生きるって、生きてるってことだと僕は思う。それを少しでも人に伝えたくて僕はこの仕事をしてるんです」
あー。
先生!
そのとき私は理解した。あの「ふわり」と「空中にいる感」の名前を。
あれは、どんなうしろめたさとも、不安とも無縁な、とても単純な《よろこび》だったんだと。
身体を楽器にして音を鳴らす、そして人と共鳴する。
大昔に書かれた楽譜をなぞりながら、無心に歌を響かせる。
まだほんとに少しの滞空時間だったけれど、確実にあのとき、私は《よろこび》の中に浮いていた。
それは、なんというか、《ただ、ある》とか、《ただ、いる》という感じだった。
熱も帯びていなければ、情緒的でもない。
理屈立ってもいないし、うしろも前もない。
ああ、こういうことだったのか。
なんてシンプルで、そしてなんて私にとっては難しいことだったろう。
ほんのちょっと味わったその《よろこび》に、また会えるだろうか?
なかなか上達しない中で、このあとどんどん《よろこび》が増えていくという都合のいいことにはならないだろうけれど、もう一度、いやできれば何度かは、会いたい。
そう思って12月末の本番までの練習を過ごしたい。
先生がいつも言っている、「よろこびをお客さんにも届けてあげる気持ちで歌うんですよ」というところまでは、とてもとてもいかないだろうけど。
***
「Japan Open」昨日でした。いよいよ競技シーズンが本格的に始まっています。
次回から、またフィギュアスケートのことをぼちぼちと書こうと思います。
by higurashizoshi
| 2015-10-04 12:48
| 雑感