ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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先生と『白痴』

出会いの運が悪いのか、私の性格がひねくれているからか、これまでの人生で心から「先生」と呼べる人に、あまり出会ったことがない。学校時代に教師をそう呼んでいたのは、ただきまりごとに従っただけ(ここがすでにひねくれもの)で、敬愛できる師と思える人は、その中にはほとんどいなかった。
そんな私にとってほんとうにわずか数人、いつまでも「先生」として大切に慕う人たちがいる。神戸の詩人・君本昌久さんも、そのひとりだ。

20代のはじめのころ、一時期私は故郷の神戸に帰ってアルバイト生活をしていた。
そのほんの一年足らずの期間に、「市民の学校」という小さな文学学校の、詩の教室に通った。そこで君本先生と出会ったのだ。
初老の先生は眼光鋭く、笑顔は優しく、天才肌の少年のような人だった。戦争を憎み、弱い人、虐げられた人へのまなざしは暖かかった。
先生は「市民の学校」の運営のほかにも蜘蛛出版社という小さな詩の出版社をひとりで経営し、神戸周辺の詩人たちの要のような存在だった。
作品批評のときはとても厳しく怖い、とみんなに言われていたが、私は先生を怖いと思ったことは一度もなかった。いつもどんな作品にも、はっしと真剣に向き合う先生の姿勢が心地よかった。
何かの詩人の集まりのとき、先生が誰かに私を紹介して、
「この人は自分のおしっこの詩を書く人なんやで」
と、とても楽しそうに言われたことがある。それを聞いて、「あ、私の詩を覚えててくれてるんだ」とうれしかった。(その詩はとても短い詩で、流れなかった涙が尿になって流れるという身体感覚の不思議を書いたものだ。)

その後、私は関東に引っ越して、長く暮らすことになったが、その間にも先生と手紙のやり取りをし、神戸に帰るたびにお会いしてはビールを飲んだ。
先生は飲むとどんどん陽気になりちょっと不良になり、詩について絵画について音楽について、いろいろな話を聞かせてくれた。そして私に、「書いてるか。書かなあかんで。書かなあかん。」といつも言われた。
けれど、私はだんだん詩を書かなくなり、散文を書くようになった。そのうち雑誌に文章を書くようになり、自分の書いたものが載った雑誌を先生に送った。
先生はそのたび、私の文章への批評をきちんと書いた手紙をくださった。そして最後にはいつも「あなたの本分は詩だと思う。詩を書いてください。」とあった。

先生の訃報を知ったのは、阪神淡路大震災の二年ほどあとだったと思う。その数年はすっかり先生と疎遠になっていて、最後にいただいた手紙にガンの手術をされたことが書かれており、ずっと気になりながらそのままになっていた。今から思うと、いつも「詩を書きなさい」と言われているのに私はどんどん詩から遠ざかっていたので、どこかに後ろめたさがあったのだ。
あとずさりするように先生から遠ざかったあと、先生は亡くなられた。東京の自宅で、新聞の訃報欄に君本昌久という名前を見て、茫然としたあと涙があふれた。先生のあの鋭い眼、いたずら好きの子どものような笑顔にもう一度会いたいと思った。

それから何年もたち、思いがけず東京から故郷に帰ることになったころ、私はふたたび詩を書きはじめていた。とはいっても、君本先生以外、かつて神戸で知り合った詩関係の仲間とはつきあいが続いていなかったし、外に出て新しい交流をつくる余裕もないまま数年が過ぎてきた。
それがついこの前、思いがけないことで、ある方から晩年の先生のことを聞いたのである。
いくつかのきっかけがあって、神戸で活躍されている福永祥子さんという詩人と電話でお話しする機会があった。福永さんは、かつて「市民の学校」で会った私を覚えておられて、思わず私は君本先生の話題を出した。話すと、福永さんも先生をとても敬愛していたことがすぐわかった。そして福永さんは、最後に先生に会ったときの思い出を聞かせてくださったのだ。

震災の翌年、つまり先生が亡くなる前の年のある夕方、福永さんは映画館へと急いでいた。
「なぜか観ておかないといけないような気持ちになって」、地元の名画座で上映されていた黒澤明の『白痴』を観ようとしていたのだ。
福永さんが映画館の入場口に通じる階段を上がろうとすると、ちょうど前の回を見終えたらしいおじいさんがひとり、杖をつきながらその階段を降りてくるところだった。
それはほんとうに質素な身なりをした、やせ細り見るからに頼りないおじいさんで、危ないと思った福永さんは思わず手助けをしようと近づいた。そしてそのおじいさんが君本先生であることに気づいて愕然としたのである。
「あのダンディな先生が…」と福永さんは思った。病を得ての、先生のあまりの変わりように福永さんは胸を衝かれていた。
けれど、福永さんを認めると「おお」と先生はぱっと顔を輝かせて、かつてのように闊達な表情になられ、「この映画を観に来たんか。…いい映画やから、ぜひ観ていったらいいよ」とにこにこして言われた。
先生が立ち去ったあと、福永さんはなぜかたまらなくなって、その場で声をあげてわあわあ泣いてしまった。「…それでそのまま帰ってしまって、映画は観られなかったんですよ。私、あほみたいでしょ。それが、君本先生にお会いした最後でした」
福永さんはそう話を終えられた。私は目に見えるように先生の姿を思い浮かべていた。
そして、泣いてしまって映画を観ずに帰った福永さんのことを、なんてすてきな人なんだろうと思った。そんなふうに人から想われるような先生だったな、と、改めて思った。

もしかすると、先生が最後に映画館で観た映画はその、福永さんが観ずに終わった『白痴』だったかもしれない。
そんなことを考えていた矢先に、BS2で『白痴』が放映された。こういう偶然が、人生ではときどきあるものだ。迷わず録画した私は、一昨日それを観た。
小津安二郎をちょっと観たことがあるくらいで、昔の邦画をまったく観ていない私には、世界のクロサワも未知の世界である。でもこれは「今、観るべし」というめぐり合わせなのだろう。
先生のことを思いながら観た『白痴』は苦く壮大な愛憎劇で、まるで人生は思い通りにならないと人々が歌いあっているような作品だった。12年前、震災で傷だらけになった神戸の街で、自身も重い病の中、先生はどんな思いでこの映画を観られたのだろう。
私はまた、たまらなく先生に会いたくなった。
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by higurashizoshi | 2008-08-01 13:42 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)
Commented by マッシー at 2008-08-02 22:07 x
すてきな方ですね、君本先生。
かわいがっていただいたことや、心に残った交流のことや、人が人とであって、生まれるかけがえのないもの。
それがとても、いとおしいですね。

わあわあ泣いた福永さんのお気持ちやhigurashizoshiさんの先生に会いたい気持ちがちょっぴりわかって、せつなくなりました。

私も学校の先生に、先生と呼びたい人にめぐりあっていないです。
大人になってから、約1名。その方との交流をこれからも大切にしたい、と改めて思いました。

Commented by higurashizoshi at 2008-08-03 12:49
マッシーさんにも、大人になってから出会った「先生」がいるんですね。
私、君本先生も含め「先生」と思える数人の方、なぜかみんなもう故人なんです。
「人生は、いつもちょっとだけ間にあわない」
是枝裕和監督の最新作『歩いても 歩いても』のコピーです。
ほんとうにそうだなあ、と思います。
でも自分の中に残る、「先生」からもらったものを生かしていくことはできるんですよね。

マッシーさんの、心に寄り添うコメント、とてもうれしかったです。

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