ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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カズオ・イシグロ 『わたしを離さないで』

d0153627_1733324.jpg不思議な小説である。
全編、キャシー・Hと名乗る若い女性の一人語りで物語は進む。
物語の最後まで、キャシーが誰に向かって語っているのかはよくわからない。
ときおりはさまれる、「あなたもご存知のように」という言葉から、聞き手は少なくともこのキャシーのいる世界の構造を知っている人物、ということになる。
実際の読み手である私たちは、もちろんその世界の構造を知らない。

冒頭、この物語の世界の時と場所は、はっきりと記されている。
「1990年代末、イギリス」。
だからこれを、私たちの知っているその時代の、私たちの知っているイギリスでの物語だと思って、読者は読みはじめる。
そして読みすすめるにつれ、少しずつ、違和感を感じ出す。
キャシーの語る、全寮制の学校での、幼少時からの細やかな思い出の数々。
陰湿ないじめ、複雑な友情や恋のかけひき、師弟関係の愛憎。それらは私たち読者の多くにとっても、ごく自然に共有できるような記憶だ。
それなのに、ぬぐいがたい何か奇妙な感じが、じわじわとふくれてくる。
しばしば当然のように出てくる言葉、「介護者」や「提供」とは何なのか。そもそも、キャシーたちの育ったへールシャムとは何のための学校なのか。なぜ、彼らの誰ひとりについても、家族の話は出てこないのか…。
外の世界と隔てられて、へールシャムだけで育ちながら、キャシーたちは「保護官」と呼ばれる教師たちから、外の世界がどうなっているかについて教わる。いずれここを卒業し、外へ出ていってから困らないように。
「保護官」たちは言う。あなたたちは特別な生徒なのです、と。だから体も心も健康にはぐくまれなければならない。無邪気にその言葉を受けとめて育った幼少期を過ぎ、彼らが成長するにつれ、あらわになっていく閉塞感や不安は、どこにつながっていくのか。
キャシーの、あくまで抑制のきいたおだやかな語り口の中で、そのことはゆっくりと明らかにされていく。

作者がこの物語を「1990年代末、イギリス」と明記して書きはじめていることの意味は、読み終わると深く重く心に落ちてくる。
これはSFやファンタジーのように、どこか別の世界の物語ではない。私たちの現実の物語なのですよ、と。
そして私たちは静かに戦慄しながら、まるでへールシャムの校庭や、出かけた海辺の町の小さな店の中でキャシーたちとともに過ごしたような思いにとらわれる。
やり場のない悲しみの感情もまた、どこかにぶつけるようなものではない。それは私たちの中へと静かに降りそそいで、この世界を見つめなおすことをうながしてくれる。

『わたしを離さないで』は、1954年生まれの日本人であり、イギリス文学の作家であるカズオ・イシグロが、2005年に発表した6番目の長編小説だ。
映画化された『日の名残り』を含め、イシグロの小説はイギリスの文学賞をいくつも受賞し高い評価を得てきたことは知っていたけれど、これまで何となく敬遠して、一作も読んだことはなかった。
5歳でイギリスに移住したというイシグロの中に、どれほど日本的なものが存在しつづけてきたのかはわからない。でも登場人物の感情の細かいひだまで造形していく、ちょっと執拗とも繊細ともいえる感覚に、私はどこか日本人的なものを感じた。
今回、ふとこの本を読んでみようと思ったのは、『わたしを離さないで』という書名に以前から惹かれるものを感じていて、ちょうど最近文庫化されたことを知ったから。邦訳の単行本が出たときに書評をちらりと見た記憶では、まるでSFかサイエンスミステリーのような取り上げ方がされていた気がするのだが、実際に読んでみた印象はまったく違っていた。繰り返すことになるけれど、これは私たちと無関係な別世界の物語なのではなく、あくまで「1990年代末、イギリス」を舞台にした、現代の、この社会の物語なのである。

タイトル(原題は『Never let me go』)は、作中に出てくる『夜に聞く歌』という曲の歌詞から取られている。語り手キャシーが少女のころに愛した曲だ。
この曲も、歌っているジュディ・ブリッジウォーターという歌手も、物語の外の世界には実在しない。けれど、キャシーたちの精一杯歩んだ生の意味を考えるとき、まるでその架空の曲が耳元でいつまでも周りつづけるような錯覚にとらわれてしまう。そしてキャシーたちと自分たちが、実は地続きの存在なのだということに気づいて、じっとたたずんでしまうのだ。
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by higurashizoshi | 2008-09-18 17:39 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(10)
Commented by ロックマン at 2008-09-22 16:49 x
こんにちは~
わたしも「わたしを離さないで」読みました。
とても不思議で、印象的なお話でした。

久しぶりに、ガツンとパンチをくらった本だったなぁ。
語り口は淡々としていて、話もドラマチックに進むわけでないのに。なぜかやめられなくなってしまい、一気に読みました。
わかるようでわからない、奇妙な感じにとらわれて、この違和感がなんなのか気になって、やめられないって感じ?
読み終わったあとは、なんともやりきれない気持ちでいっぱいでした。

わたしは、面白いと思って読んだ本でも、どんどん忘れていってしまう方です。
でも、「わたしを離さないで」は、いつまでもこころに残ると思います。
このあと、カズオ・シイグロの本を3冊読んだけど、この本がわたしはいちばんでした。

さて、今日はちゃんと送信できるかな?(いつもうちからはブロックされて送れないの)
Commented by higurashizoshi at 2008-09-23 20:20
ロックマンさん、ようこそ。
謎のブロックを越えて、ついにコメント届きましたよ~

この本は、ほんとに淡々とした語り口なのに、いつしか引きつけられて、
すっぽりその世界に入ってしまいますよね。
奇妙だな? と思ったそのときには、もう手遅れというような。
今回の文を書いたあと、カズオ・イシグロのインタビューを読んだんですが、
謎解き的なしかけのつもりはまったくなくて、読者に子どものような気持ちで
読んでほしいからこういう構造にしたんだと言っていました。

わたしも、がぜんこの人の別の作品が読みたくなって、次は何を読もうかな?
と思っています。
ロックマンさんはどの3冊を読んだのかな? 
またのおいでをお待ちしてますよ~。
Commented by マッシー at 2008-09-27 00:40 x
こんばんわー。higurashizoshiさんにいろいろ影響をいただいて、「アヒルと鴨のコインロッカー」を観ました。「転々」もかりてきて、これからです。今回の「私を離さないで」もひかれますねー。読んでみたいなー。
やりたいことがいろいろあって、そしてやらなきゃいけないことがあって、一日があっという間で、時間がいっぱい欲しいなー、と思うこのごろです。幸せな悩みです。ありがたいことです。
Commented by higurashizoshi at 2008-09-27 16:22
マッシーさん、そうなんですか、うれしいなぁ。
(なぜかまたコメントがダブって送信されていたので、ひとつ消させてもらいました。
よかったかな…)

『アヒルと鴨…』はどうでしたか?
『転々』については、そういえばブログに書いてなかったけど観ましたよ。
関節がやわらかくなる感じ(ところどころエビぞり混じり)の映画でした。
お楽しみに!

やりたいことがたくさんあるって感じられるのは、やっぱり幸せですよね。
やりたいことをひとつひとつ、かなえながら歩いていく。
そんなふうにイメージできて日々をすごせたらよいなあと思います。
Commented by ロックマン at 2008-09-27 20:19 x
うわーい!やっとコメント入ったぁ。
これでhigurashizoshiさんとおしゃべりできるようになって、うれしい!

わたしが読んだのは「遠い山なみの光」「日の名残り」「わたしが孤児だったころ」
どれもそれぞれにおもしろく読めました。

わたしもインタヴューを読んでみました。
higurashizoshiさんが読んだのと同じ文かな?(大野和基という人のインタヴュー)
その中で、わたしは
「子どもを人生の厳しい現実から守るために、子どもはバブルの中に入れられ、
大人は中に入れていい情報と入れてはいけない情報を慎重にコントロールする」
という部分にひかれました。

カズオイシグロは、すべての子ども時代は、そういうものだと言っていましたが
今の日本の子どもたちは、ヘタずると、ちゃんと守られていない気がします。
情報をコントロールされていない、あるいは入れていい情報と入れてはいけない情報を取り違えられているのではないでしょうか。
わたしは子ども時代に対して、カズオ・イシグロと同じようにイメージしていたので、
HEになって、やっと娘をバブルで包んで守れたかなと、感じています。
Commented by higurashizoshi at 2008-09-28 18:01
ロックマンさん、ほんと、やっとですよ~
よかったよかった。

カズオ・イシグロ、次は『遠い山なみの光』から読んでみようかなと
思っています。
インタビュー(その大野さんという方のでした)を読んで、イシグロは
日本を舞台にした作品を書くのに、書き終わるまで日本に行かなかった、
というのが印象的だったので。
5歳まで過ごした日本の、その記憶だけで書いたというのがとっても
興味深いです。

ロックマンさんの言う、バブルの話。
わたしもインタビューを読みながら、ああ確かに自分の子ども時代は
そんなふうだった、それがあたり前だったな…でも今の子どもたちは…?
と思いました。
甘やかすとか過保護ではなくて、大人が当然のこととして、いろんな
ことから子どもを守って包んでいる。
今は、そういう力を大人が手離しはじめ、子どもはむきだしの状態に
なってきているように感じます。
むずかしい時代です。大人の責任は、重いです。
Commented by マッシー at 2008-09-29 21:30 x
こんばんわ
アヒルと鴨…の感想ですが、
原作は全く読まずに観ました。
悪いことしているって思っていない「悪」ってたちが悪いなとぞっとします。それに巻き込まれたら、神様をロッカーにしまわなきゃ立ち向かえないっていうこの世の中って…。
ロッカーにしまって、最後にブータン人は車にひかれちゃうのか?そういう終わり方しかないのかよ…って思いました。もう一歩、深くいってほしいかな。
瑛太さんは良かった。それから濱田さんもすごく良かった。
映画の作り方として、おもしろい展開ですね。原作もこんな展開なのかな?

ただ、瑛太さんがブータン人を演じたところで、顔の色と首の色が違うのが嫌だった。映画がちゃっちくなっちゃうなーって思いました。

これからもいろんな映画の話、楽しみにしてます!
Commented by higurashizoshi at 2008-09-30 13:22
マッシーさん、感想教えてくれてうれしいです。
映画を観たあとで原作を読んだんですけど、私は映画の方がはるかに好きでした。
文体の好みの問題もあると思いますが、人物にリアルさを感じなくて。
映画は濱田くんはじめ、役者さんの功績、大きいと思います。

あと、顔の色と首の色が違ってるというの、気がつかなかったなー。
マッシーさんスルドイですね。そういう細かなところ、リアリティを作るのに
すごく大事ですよね。
あっでもちょっと肝心なことに触れちゃってません? 
…って、さらっといきますか、さらっと。
映画観てない人は、ここ読んでも気にせずスルーしてください。。。
Commented by マッシー at 2008-09-30 22:43 x
そうですよね。ちょっと、やっちゃいましたね。反省。

よかったら、私のコメント削除していただけますか?higurashizoshiさんに読ん
でもらったら、もう十分ですので。

これにめげずに、今後もコメントしますが、気をつけマース。よろしくお願いします。
Commented by higurashizoshi at 2008-10-01 11:06
いやいや、せっかくのコメント消すなんて、もったいない!
と、いうわけで気にせずいっちゃいましょう。ドンマイ。

こういう映画の場合、核心に触れないようにするのってホント
むずかしいですよね。
マッシーさんのコメント、いつも楽しみにしてるので、また
たくさん書き込んでくださいね~。

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