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ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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カミングアウト・レターズ (2)

カミングアウト・レターズ (2)_d0153627_22133977.jpgドラマにもなった大人気マンガ『のだめカンタービレ』の中に、真澄ちゃんという、いわゆる《おネエキャラ》な男の子が出てくる。
真澄ちゃんは主人公・のだめが恋する千秋真一に対して、長年純情な片思いを寄せているという設定。
そのことを初めてのだめが知ったとき、のだめは「…千秋先輩は男ですヨ?」と驚く。
それに対して友人の峰龍太郎は真澄ちゃんのことを、こう説明する。「そういうシュミの人だ」。

真澄ちゃんをコミカルだけど好意的に描いているこのマンガの中で、たいていの人はこの部分に違和感を感じないと思う。
私も最初は、何となく読み過ごしていた。でも、最近になって、どうも気になってきた。
峰くんの説明には、同性愛は「シュミ」つまり嗜好であるという、何となく一般に考えられている感覚が表れている。
私も以前は思っていた。同性愛というのは、いわば「シュミ」の問題、恋愛の中のいわば変種みたいなものなんだろう、と。
もちろん、「シュミ」で同性に恋する人もいるかもしれないが、自分を同性愛者と認識する人にとっては、「シュミ」どころかそれは変更不可能なこと――異性愛者が異性しか愛さないのとまったく同じことなんだ、ということ。それが、やっとこのごろ納得できてきた。
だから、同性愛者が自然な存在として認められないどころか、「異常」「気持ち悪い」というような反応をされたら、自分という存在を丸ごと否定されることになるだろう、ということも、少しずつ実感できるようになってきた。

「カミングアウト・レターズ」を読んで、私はまず、同性愛者が子ども時代からどんな気持ちで生きていかなければならないか、に胸をさされた。
子どものころから自分が同性にしか惹かれないと気づいた場合、たいていその子はそのことを隠し、自分をいつわって生きていく。
世界中に、自分のような存在はほかにいないだろうという孤独感。自分は異常なんだろうかという不安。
世の中には同性愛を笑いのネタにし、軽蔑する空気がいっぱいだ。
誰にも自分の本当の姿を見せられない、打ち明けられないとしたら、その子はどれほどの孤独の中を生きなければならないだろう。

この本は、同性愛者である(おもに若い)人たちと、その親や教師との往復書簡が中心になっている。
これまで、セクシャル・マイノリティ当事者の書いた自伝的な本はけっこうあったし、私も何冊か読んだことがある。
でも、こうやって当事者と、世代の違う異性愛者である親・教師をつなぐ形の本、というのは初めてだと思う。

最初の手紙、27歳の昌志さんから、55歳の母へ。タイトルは『母さん、あのとき泣いてたか』。
「俺、ゲイやねん」。そう母にカミングアウトした20歳のときのことを思い返し、昌志さんは書く。
一生、親に嘘をつき続けて生きていきたくなかったこと。でも、カミングアウトしたとき、母を死ぬほど怖がらせてしまったつらさ。それでも受けいれてくれたことへの、心からの感謝。

それに対する、お母さんからの返信に胸をうたれる。
昌志さんからゲイであることを知らされたときのこと。
《『母さん、俺、人を殺してしまった』と言われたみたいに、怖くて怖くて、ただ、あなたが壊れてしまわないように、引き止めるために聞いていた。》
当たり前のように異性愛の世界だけで生きている人にとって、自分の身内が、ましてわが子が同性愛者だというのは、まさに青天の霹靂。
いずれいい人と家庭を持って、孫を抱かせてほしいというような平凡な夢が崩れるだけではない。
まったく異世界のことと思っていた同性愛が、わが子の中にある。それをにわかに受けいれられる親は、まずいないだろう。
人を殺してしまったと言われたみたいに、というこのお母さんの表現は、それを端的に表していると思う。

そして、このお母さんは書いている。
《『これはわが家に降りかかった災厄なんだ』という間違った思い込み(あなたが隠れて生きなければならない子で、外を歩けば石を投げられるかのような恐怖心)から脱するまで、私は一人で闘わなければならなかったのです。》
本当の自分を知ってもらいたい一念でカミングアウトした息子を、まっすぐ受けいれられるようになるまでには、長い時間と苦しみが必要だったと思う。
今では同性愛についてたくさんの理解を深め、息子とお互いに率直でいられる関係になっているこのお母さんは、カミングアウトを受けておびえ、狼狽したその日のことをこう書く。
《もし人生がやり直せるなら、私はあの日をやり直したいと思うでしょう。『何も心配しなくていいよ』って、あなたに言ってあげたい。》

たとえばここで、「同性愛」を「不登校」に置き換えたら、と私は読みながらつい考えてしまった。
もちろん、「不登校」は持って生まれた性質などではない。でも、たとえばわが子が不登校になったら、多くの親は狼狽し、子どもへ期待していた人生設計がガラガラと崩れ、顔を上げて外を歩けなくなったりする。
今の社会で、不登校であるわが子をありのままに受けいれることはたやすくない。ほとんどの親は、学校に行く人生しか知らない。異性愛者である親が、同性愛者である子どもを受けいれがたいのと同じように、不登校の子の親は、学校に行かないわが子をなかなか受容できない。
私は自分も含め、子どもが不登校になり、それを受けとめて親子で新しい道を歩むようになった人を身近に多く知っているけれど、最初からすんなりわが子の不登校を受けいれられた人はやはり少ないと思う。
それは学校に行かないことが、まるで人の道からはずれているかのような世間の価値観があるからだ。そして、そんな選択をしたら子どもの将来はないのではという、根底からの不安にとらえられてしまうからだ。
そのあたり、カミングアウトを受けた親たちと、共通するものがあるように思えてならない。

タタが学校に行けなくなったころのことを思い返し、私にはこの本に登場する、特にお母さんたちのことがまったく人ごととは思えなかった。私もまた、自分の中のモノサシを何度も何度も新しくしながら、長い時間をかけてタタの現実を受けいれていったと思うからだ。
そして、最初のころにもっともっとわかってあげていたら、もう少しタタを苦しめずにすんだのではと思うことも多い。
《もし人生がやり直せるなら、私はあの日をやり直したいと思うでしょう。『何も心配しなくていいよ』って、あなたに言ってあげたい。》
この言葉を、ほんとうにその通りだ、と自分について思い返しながら読んだ。

ついつい長くなってしまったので、また次の機会にこの続きを書こうと思う。
by higurashizoshi | 2008-06-23 22:15 | 観る・読む・書く・聴く

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