ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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カテゴリ:観る・読む・書く・聴く( 105 )

草野マサムネ声帯回復祈願

「来週はスピッツのライブだ!」
と前回書きましたが。
本当なら今日がその日。大阪フェスティバルホールでスピッツのツアーライブに行っているはずでした…
何度も何度も落選し、やっとつかんだチケット3枚。しかもミミは人生初ライブ。

しかしながら、草野マサムネくんの急性声帯炎により神戸、大阪公演は延期に。
すでに広島公演の2日目から急きょ休演になっていたようで、知らなかった私と娘たちは一時放心状態→真空状態になりましたが、その後さっさと気を取り直し「マサムネくんの声帯が回復しますように祈願」を個人的におこなっております。

で、その回復祈願の一環として、今日ポッカリとあいてしまった(ライブに行くはずだった)時間に、《スピッツを徹底的に歌う会》をやってきました。
ええ、世間では単にカラオケというそうですけどね。これはおごそかなる祈願なんですってば。

スピッツ、さすが古株バンドだけあって、今回のアルバム「小さな生き物」が9月に出てから、収録曲がカラオケに入るのが遅いこと、遅いこと。
前回カラオケ行ったときに「まだ2曲しか入ってないってどうゆうこと!?」と思わず機材を壊しかけた(うそです)私ですが、今日はジョイサウンドにちゃんと全曲入ってることを確認。
「これでええのや」
とふんぞりかえったのでした。
(しかし、あとで知ったところによると、12月に入ってからようやく全曲が入ったらしい。ピチピチしたバンドだったらこんな扱いじゃないんだろうなあ)

「bridge」のインタビューの写真をお借り。
近影を見るに、4人とも体型変わらず、雰囲気変わらず。ピチピチは確かに、してませんけど…
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「小さな生き物」は、3.11以降のスピッツが、特にすべての曲と詞を書いているボーカルの草野マサムネの、震災以降の思いや姿勢が詰まっているアルバム。
彼自身もインタビューなどで言っているように、ここから次のスピッツがはじまる、というくらい画期的な意味を持つアルバムだと思う。
デビューして20年以上もたつ、メンバーが40代なかばにもなっているバンドが、次の時代へ…というのもすごい話だけれども、それほどまでにアルバム「小さな生き物」はまっさらな決意と、目の覚めるようなみずみずしさにあふれている。
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震災当時、ちょうど前回のツアーライブ真っ最中で、マサムネくんがこのときは急性ストレス障害で倒れ、公演がしばらく中止になった。
震災のショックでまったく食事もとれない、動けない状態になったとのことで、「ああー当然だなあ」と私は思った。表現者としてとてもとても悔しかったと思うが、それだけ感情と身体が一致していることはある意味、表現者としてあるべき姿だとも感じられたから。


それだけに、その後回復してツアーにも復帰し、そしていよいよ次のアルバムに取りかかったと知ったときは「どんな曲を書いてくるのだろう」と息をつめて待つ気持ちだった。
そして「さらさら」「僕はきっと旅に出る」の2曲が先にシングル発売され、この2曲を私はいったいどれくらい繰り返し聴いただろう。
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よく憶えているのは、今年の5月に福島を訪れ、浜通りの津波跡から南会津までのひとり旅の最中に、ipodでひたすらこの2曲だけを聴きつづけていたこと。なぜかわからないけど、ほかの曲はまったく聴けなかったし、ずっとこの2曲を交代に聴きつづけていても飽きるとか嫌になるということが一切なかった。
むしろなんだかまるで薬のように、いや、薬というより痛いところにそっと当てるやわらかいタオルのように…その2曲を聴きつづけるのをやめることができなかった。
2曲とも震災の影響を濃く感じさせる歌詞ではあるが、マサムネくんらしくさりげなく、注意深く聴き込まなければさらっと深刻にならず聴けてしまう曲。
でも、だから救われたというか、あの旅で幾度も崩れそうになった感情を支えてくれたのかもしれない。


そして9月にやっと出たアルバム「小さな生き物」は、これまでのスピッツのアルバムとはやっぱり違うものだった。
何が違うのか、それはやはりたぶん《歌をつくることの意味》《それを人に届けることの意味》、もっといえば《歌をつくり、届ける自分が生きている意味》を草野マサムネが画然と自覚して、もう一度生き直すような気持ちでつくった作品だという点だと思う。
それにしても、ここまで再びというか新たにというか、みずみずしくなれるマサムネくんは本当にすごい人だ、と私はアルバム「小さな生き物」を何度も聴いては感嘆した。
そしてその作品を成立させているのがメンバーの演奏であり、マサムネくんの声であるわけだが、マサムネくん身体も壊しやすいけど喉も弱いのね。彼の喉の急変でツアーの途中で休演になったのは今回が初めてじゃないので。

私は、草野マサムネの作詞作曲能力とともに、その歌声は人間国宝級だと個人的に思っているので、今回もそうだけど彼が喉を壊すと「これは人類の宝(ショックのあまり国宝を飛び越えている)の危機じゃ!」とものすごく焦る。
いやまあ、単に彼の歌声がものすごく私の脳の快感中枢(?)にジャストミートして、どんなほかの声よりも私にとって治癒能力が高い…ということなんですけど、同じように感じている人はかなり多いのではなかろうか。私なんぞ、あの声が聴けなくなるかもと考えただけで残念とか悲しいとかじゃなく、恐怖を感じる。


というわけで、現在私は「高橋大輔の右足」「草野マサムネの声帯」という二大回復祈願をすることになっておるわけです。
今日は「小さな生き物」アルバム全曲を無事、きっちり歌って祈願してきたので、次はとりあえず全日本にむけて再び大ちゃんの右足回復祈願に力を入れることにしよう。
スピッツのツアーライブ広島2日目は5月に延期公演が決まったそうなので、神戸・大阪公演も同じ時期にやってくれるのではないか…と期待しつつ。どうかどうか声帯お大事に。
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by higurashizoshi | 2013-12-18 01:26 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

奈良の一日

実家からの緊急電話が来ないかな?来ませんように…と祈りつつ、今日はタタとミミと3人で奈良まで行ってきた。

明石でとっても仲良くなった友だちが、ずいぶん前に奈良に転居して、服作りをなりわいにしてコツコツと努力を続けてきた。
その彼女がこのたび初めての個展を開いたので、どうしても見に行きたくて、ずっと前から予定していたのだ。


奈良は2年ぶり。
まずはこの方たちにごあいさつ。
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「せんべい持ってへん?」
やっぱりシカさんは、きゅーとです。
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東大寺の大仏さんに会いに行く。
私は数十年ぶり。タタとミミは初めて。
正面から見上げたときはそう大きく感じなかったけれど、斜めから見ると、ほおお~。迫力。
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大きい、ということの意味をあらためて考えさせられる。
この大きさに守られてきた、いにしえからの幾多の人々の心。


そして一方、魔物や禍いと戦う神さまたち。
ううむ、このかっこよさはどう。
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こちら、南大門の金剛力士像の足部分。
モノクロで撮った、この足に惚れました。なんというリアル。
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ならまちへ移動。
細い路地にいろいろな楽しいお店がたくさん。
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ウインドウにも、シカやほとけさまがあちこちに。
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お昼ごはんのあと、いよいよ友だちの個展へ。
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「風の栖(かぜのすみか)」という、すてきなお店で開かれていた。
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最終日にようやく間に合った…
どきどき。
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服作りを本格的に始めたころ以来、彼女の作品を実際に見るのはとてもひさしぶり。
そして、会うのも3年ぶりくらいかな?
いったい、どんな世界が広がっているんだろう。


友だちといっても、彼女は私よりずっとずっと年下の、まだ20代。
初めて知り合った10代のころから、彼女はたくさんの試練をこえて、自分の足でここまで歩いてきた。
服作りという天職にめぐりあい、ものすごい熱量で自分の理想を追い求め、ひたすら仕事して仕事して…
大丈夫なのかな?って心配になるくらい、貪欲で、がんばりやさんで。

会場に入ると…
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彼女はちっともかわらない自然な笑顔で迎えてくれた。
タタとミミがおとなになった!とびっくりしていた。


並んでいる服たちを見て、手で触れたとき、なんだか泣きそうになった。
あんまりいきいきとした、美しい服たちなので。
そして、彼女が生きているかたちがここにある、と思えて。
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小物は全部売れてしまい、ワンピースをはじめ、服もほとんどが売約済みの札をまとっている。
生地のよさを生かし、こまかいところまで工夫の行き届いた、ほれぼれするような服ばかり。
これから、それぞれの場所で新しく、人を彩っていくのだなあ。
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まだ売れてなかったウールのワンピースが、あまりにミミに似合っていたので、思い切って!来月の誕生日祝いに購入することにした。
「ずっと大切に着ます」とミミ。

試着した写真を載せられないのが残念!
代わりに(?)「風の栖」のべっぴんさん、ひなたちゃんのお姿を。
うふふふーん。
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ミミだけに買うことになったのでタタはちょっとかわいそうだったけれど…
おばあさんになるまで着ようね、ミミ(脅迫)。

彼女と、搬出のお手伝いに来られていたご両親にもごあいさつして、とてもほかほかした気持ちで帰路についた。
古ーいお店で、奈良漬けも買いました。


彼女のブランド「草和花工房」のHPはこちら
作品をながめているだけで和んだ気持ちになります。
その和みは作者の、コツコツと積み上げてきた努力の上にあるのだと思うと、身の引きしまる思いもあって。



なんだかこのところ追われ、疲れていた気持ちがリセットされるようだった奈良の一日。
こんな日もあるから、人生は続いていく。
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by higurashizoshi | 2013-09-24 00:59 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

パルシネマで2本

2本立て1200円という低料金、女性用シートなどきめこまかい配慮、親切なスタッフ。
そしてカオスな街・新開地、福原界隈という立地。ゴージャスともスタイリッシュとも縁のない、昔ながらの映画館=《小屋》的なレトロさも含め、なんともいえない良さを感じる貴重な名画座、それが「パルシネマしんこうえん」
忙しい予定の合間に駆けつけて、一気に2本の映画を旅し、現実に戻るときには少し心が潤っていたり、自分の中に新しい何かが加わっている。

昨日は午前中の用事を終え、車でいったん家に戻って子どもたちと昼食のあと、ひとりで電車に乗り、パルシネマに行ってきた。こんなことができるようになったんだなあ…と改めて噛みしめつつ。

さて今回の作品は『最強のふたり』と『ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋』の2本。長いレビューを書く余裕がないので、ざっとメモ的な感想を書いておきたい。



d0153627_17524586.jpg最強のふたり

フランスで記録的大ヒット、日本でも大ヒット、すでにハリウッドリメイクも決まっている話題作(それにしてもハリウッドはなぜこうリメイクが好きなのか?やらずにいられないのか?)。
事故で首から下がすべて麻痺した大富豪の中年男フィリップと、貧民街育ちで前科のある黒人の若者ドリスが出会い、互いの人生が変化していくさまを描いた作品だ。

なんといっても、ドリス役のオマール・シーが魅力的。全身に生きるエネルギーがみなぎっていて、しかも押しつけがましくなく、ガタイがあんなにでっかいのに何ともいえず愛らしい。
全身のかもし出す雰囲気も素敵なのだが、顔がいい。なんて気持ちのいい、美しい顔なんだろう!と何度も見入ってしまった。私は常々、顔を見ればその人の品性も人となりもわかると思っている。こんな人にそばにいてもらったら、こんな魔法のようなことが起きるのではないか、と思わず信じたくなってしまう。

まったく介護経験もやる気もない若い男が、まったく階層のちがう、しかも重い障害を持った男を介護する。そこに化学反応が起きる。すべてをぶっちゃけで語り行動するドリスに心地よく揺さぶられ、解放されていくフィリップ。これは実話に基づく映画で、元になったドキュメンタリーがあるそうだが、ポイントのひとつはフィリップが大金持ちであることだろう。
経済的負担に耐えながら生活する多くの障害者から見れば、フィリップの何不自由ない生活も、何人もの専属スタッフがつく介護体制も、ほど遠い夢物語に過ぎない。そこを一種のファンタジーとして、フィリップが解放されていく物語を楽しんで受容することができるかどうかが鍵になると思う。
そのためには、どんなにお金があろうとあがなえない苦悩がフィリップの中にあることが観客に共感されなければいけないのだが、そのあたりが少し弱かったのではないかと私は思う。
今、老父を介護していて実感することだが、身体の自由がきかない苦しみ、排泄も含めたコントロールができないことの屈辱感、日々の細々とした苦労はエンドレスで、いつも絶望と背中合わせだ。にもかかわらず希望はあるのだ!と思わせるだけの根拠がこの作品にあるかどうか、というといささか難しいところだ。

だからこの映画はむしろ、比喩としての不自由――何かに閉じ込められ、がんじがらめになっている人が、まったく違う存在と出会い、予想外の形で自分を解放するというストーリーとして観るべきなのだろう。
フランス映画らしいしゃれたユーモアやエスプリ、変に《泣かせる》趣向などないさらりとした展開はこころよかった。クロワッサンを毎朝届ける男の子の前髪に注目!


む、メモ的に、といいながらやっぱり長くなる私の文…



ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋

d0153627_181392.jpg最初に言っておきたいが、この邦題はいただけない。クレイアニメの『ウォレスとグルミット』とまちがえそうだし(そんなことない?)、副題含めて長すぎて焦点がぼやけてしまう。なんかこう、もっとピリッとタイトな邦題がほしかったところで、もったいないと思う。

マドンナの監督第2作。1作目がかなりマニアックな感じだったので、ゴージャスな王室ものが来るとは意外だった。とはいっても、これはどこまで史実、どこまで空想なのか判然としない物語。軸足は現代ニューヨークにあり、ウォリーという若い女性がサザビーズでウィンザー公夫妻の遺品と出会うところから話は始まる。
ウィンザー公とは元のエドワード8世で、離婚歴もある人妻ウォリス・シンプソンとの恋の成就のために国王の位を捨てた人である。この《世紀の恋》の一部始終が、遺品を糸口にウォリスにのめりこんだウォリー(ややこしい!)の現実と並行して語られていく。

映画は二つの時代を小刻みに行き来するうえ、ウォリスとウォリーがどちらも黒髪で(あえてそうしているのだろうが)なので慣れないうちはちょっと混乱する。
現代のウォリーは夫との間に深刻な問題を抱えていて、いわば自己セラピーのような形で、ウォリスの人生をひもといていく。ウォリーを演じるアビー・コーニッシュも好演だが、ウォリスを演じているアンドレア・ライズブローという女優さんが巧い! ぼーとしたお坊ちゃまなエドワードを引き回し、策を弄し、一方で情熱的に愛を捧げる。全イギリスから憎悪されたとまで言われたウォリスを、あでやかな外面の奥の孤独や苦悩も含めて、たくみに造形している。

ウォリスの身につけるファッション、調度品のすべてが豪華絢爛で、凝ったカメラワークとともに、ものすごいごちそう感を味わえる。カルティエのてんこ盛りの一方で、セレブの乱痴気パーティーで流れるのはセックス・ピストルズ。あまりにも満腹でくらくらするので、現代のウォリーが窮地におちいったのを助けてくれる男エフゲニーの部屋の、がらんとしたシンプルさにほっとする。この部屋の書棚にリルケの「若き詩人への手紙」なんぞが置いてあるところがニクい。

映画の中ではウォリスもウォリーもともにDVを受けるのだが、女性が暴力にさらされる主題というのはフェミニストの闘士でもあるマドンナのテーマでもあるのだろう。
ちょうど今熟読中のスティーグ・ラーソン『ミレニアム』シリーズがこの主題に貫かれた話なので、そういう意味でも興味深かった。
『最強のふたり』メインで観に行ったのだけれど、こちらの方もなかなか見ごたえのある作品で面白かった。映画というものは、いつも予想以上の贈りものを私にくれる。


というわけで、今回も「パルシネマしんこうえん」に感謝!
おいしい映画をごちそうさまでした。
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by higurashizoshi | 2013-05-15 18:07 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

偽りなき者

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2012年公開 デンマーク
監督 トマス・ヴィンターベア
脚本 トマス・ヴィンターベア トビアス・リンホルム
出演 マッツ・ミケルセン アレクサンドラ・ラパポート トマス・ボー・ラーセン ラース・ランゼ 
アンヌ・ルイーセ・ハシング シーセ・ウォルド




デンマークの片田舎の小さな町に住むルーカスは42歳。
離婚と失職を経験した彼は、今は町の幼稚園の先生として勤めながらひとり暮らしをしている。ひとり暮らしとはいっても、子どもの頃からともに育った仲間たちに囲まれ、共同体の一員としてそれなりに充実した日々を送っていた。
あるとき、離婚のために別れ別れになった一人息子がルーカスのもとに来て暮らすことになり、彼の心は一気に明るくなる。おまけに職場の同僚の魅力的な女性との恋愛もはじまり、ルーカスの人生に再び光が射しはじめた矢先、信じられない暗転が訪れる。
幼なじみの親友テオの娘で5歳のクララが、ルーカスに性的虐待をうけたと言い出したのだ。
クララはルーカスの幼稚園の園児でもあり、犯行は園内でおこなわれたという。まったく身に覚えのないルーカスは必死に無実を訴えるが、またたく間にこの《事件》は園の保護者から共同体すべてに知れわたり、彼には《変質者》のレッテルが貼られ、身近な人々は手のひらを返したように次々とルーカスから離反していく。
そして懸命に父を信じて支えようとする息子の目の前で、ルーカスは逮捕され、警察に連行されてしまう。

やがて証拠不十分で釈放され、やっと息子との二人暮らしを再開するルーカスだが、本当の地獄はそこから始まった。司法の裁きを受けないのなら私刑を。憎悪ともいえるバッシングは、実際に暴力の形となって次々と彼を襲うようになる。
家の窓ガラスが何者かに割られる。食料品店で買い物を拒否され叩き出される。仕事を、仲間を、信頼を、そして生活の安全も失い、人としての尊厳を奪われて、生き延びるすべのない淵にまで追いやられるルーカス。
そしてある出来事を機に、どこまでも彼を信じてくれる息子も、数少ない擁護者の友人も遠ざけて、彼はたったひとりでこの現実と対峙していく道を選ぶ。
相手の見える暴力と、相手の姿の見えない暴力。後者がよりいっそう怖ろしいことを、この出来事は痛いほど私たちに訴えてくる。
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なぜ幼いクララは《嘘》をついたのか。
なぜルーカスはここまで追いつめられなければならないのか。
そして、ルーカスはこの絶望的な現実をどう生き延びていくのか。

ルーカスは決してヒーローではない。ちょっと依怙地なところのある、優しいが無骨で不器用な男だ。しかしマッツ・ミケルセン演じるこのルーカスは、抑えてもにじむ色香のある、ハンサムで魅力的な男でもある。そこが周囲の男たちとは違っている。
彼の離婚の理由は説明されないが、冒頭、別れた妻が息子を会わせたがらないことからも、こじれた経緯があったことが類推できる。そして彼以外全員が女性の幼稚園の職員の中で、いささか浮きながらも異性としての魅力をルーカスが放っていたことは疑いがない。
そんな彼に恋したのは同僚の女性だけではなかった。5歳のクララも、先生でもあり父の親友でもあるルーカスに、異性の香りを感じて恋していたのである。
あどけないクララの、ほのかな初めての恋。そのかわいらしい想いが、ある感情の行き違いと、偶然の重なりによって、おぞましい《事実》の告発に仕立て上げられていってしまう。そのリアリティには戦慄するほかない。

デンマークには、「子どもは嘘をつかない」という考えが根強いという。子どもの発言が軽んじられやすい日本とは逆に、子どもの言ったことは、子どもであるがゆえに信用される。
クララがあいまいに発したいくつかの言葉が、大人の受け取り方によって雪だるま式に《事件》として形づくられ、人々の動揺がそれに拍車をかける。誰もクララが告発したことを疑わない。実はクララは何も具体的なことを話していないにもかかわらず、である。
しかしそれは、この経緯をスクリーンのこちら側で見続けている私たちにわかることだ。クララをとりまく大人たちはまったく客観的になろうとしない。誰もがその肝心な点をおざなりにしたまま、一種のパニックにおちいり、ルーカスを糾弾する方へと走り出してしまうのである。
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なんて愚かな、と私たちは思う。でもそれは、ルーカスの無実を知り、クララが《嘘》をついたことを私たちが知っているからだ。
ではスクリーンの向こうと、こちら側を入れ替えたらどうなるだろうか。
真実を知るすべのない状態で、戦慄するような《事件》を目の前にしたら、私たちは同様にパニックにおちいり、悪者を糾弾することで安全を守ろうとするにちがいない。
映画の舞台になる町は、のどかで温かな人づきあいの息づく、地域性の高い町だ。ルーカスを追いつめるのはあくまで人間の手であって、ネットなどは登場しない。もし今の日本でこんなことが起きたとしたら、と考えると、標的にされる人間はもっと陰湿で深い、広範囲な悪意にさらされるはずだ。

しかし、そう思っていたのは映画のラストの手前までだった。
ルーカスの、人としての尊厳をかけた戦いがどんな着地をみたのか、それを見届けたつもりになった私たちは、最後の最後で虚をつかれる。しばらく席から立てないほどの衝撃を受けて動けなかった。

デンマークの田舎の伝統として、男たちがおこなう森での狩り。それがいかに人生の中で重要なものであるかが、この映画ではていねいに描かれる。男女平等の印象のつよい北欧の国だが、男だけの領分として「狩猟の免許を取ることが成人の証」とされるのだ。
映画の原題は『狩猟』。
鹿をもとめて銃を手に森を歩き回る男たちと、これから自分たちが標的になることも知らず、静かに歩き回る鹿たち。
彼らのうちの誰が、いつ選ばれるかはわからない。
いつ狩りだされるかわからない。
無垢な目で森を行く鹿たちが、私には人間ひとりひとりのように見えてならなかった。


何といっても、絶望の底をよろめきながら屈服せずに生き抜くルーカスを演じるマッツ・ミケルセンが本当にすばらしい。息子マルクス、そしてクララを演じる子役二人のみずみずしさも際立っている。
人間の不寛容と寛容の両方を、これほど鋭くあざやかに描き出した作品はめったにない。トマス・ヴィンターベア監督の前作『光のほうへ』もぜひ観てみなければと思った。

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by higurashizoshi | 2013-04-20 00:03 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

一日3本!@映画館

一日に3本も映画館で映画を観る、というのはたぶん、20代のころ以来ではないだろうか。

体力的に、というよりも感性のありさまが、おそらく若かりしころとは違ってきていて、昔ならオールナイトでヌーベルバーグ特集5本!とか平気で観られたところを、今はがんばっても一日に2本立てを観るのが精一杯。
20代の自分の感性だと、どんどん映画を観ても、バシッバシッとそれぞれの心のいれものに入れることができて、ハイ次!ハイ次!とわんこそばのようにいけたものが、今では一本観ると、「じわ~」と入ってきて、味わって、考えて、身になるところまで時間がかかる。とてもどんどん次を入れられる余裕なんてない。

それなのになぜ3本観ることになったかというと、そもそもがロベール・ブレッソンの『白夜』が何十年ぶりか?でニュープリント上映されるという話題に「はっ」となり、神戸でもやるというので心待ちにしていた。
神戸アートビレッジセンターでの上映スケジュールをチェックして、日を決めて、タタもミミも誘って。
すると前日になってタタが「どうせアートビレッジセンターで新開地行くんなら、パルシネマでやってる映画も観ようかな~」と言い出した。
確かに「パルシネマしんこうえん」は新開地からすぐ。考えればゼイタクな文化環境に住んでいるものです。
「パルシネマで何やってるの?」と聞くと、
「『ジェーン・エア』と『アウンサンスーチー』」とのこと(パルはいつも2本立て)。
「へー、でもそれも観たら、一日3本も観ることになるやん!さすが若いなー。ようやるわー」
と、完全ひとごとだったのだけど。

ふーん、ジェーン・エアかあ… 昔の映画なら観たな。新作はミア・ワシコウスカ主演だったよね。ミアはいいよね。『永遠の僕たち』もよかったな。
で、相手役がマイケル・ファスベンダー?ほおお。『危険なメソッド』観たとこだわ。
え、ジェイミー・ベルも出てるの。『リトル・ダンサー』の子役から、いい役者になってるよねえ。

アウンサンスーチー、監督がリュック・ベッソンってなんで? 主演のミシェル・ヨーは『グリーン・デスティニー』の人だよね。デヴィッド・シューリスも出てるのか~。

などと情報をちらちら見ながら思っていたら、

《人生は短い》
《やれるときにやれることをやれ》
《今できなかったことを次にできると思うな》

等々の格言?がなぜか頭に次々と点滅してきた。

うーん。行く気になったら行けるんだもんなあ。
でも3本も受けとめられるかなあ? 『白夜』観るときには頭ごちゃごちゃになってないかな?
…まあいいや! やれるときにやれることをやれ、だ!

とまあ、こんなふうに決心がいるところが、すでに年老いた証拠なんですねえ。
そういうわけで、朝からパルシネマしんこうえんに出かけ、この2本を。
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そのあと夕方から神戸アートビレッジセンターで、これを。
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観てきました。



結果的に、頭は大丈夫でした。
心は美味でおなかいっぱいになり、すごい充足感を味わいました。
うん、これなら一日5本でも6本でもいけるかも!
再びわんこそばに挑戦できそうな錯覚すらおぼえた、厳寒の神戸の一日でありました。

それぞれのレビューは後日書きたいと思います。
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by higurashizoshi | 2013-02-28 17:40 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

エディット・ピアフ 愛の讃歌

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2007年公開 フランス・イギリス・チェコ
監督 オリヴィエ・ダアン
脚本 イザベル・ソベルマン
出演 マリオン・コティヤール シルヴィー・テステュー パスカル・グレゴリー ジェラール・ドパルデュー




エディット・ピアフと美空ひばりの共通点について考えていた。
考えれば考えるほど、この二人の生涯には似たところがある。
下町的な出自、幼時からの歌手としての出発、不世出といわれる稀有なその才能。
裏社会との癒着、著名なスターとの恋愛と破局、多くのスキャンダルと孤独。
そしてキャリア半ばにして病に倒れ、一度は復活のコンサートをおこない、惜しまれながら早くに世を去ったこと。
そのうえ、ピアフという芸名は雀という意味。
雀とひばり。
二羽の鳥はどちらも、なみはずれた強烈な個性をもち、そして熱烈に人々に愛されて死んだ。

「いやになるほど歌がうまい」。
美空ひばりの歌を聴くといつもそう思い、でも好きではなかった。
そしてピアフも「すごい声だな」と思いつつ、あまりにもどぎついその歌唱スタイルが過剰に感じられて、すすんで聴くことはなかった。
それがごく最近になって、なぜかピアフのあの強烈なだみ声が、心に沁みて感じられるようになった。そのあられもないほどの表現の裏に、哀しみややるせなさが貼りついている。
そう感じられるようになると、聴けば聴くほど、ピアフの歌は私にとって深く魅力的なものになってきた。きっと私が年齢を重ね、ものごとの歪みや苦みも、芳醇なものとして味わえるようになってきたからだろう。美空ひばりにだって、そのうち開眼する日が来るのかもしれない。

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『エディット・ピアフ 愛の讃歌』は、ピアフの幼少期から晩年までを描いた伝記映画である。
親との縁が薄く、娼家や芸人小屋でさまざまな大人とかかわりながら育った幼少期から、路上で歌い日銭を稼ぐ娘時代、才能を見いだされてデビューし、47歳で死を迎えるまでの道のり。
それらを、巧みに時代を行きつ戻りつしながら描いていく手法が鮮やかだ。
女王のように君臨する若いピアフのシーンのすぐあとに、晩年の、病と薬物依存で老婆のように衰えた鬼気迫る姿がさしはさまれる。
オランピア劇場での生涯最後の公演で倒れ、楽屋にかつぎこまれたピアフは、舞台に戻してほしいと懇願してうめき叫ぶ。
「一曲でも歌わないと自分に自信が持てないの。歌わせて、歌わせて!」

彼女がこれほどまでに才能に恵まれた不世出の歌手でなければ、路上から出発してほどほどの幸せを手に入れることができたかもしれない。
酒におぼれ麻薬におぼれ、次々と恋をして、周囲を傷つけ支配し、そのくせ孤独に身を折り、一方では世界中を飛び回り喝采を浴びる日々。
悲惨なことも多かった少女時代、彼女は大人たちに翻弄されながらも、下町の世界で濃く熱いかかわりを他人と交わしていた。けれど有名になり、天才と認められることで、彼女が何かを決定的に失っていく過程が、観ている側にじんじんと伝わってくる。
そしてそれを埋めるように彼女が身を捧げた、世界チャンピオンのボクサー、マルセルとの恋。
「神様、私にマルセルを与えてくださってありがとう」。少女のように祈るピアフの愛らしさ。そしてそれが信じられない形で壊れ去ったとき、ピアフの人生は決定的に破綻に向かって走り出す。
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幼いころ、路上で歌っていた母。その母に捨てられたピアフは、いつか同じように路上で歌うようになった。それだけではない。自分が歌うために、十代で生んだ娘を育てることができず、あっけなく病気で死なせてしまうのだ。
母に捨てられたこと、自分もまた母のように自らの子を見捨てたこと、それがピアフにとって生涯癒えない傷となる。それでも歌わずには生きていけない。舞台で脚光を浴び、力の限り歌い、称賛を受け続けなければ生きる実感が持てない。華やぎの陰でもがき苦しみ続ける彼女の姿が、等身大で胸に迫ってくる。

そういえば、美空ひばりはピアフとは反対に、捨てられるどころかステージママに支配されるようにして育ったと聞く。けれどそれもまた、別の意味で母子関係の影が人生に濃かったともいえるだろう。
そして何より、二人の共通点は熱狂的な大衆の支持だ。ひばりの葬儀のとき、テレビの中でものすごい数のファンが泣き崩れ、叫んでいたのを思い出す。ピアフの葬儀の際にはパリ中の店が休業になり、葬列を見送る無数の人々が路上に群れをなしたという。
その歌声が庶民の喜び悲しみと結びつき、その生きざまがきれいごとでなく、必死で生きる人々を励ましてくれる。そういう意味でピアフもひばりも、単に天才的な歌い手だっただけでなく、それぞれの国で後にも先にもいないようなたった一人の選ばれた存在だったのだろう。

エディット・ピアフの映画であるわりには、実際に歌うシーンはそれほど多くない。これは歌手ピアフの映画ではなく、生身の女性ピアフを描いた映画だからだ。
けれど数少ない歌のシーンは鮮やかで、克明に心に残る。特に最後のヒット曲となった『水に流して』を舞台で歌う場面は、ピアフの人生を凝縮したような、痛みと赦しがないまぜになった光が彼女から放たれていて、涙が止まらなくなった。

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ピアフを演じているのは、当時30そこそこだった美しい女優マリオン・コティヤール。
本当にこの人が?と誰もが目を疑う、老醜すさまじい晩年のピアフも、若いころのあけすけで傲慢でとうてい美人とはいえないピアフも、その変身ぶり、演じぶりは本当に一世一代といえるだろう。
監督のオリヴィエ・ダアンはまだ30代前半、長編映画の経験も多くなかったらしい。その若さでよくぞこの国民的スターの生涯を描く、リスクの大きな映画を、これほど質の高い作品に仕上げたことだと思う。

暗く激しいシーンの多いこの映画の中で、唯一といっていいほど明るくおだやかな場面。
それはピアフが病気療養に入ってから、ひとりで海岸に行くところだ。
陽光のきらめく海を見ながら、浜辺に座って編み物をするピアフ。やわらかな微笑を浮かべ、童女のように無心に編み針を動かす彼女のもとに、パリから来たというインタビュアーが突然訪れる。
夢か幻想のように不思議な空気に包まれたこの場面は、まるでピアフから伸べられた手と、ピアフを愛する人々の手がそっと合わさるような救いを感じさせる。

あまりにも早い死ではあったけれど、彼女は十分に戦い、十分に表現し、生き抜いた。
映画が終わってからも、《私は何も後悔しない》と歌うピアフのだみ声が、いつまでも耳から離れなかった。
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by higurashizoshi | 2013-02-24 00:32 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

シネマひぐらし

またもブログを書けない負のループに落ちていた私…
といっても心身に異変があったわけはなく、例によって忙しかっただけ。

忙しさの原因のひとつは、娘たちの入学・転校準備、例によっての日々のあれこれに加えて、フィギュアスケートシーズン後半の恒例、ヨーロッパ選手権と全米選手権の鬼・生放送を追いかけ続けていたこと。
カップル競技はすぐに放映してくれないのに、男女シングルだけは生で中継してくれるJsports…。いや、それだけでもありがたいと思わなければいけないのだろうけどね。
全選手の滑走を中継してくれるので、もちろん全部観る私。(全部で何十時間観たことだろう?)
ヨーロッパにせよ全米にせよ、日本ではほとんど無名の選手でも、毎年観ていたら「あ、この選手成長したな」とか「今季のプログラムはひと味違うね!」などなど、たくさん応援する選手ができてくる。
今年も、表彰台には遥か遠くても、たとえジャンプは失敗が多くても、年々成長する選手たちの気迫のこもったすばらしい演技が多く観られた。

今回のヨーロッパと全米では、男子は勝つためには4回転ジャンプが標準装備となり、それをより多く成功した選手が頂点に立つという結果がはっきりした。
スポーツ競技としてはしごく当たり前のことながら、フィギュアスケートの場合はそれだけがすべてではない。
音楽を表現すること、観客の心をつかむこと、それらが要求され、しかもその成果も点数化される。
ふつうに考えればスポーツの範疇に入らない芸術面が評価の対象になるということ、それ自体がスポーツとして根本的に矛盾をはらんでいるといえる。
でも、だからこそフィギュアスケートはおもしろいのだ。

というようなことを改めて感じたあとは、夜中にまたしこしこと作業を始める私。
もう、ずいぶん前からやろうと思っていたことなのだけど、この「ひぐらしだより」に書いてきた映画のレビューを冊子にまとめる作業を開始したのだ。
これがまた大変で。
せっかくまとめるのならと細かいところを書き直したり、新しく写真を入れたり、フォントを変えたり揃えたり…
要するに、適当なくせにこだわるというか、こだわるわりには適当なんだけど、適当なくせに結局こだわる。
で、時間が無限にかかる…睡眠が削れる…
たかが道楽なのに何をやっているのやら。

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表紙もこのように作ってみました。
小さくてよくわからないかもですが、「シネマひぐらし」というのが冊子のタイトルです。

2月初めに5日ほど東京に行くので、それまでに完成させて… ほかにもやらなければいけないことが…
とカレンダーを見ると出発は3日後!?
実家でもまたいろいろと問題が起きているので、そっちにも行って、家も片づけて、旅の用意をして、でも明日からカナダ選手権だよ?

しーん…
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by higurashizoshi | 2013-01-29 18:46 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

レ・ミゼラブル

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2012年公開 イギリス
監督 トム・フーパー
脚本 ウィリアム・ニコルソン アラン・ブーブリル  クロード・ミシェル・シェーンベルク ハーバート・クレッツマー
出演 ヒュー・ジャックマン ラッセル・クロウ アン・ハサウェイ アマンダ・セイフライド エディ・レッドメイン ヘレナ・ボナム・カーター サシャ・バロン・コーエン サマンサ・バークス
  



ミュージカルにはあまり縁がないので、長年にわたり日本でも上演されてきた「レ・ミゼラブル」も観たことはなく、劇中歌を耳にすることがあるくらいだった。とはいっても、原作の小説は子ども時代に忘れられないお話として残っていた。
いまだにヴィクトル・ユーゴーの原作をきちんと読んではいなくて、昔子ども向けの抄訳で読んだだけなのだけど、幼い私にはかなりのインパクトがあった。
なんといっても当時の題名は「レ・ミゼラブル」じゃなくて、「ああ無情」である。
「ああ」といきなり来るだけですごいのに、直後に「無情」。どうしろというのだ。
そして中身もおとらず濃く、哀しく、子ども心に胸をかきむしられるような展開の連続なのである。

ジャン・バルジャンの悲惨な境遇、その怒りと孤独。
迷いなく彼を招き入れる司祭、銀の食器と燭台の、ゆるしと祝福のエピソード。
開眼し生まれ変わるジャン・バルジャン、なんと市長にまでのぼり詰める。
執拗に彼を追い続けるジャベール警視の冷徹さ。
薄幸の少女コゼットとその母ファンテーヌの底なしの不幸。

同時に、ハラハラドキドキのスペクタクルでもあるのであって、中でも荷馬車のエピソード(怪力のジャン・バルジャンが、素性を知られる恐怖に打ち勝って倒れた荷馬車を持ち上げて老人の命を救う)と、人違い誤認逮捕事件(別の男がジャン・バルジャンとして逮捕され、市長の職もすべて投げ打って彼はその男を救う)には、何度読んでも、
「あかん!あかん! ジャンさんそれやったらオシマイやで!」
とページに向かって叫びたくなってしまうのだった。

しかも手中の珠として育て上げたコゼットはマリウスという青くさい男に捧げてしまうし、若い二人の幸せのために自分はどこまでも身を引くジャン・バルジャン。
献身、とか己の証を立てる、ということの意味がわからなかった子ども(私)にとっては理解しがたい展開も多く、でも忘れがたい磁力をもったお話だったと思う。

大人になってからこの「ああ無情」が「レ・ミゼラブル」となってミュージカル化されたのを知ったときも、《あの話なあ…哀しいしなあ…もう卒業やわあ…》くらいに思って、特に観たいとも思わなかった。
そもそもミュージカル…私の中でジャン・バルジャンがいきなり朗々と歌い出したり、コゼットと二重唱したりというのはあまりにも違和感があって、ちょっとご勘弁という感じだったのだ。

だからこの映画も、タタが誘ってくれたからという理由と、従来のミュージカル映画と違いアフレコでなく、撮影現場で俳優たちが歌っているのをそのまま収録しているという話を聞いて興味をおぼえなければ、きっと映画館まで足を運ばなかったと思う。


さて映画はというと、舞台版の歌を一曲もらさず収録しているそうで、次から次へと歌合戦のごとくに名曲の奔流。慣れないうちはクラクラする。しかもストーリーもツメツメのめまぐるしい展開で、まるでダイジェスト版を観ているよう。
そしてジャン・バルジャンは私の中のイメージでは骨太のがっちりした感じ、ジャベールは顎の細い神経質な感じ、だったのが、ヒュー・ジャックマンとラッセル・クロウだとまるでその逆なので、当初はちょっと違和感があった。

しかしその違和感も間もなく気にならなくなり、なかなかにみなさん適役で、しかも選りすぐられた役者たちだけあって歌唱力、表現力はほんとうにすばらしい。
なかでも出色なのが、わが子を思いながら破滅の道をたどる若い母親ファンテーヌ役のアン・ハサウェイだった。
幼い娘のため、髪を売り、歯を売り、そしてついに身体も売った直後に彼女が歌う『夢やぶれて』。
ここまで心を揺さぶる歌唱というのはなかなか経験したことはない。
彼女がこの一曲を歌い切った直後に、私は頬に流れる涙とともに、今年のアカデミー賞はこの人だなと確信した。
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おそらく舞台版と違うのは、演じる俳優の細かい表情のひとつひとつが如実に、もちろん歌のシーンでも大画面に映し出されること。
アン・ハサウェイは美貌すぎるゆえにお嬢さんぽい役が多かったけれど、近年は役柄も広げていて、それでもこの役は非常な汚れ役。女性として人としての尊厳を失わされ、いわば丸裸の状態の中から、絶望と過去への懐かしみ、そして失わない強さを実にきめ細かく表しながらの絶唱。感情の塊がこちらをわしづかみにするようなその演技に、彼女の女優魂を見せつけられた。

監督のトム・フーパーは『英国王のスピーチ』がなかなか鮮やかな作品だったが、この責任ある大作を堅実に撮りきっていると言っていいと思う。詰め込みすぎでフタのしまりづらい豪華なお弁当箱みたいになっているのはまあ仕方がなく、ダイナミックな描写を多用し、臨場感あふれる役者たちの歌と演技で十分に楽しませてくれる。
やはり、撮影時にその場で歌うという収録方法が成功したのだろう。演じるそれぞれの《必死さ》がダイレクトに伝わってくるのである。この前『マリリン 7日間の恋』で注目したエディ・レッドメインもこんなに歌がうまいのか!と感心したら、もともとミュージカルの舞台でブレイクした人なんですね。

ジャン・バルジャンの最期のシーンも、たぶん歌で表現されているからこそダイレクトに親子の情愛や感情の振幅が伝わってくる。そのほかにもエポニーヌの報われない恋など、やはり《哀》の感情が表される歌唱がとりわけ心にしみた。全編にわたって、音楽で表現することの力を改めて感じさせられ、いつか舞台版も観てみたいものだなあと思った。
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物語の中で、子どものころはどうも理解できなかったジャン・バルジャンの徹底した《献身》も、ジャベールが憎悪してきたジャン・バルジャンに許されて自らを失ってしまう顛末も、この歳になってようやく理解できた。やっぱり歳は取るものだ。
ただしこの歳になっても歴史オンチのため、いまいち理解できないフランスの19世紀初頭。
物語のクライマックスである七月革命から六月暴動、ボナパルティズムの若者たちが何を目指して蜂起し命を散らすのか、それが理解できないと、結末のシーンに感情移入できないという点が自分としては残念だった。まだまだ、勉強が足りません。
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by higurashizoshi | 2013-01-14 22:13 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

エル・グレコ展@国立国際美術館

「この前エル・グレコ展に行ったときは…」
と言いかけてハッとする私。国立西洋美術館に観に行って、夢中で何時間もグレコの絵を眺めたのは…もしかしてはるか昔?
調べてみると、はたして以前のエル・グレコ展は1986年に開催。26年前の記憶がこんなに鮮やかに残っているとは。

作品のほとんどが宗教画だから、私がその絵の深い内容を理解しているとは、とても言いがたい。
400年以上前、クレタ島からイタリア、スペインと移り住み、宗教画の巨匠として君臨した人の絵を読み解くような知識も技量も、もちろんない。
ただ、無性に魅かれる。無性に好き。なぜか最初にエル・グレコの絵を見たとき(さらに昔、エルミタージュ美術館でのこと)からとりこになった。
だから今回、大規模な展覧会が大阪でも開かれることがわかったときは本当にうれしくて、やっと予定をあけて確保した日を指折り待っていた。


一番最初に展示されていたのは、50代の自画像。
なかなか食えない男、という感じの鋭い眼光。彼の描く人物はみんななぜか細長いのだが、この自画像も細長い。
「俺の絵を見て何がわかるんだ?」というシニックな声が聞こえてきそう。
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「聖アンナのいる聖家族」
遠くから見ると、聖マリアの上半身だけが光り輝いて見える。輝くばかりの美しさ、というが、ほんとうに白く浮かび上がり、光っているのである。
このマリアの美しさは正直異様なほどで、それにくらべてマリアの母のアンナも、夫ヨセフも、極端に地味で目立たない。幼子イエスも、まるで添えもののように見えてしまう。
何か特異な感動を与えられる絵である。
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「フェリペ2世の栄光」
一見、何がどうなってるのかわからないけどなんだかすごい。これはフェリペ2世をたたえるために描かれた作品だそうで、天上あり地上あり地獄あり煉獄あり、それをひとつの画面の中にこれでもかとばかりに盛り込んで、喜ばしいのと神々しいのと禍々しいのと恐ろしいのが細密にいちどきに描写されていて、色彩のあざやかさ(グレコの赤は美しい)も相まってめまいがするほどである。
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「福音書記者聖ヨハネ」
エル・グレコの描く聖人画はとてもなまなましい。それは現代の若者といってもよさそうにすら感じられる。そしてみんな、老いた聖人も含め、ひとしく美男である。
この聖ヨハネなんて、まるでロックスターかアーティストのようではありませんか。
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「受胎告知」
プラド美術館にある大作の、グレコ自身の手による縮小版とのこと。その大作のほうを、かつて国立西洋美術館で見たような気がするのだけど記憶違い?
ここには円熟期の《これぞ、エル・グレコ》と言いたくなる要素が満ち満ちている。
宗教的観点に立たない私から見れば、それは過剰で異様なまでの美の奔流。ものすごくヘンで、ものすごく美しい。
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「無原罪のお宿り」
今回の展覧会最大の絵。3メートルの高さから見下ろす作品の力に圧倒される。
トレドの聖堂からお借りしたもの、つまりこの絵は宗教画として現役なのである。なにか、こんなところに来てもらって申しわけないような気持ちになる。
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たぶんスペインに行かない限り、一生この絵をふたたび見ることはないだろう。
エル・グレコが73歳で亡くなる前年に描きあげた、集大成のような作品。
それにしても、いつまでもいつまでも見ていたくなるこの魔力のようなものはなんだろうか。天使のみなさんの頭の密集ぐあいまで過剰すぎ、うねりながら高みへとのぼっていくものすごいエネルギーに巻き込まれる。


これまでのエル・グレコ展史上最大の50枚が展示されていたそうで、歩いてはふらふらになってベンチで休み、歩いて見てはまた休み、頭も沸騰ぎみで、やっと会場を出て時計を見ると、入ってから3時間半たっていた。
ほかにも気に入った作品が何点もあったのだけど、画像が見つからなくて紹介できず残念。

帰りの車中で図録を見ていたら、また感動が戻ってめまいがしてきた。
ついつい全身全霊でものを見てしまうのである。
この前友だちに「ひぐらしは、熱いのよ。」と言われて「ハイ?」と思ったけれど、こういうことを言っていたのかな、と思う。
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by higurashizoshi | 2012-12-06 00:55 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

3冊の著書

11月15日午後1時45分。
その日その時間のあと、彼のいなくなった世界で私は生きている。
自分のまわりの、生きて動いている人たちを不思議に感じ、この長い夢から早くさめたいと思っている。

きっとこれから時間がたって、これが夢でなく現実であることを私はゆっくりと認めていくのだろう。

彼は3冊の著書をのこした。

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浅田修一との対談。1998年9月、ぼっと舎刊。
《なまなましくも、嘘(ことば)の「私」――右足のない男と、腫瘍をもつ男が震災後の神戸で、身を削るように語り明かした魂の記録》



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1999年4月、河出書房新社刊。
《愛する家族の死がくれた、「書く」という習慣。かつて傾倒した西東三鬼の俳句や散文に同質の波長を感じとり、三鬼と戯れながら書き続けた、母と二人の弟たち、そして自分自身への鎮魂歌。第5回蓮如賞佳作受賞作品》

これだけは絶対に書かなければならない、その気迫のもとに書き上げた作品が賞を受け、出版されることになって、祝杯をあげたときのことを鮮やかに思い出す。


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2005年9月、ミッドナイトプレス刊。
《入院生活で、生きてあること、死んでいくことについて痛いような教訓を得た。それを糧にして今後の日々を大事に生きてみようと思っている-。『詩の雑誌midnight press』に連載された「高崎通信」をまとめる》

何度目かに倒れた前後、父の死もはさみながら綴った文章。心身ともにつらい状態での連載を一冊にしたもので、もっとまとまったいいものを形にしたいんだと口にしていた。


あたりまえのことだけれど、その人がこの世から消えても、書いたものは何ひとつ変わらずに残る。
まるでロールプレイングゲームさながらに、次々と襲いくる痛みや手術や喪失とひとつひとつ格闘しながら、最後までブログを書き続け、mixiの日記も続けていた。(ブログ「点景」)
3冊の本とともに、彼の生きたあとが、そこには消えずに残って私たちを見ている。
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by higurashizoshi | 2012-11-23 14:22 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)
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