ひぐらしだより
S | M | T | W | T | F | S |
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 |
2冊の本~クライマー山野井夫妻(2)
小さいころから私は、高いところに登るのが好きだった。木の上、塀の上、崖の上…どこにでも登った。高くて怖いと思った記憶がない。
高いところ好きのくせに、私は運動神経が鈍かった。そういう子はどうなるかというと、必死に登ったあと、しばしば落下するのである。
5歳くらいのころ、登り棒のてっぺんに手を離して立ち上がったら、まっさかさまに落ちた。あごから面白いほど出血して胸が真っ赤になった。
そして何の反省もなく、ケガが癒えるとまた高いところを見つけては登っていた…記憶がある。そんな懲りない子どもだった。
山野井泰史という人も、幼いときから高いところが好きで、恐怖心がまったくなかったそうだ。
恐怖心がないというより、友だちがびっくりするような高所に登りきり、ぶらさがったりしているときにこそ、生の喜びと実感があったという。
私なんぞと違って敏捷で、運動能力も高かった山野井さんは、そこを原点にして中学時代からクライマーとしての道を歩き出した。
高いところを見上げて、登りたいと思う人と、思わない人がいるだろう。
登ってみたいけど、あんまり大変ならやめよう、と思う人もいる。
なんのために苦労して、わざわざ高いところに登るんだ? という人もいる。
それでも登りたい人は登る。危険をおかしても登る。ただ、登りたいから。
それはたぶん、《血が呼ぶ》感じである。ちょっと動物に近い感じともいえる。
けれど動物なら無駄なことに労力はつかわない。獲物もない高所に、死も賭して登ったりなど、ぜったいにしない。
だからクライマーは奇妙な生きものである。動物のように岩にとりつき、氷を削り、体力の限界を超える苦難とたたかって、何もない頂上を目指す。
Nスペ『夫婦で挑んだ白夜の大岩壁』での痛恨の録画失敗のあと、パソコンに取りついた私は、山野井泰史さんの情報に次々ふれていった。
あのあと、山野井夫妻は無事、グリーンランドの大岩壁に登頂をはたしたらしい。
ということはわかったが、もっと知りたいという勢いは止まらない。
そして彼について書かれた本を調べ、アマゾンで2冊を買った。
沢木耕太郎著の『凍』(新潮社)と、
山野井泰史さんの自著『垂直の記憶』(山と渓谷社)。
『凍』は、その名のとおり、山野井夫妻が雪崩で遭難し、ふたり合わせて28本(!)の手足の指を凍傷で失うことになった、2002年のヒマラヤ・ギャチュンカン登頂を中心に描かれたノンフィクションだ。
私はまずこちらを先に読んだ。
クライミングに関してはまったくの素人だという沢木耕太郎が取材をもとに書いた本である。
さらに素人である私は、とりあえず外側から見て描かれた物語を読もうと思った。
クライミングのクの字も知らない人間には、それでも当然、わかりづらいところがあった。
それでも実にドラマチックな、息詰まる内容が、著者らしいスタイリッシュな文章で書かれていて、一気に読みきらせる力があった。
でも、読み終えて、息をついてみると、なんとなく腑に落ちないというか、実感が伝わってこないところがある。
なんというか、ちょっと、カッコよすぎる感じなのである。
そして山野井泰史・妙子という稀有なクライマーにして稀有なカップルの、その生な実像がいまひとつ見えてこない。
私はたまたま先に映像でふたりを見ていたので、どうもこの本の中のふたりと微妙に重ならないぞ、という感想を抱いた。
Nスぺの映像の中のふたりは、とにかく自然体で、注意深いがまるでキリキリしたところがなく、手足の指がごっそりないのも別にどうということもないわね、という淡々とした感じだった。
もちろん、ギャチュンカンの遭難から5年たっている映像ではあるのだが、この不屈の魂をもちつつ「世界一平熱夫婦」みたいな感じは一体なんなのだろう?
そこで私はいよいよ、山野井泰史さん本人が書いた、ギャチュンカン遭難をも含む半生記『垂直の記憶ー岩と雪の7章』を読みはじめた。
高いところ好きのくせに、私は運動神経が鈍かった。そういう子はどうなるかというと、必死に登ったあと、しばしば落下するのである。
5歳くらいのころ、登り棒のてっぺんに手を離して立ち上がったら、まっさかさまに落ちた。あごから面白いほど出血して胸が真っ赤になった。
そして何の反省もなく、ケガが癒えるとまた高いところを見つけては登っていた…記憶がある。そんな懲りない子どもだった。
山野井泰史という人も、幼いときから高いところが好きで、恐怖心がまったくなかったそうだ。
恐怖心がないというより、友だちがびっくりするような高所に登りきり、ぶらさがったりしているときにこそ、生の喜びと実感があったという。
私なんぞと違って敏捷で、運動能力も高かった山野井さんは、そこを原点にして中学時代からクライマーとしての道を歩き出した。
高いところを見上げて、登りたいと思う人と、思わない人がいるだろう。
登ってみたいけど、あんまり大変ならやめよう、と思う人もいる。
なんのために苦労して、わざわざ高いところに登るんだ? という人もいる。
それでも登りたい人は登る。危険をおかしても登る。ただ、登りたいから。
それはたぶん、《血が呼ぶ》感じである。ちょっと動物に近い感じともいえる。
けれど動物なら無駄なことに労力はつかわない。獲物もない高所に、死も賭して登ったりなど、ぜったいにしない。
だからクライマーは奇妙な生きものである。動物のように岩にとりつき、氷を削り、体力の限界を超える苦難とたたかって、何もない頂上を目指す。
Nスペ『夫婦で挑んだ白夜の大岩壁』での痛恨の録画失敗のあと、パソコンに取りついた私は、山野井泰史さんの情報に次々ふれていった。
あのあと、山野井夫妻は無事、グリーンランドの大岩壁に登頂をはたしたらしい。
ということはわかったが、もっと知りたいという勢いは止まらない。
そして彼について書かれた本を調べ、アマゾンで2冊を買った。
沢木耕太郎著の『凍』(新潮社)と、
山野井泰史さんの自著『垂直の記憶』(山と渓谷社)。
『凍』は、その名のとおり、山野井夫妻が雪崩で遭難し、ふたり合わせて28本(!)の手足の指を凍傷で失うことになった、2002年のヒマラヤ・ギャチュンカン登頂を中心に描かれたノンフィクションだ。
私はまずこちらを先に読んだ。
クライミングに関してはまったくの素人だという沢木耕太郎が取材をもとに書いた本である。
さらに素人である私は、とりあえず外側から見て描かれた物語を読もうと思った。
クライミングのクの字も知らない人間には、それでも当然、わかりづらいところがあった。
それでも実にドラマチックな、息詰まる内容が、著者らしいスタイリッシュな文章で書かれていて、一気に読みきらせる力があった。
でも、読み終えて、息をついてみると、なんとなく腑に落ちないというか、実感が伝わってこないところがある。
なんというか、ちょっと、カッコよすぎる感じなのである。
そして山野井泰史・妙子という稀有なクライマーにして稀有なカップルの、その生な実像がいまひとつ見えてこない。
私はたまたま先に映像でふたりを見ていたので、どうもこの本の中のふたりと微妙に重ならないぞ、という感想を抱いた。
Nスぺの映像の中のふたりは、とにかく自然体で、注意深いがまるでキリキリしたところがなく、手足の指がごっそりないのも別にどうということもないわね、という淡々とした感じだった。
もちろん、ギャチュンカンの遭難から5年たっている映像ではあるのだが、この不屈の魂をもちつつ「世界一平熱夫婦」みたいな感じは一体なんなのだろう?
そこで私はいよいよ、山野井泰史さん本人が書いた、ギャチュンカン遭難をも含む半生記『垂直の記憶ー岩と雪の7章』を読みはじめた。
by higurashizoshi
| 2008-05-09 17:48
| 観る・読む・書く・聴く