ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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映画「ファルージャ」とトークショー

ファルージャ イラク戦争日本人人質事件…そしてd0153627_0162088.png
2013年公開 日本
監督 伊藤めぐみ
撮影:伊藤寛 大月啓介 大原勢司
編集:伊藤誠  音楽:吉田ゐさお
製作・配給:有限会社ホームルーム


若い女性監督の、長編第一作。
初々しさとともに、監督自らの内的な課題を問う、真摯な思いが伝わってくるとても誠実な作品だった。

イラク日本人人質事件。ちょうど10年前のことだ。
ブッシュ政権の開戦決定を支持した小泉政権は、イラクに自衛隊を派遣した。
その直後、イラクに入っていた日本の民間人3人をファルージャの武装勢力が拘束。「自衛隊を撤退しなければ彼らを殺害する」という映像メッセージを発信した。
日本中は大騒ぎとなったが、すぐに小泉政権は自衛隊撤退はありえないと明言。人質となった3人の生命が危ぶまれる中、ある大臣の発した「自己責任」という言葉が拡散、次第に3人を批判する動きが高まった。
そして無事解放され帰国した3人を待っていたのは、それぞれの家族も巻き込んだすさまじいバッシングの嵐だった。「渡航禁止を破った無責任行為の帰結」「国費の無駄遣い」あげくは「死んで詫びろ」等の非難が3人の自宅への電話、ファックス、郵便などで集中。インターネットでも3人についての誤報まじりの個人情報が大量にばらまかれた。

彼らを擁護する声がかき消されるほどの、まるで日本の一部が発熱し沸騰しているような、あのバッシングに膨らんだ異様な空気を私は忘れることができない。そしてその声は、時の小泉政権の官僚たちによって強固にバックアップされたものだったことも決して忘れない。


映画「ファルージャ」は、当時人質となった3人のうち、高遠菜穂子さんと今井紀明さんの2人について、あの事件から現在までをじっくりと追ったドキュメンタリー。高遠さんが今も支援活動に通うイラク国内の現状も、なまなましく描き出している。

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特に、アメリカ軍が多数投下した劣化ウラン弾によるとみられる被害の惨状は、あらためて衝撃的だった。イラク戦争当時の、普通の爆弾とは明らかに異なる状況の遺体。それから10年近くがたち、取材に入ったひと月足らずに間にも、ファルージャの病院では次々と奇形や先天異常の赤ちゃんが誕生し、胎児の異常により何度も流産を繰り返す若い女性がいる。高遠さんは、そんな親子の支援をおこない、日本から来た医師と現地の医療のつなぎ役となったり、ファルージャの女性医師と協力して被害の現状についての調査を続けている。

監督のインタビューに対し高遠さんは、あの人質事件後に帰国したあと、家族への名指しの脅迫を目の当たりにして「自分が殺されていたらよかった」とまで思ったと振り返る。しかし、母親に叱咤されて目が覚め、再びイラクへの支援を始めたのだという。
どこの組織にも属さず、「自分の役割は、大きな支援のすき間を埋めること」と語る高遠さん。10年前の心の整理がすべてついたわけではないだろうが、今も危険のつきないイラク国内に通いつめ、誇りを持って堂々と自分の信じる道をゆく彼女の姿が心に強く残る。

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一方の今井紀明さんは、当時まだ18歳。高校卒業後すぐにイラクに入り、あの人質事件の渦中の人となった。
帰国後、見ず知らずの人々からのバッシングのすさまじさに対人恐怖症となり、家から出られない時期が続いたという今井さん。18歳という年齢で、自らの人格も行動も世間から全否定されるような経験をし、自死も考えたという彼が過ごした波乱の10年が語られる。

現在、今井さんは大阪で、主に通信制高校生を支援するNPOを主宰している。
不登校や引きこもり経験の当事者であることが多い通信制や定時制の高校生に、今井さんはかつての事件後の自分が重なって見えたのだという。
さまざまな事情から、社会に能力を認められるチャンスが少なく、自信を持てずにいる子どもたちに平等な機会を保障したいという思いから、今井さんのNPOでは高校生たちに対するキャリア教育の講座など幅広い活動を展開している。

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この日は「ファルージャ」上映後に、元町映画館の2階で今井紀明さんのトークショーがおこなわれた。そもそも、映画だけでなく彼の話を生で聴いてみたいというのが、この日私が元町映画館に行った理由だった。
私が、10年前のあの事件以来、ずっと心の片隅で気になっていた彼のその後の姿を知ったのは最近のこと。
新聞に今井さんのインタビューが載っているのを読み、彼が今何をしているのか、そしてそこに至るまでどんなことがあったのかを初めて知った。
衝撃的だったのは、彼が対人恐怖症になり、引きこもっていた数年のあと、再び立ち上がるためにしたことだった。

彼はずっと対峙することのできなかった自分の行動への批判(誹謗中傷も含む)の手紙やファックスをひとつひとつひもとき、驚いたことに書き写してまで熟読した。
そして住所の書いてあったものに対してはすべて返事を書き、電話番号が書いてあった人にはすべて電話をかけたのだという。
そこから「対話がいかに大切か」という彼の経験則ができあがった。罵詈雑言しかなかった人が、電話で話すうちに変化し、理解を示すようになってくれる。そんな経緯が多くあったそうだ。しかしそれは、彼の方から歩み寄ることでしか絶対に実現しない融和だったと思う。インタビューを読みながら、こんな勇気が自分にあるだろうか、もし自分だったら…と私は何度も考えた。
けれど、今井さんにとってそれはもしかすると、自分自身が再び生き直せるかどうかの瀬戸際の作業で、勇気などというものとは無縁の、やむにやまれぬやり方だったのかもしれないとも思う。

この日、映画のあとにトークショーに現れた今井さんは、前向きで明晰な印象の青年になっていた。現在のNPOの活動内容などを話される中に、かつての事件後のことにも触れられていたが、印象的だったのは、大阪に住むようになって「救われた」と話しておられたこと。
というのは、大阪人は彼の《人質体験》をネタにして笑い飛ばしてくれるのだという。
「北海道人の僕には考えられないことで、すごく楽になりました」とのこと。
とはいえ、今も、常に自分の言動には注意をはらっているという今井さん。現在の活動にかかわる人々に迷惑がおよばないようにと考えている、人質事件は自分にとって、一生負い続ける十字架のようなものであることに変わりはない、と話されていた。

そしてもうひとつ印象的だったのは、「いったいあの状況から、どうやって立ち直れたのか」という会場からの質問に対して、今井さんが「たまたま」という言葉を何度も使っていたこと。
「僕の場合は、たまたま周囲に救われた。家族と友人の支えに恵まれた。本当にたまたまです。それがなかったら、今も立ち直れていない。
(別の事件の加害者側家族の自死に触れて、その亡くなった)彼と僕は、同じ立場です。彼は周りに支えがなくなり命を絶った。僕にはたまたま、それがあった(から生きている)。その違いだけです」と。


振り返ると、10年前のあの事件後のバッシングは、今蔓延している《ネット叩き》のさきがけでもあったのだと思う。
標的を見つけ、プライバシーをあばき、噂を広め、徹底的に叩き、家族も含め社会的に抹殺する。その手は無責任で、冷酷で、しかも保身的だ。その手の主の、顔は見えない。
もう、今井さんが批判の手紙に返信し、電話をかけることができたのも過去のやり方になりつつあるのだろう。そうやって、いつ誰が標的にされ、叩きあうことになるかわからない社会が、みんなが望む社会だろうか。

私にとって、映画「ファルージャ」とトークショー、どちらも深く心を動かされる体験だった。この前はグザヴィエ・ドラン一気観でお世話になった元町映画館、今回もこのような企画に深謝。
あまりにいろいろなことを考えすぎて、帰路のことをあまり覚えていないほどだった。
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by higurashizoshi | 2014-05-13 00:32 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

グザヴィエ・ドラン作品 3本一気観!

ひさびさに映画のレビューです。
神戸の元町映画館に昨日行って、若き天才と話題のグザヴィエ・ドラン作品、第1作から第3作まで一挙上映!を約7時間かけて観てまいりました。

カナダの映画監督にして俳優、その他多才ぶりを発揮して次々と作品を発表、世界を驚かせているという評判のグザヴィエ・ドラン。
といっても私はぜんぜん知らなくて、ミミに「こんな人がいて、今度元町映画館で一挙上映があるんだけど、行きたいと思ってて…」と言われて、「ほほー?」となった次第。
幼いころから映画を一緒に観て(幼い子が観ないような映画もネ)、映画好きに育てたかいがあったというものだ…。もはや、私が教えられる立場。

で、なんとかスケジュールあけて「この日!」とさだめ、タタとミミと3人で食料とお茶持参で元町映画館へ。
3つも映画を続けて観て、体力もつかしらと思ったけど全然大丈夫でした。特に、時系列順に同じ監督の作品を観たので、頭の中で作品同士がこんがらがることもなく、大変おもしろい体験でした。
そして…やっぱり私は心から映画ってものが好きなんだなあと改めて思い、ちょっと感動。


では、3作一気に観たので、レビューも一気にいきます!




マイ・マザー
2009年公開 カナダ
監督/脚本/製作 グザヴィエ・ドラン
出演 グザヴィエ・ドラン、アンヌ・ドルヴァル、フランソワ・アルノー、スザンヌ・クレマン
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グザヴィエ・ドランが17歳で脚本を書き、19歳で監督・製作・主演し、第1作にしてカンヌ映画祭で上映されたという作品『マイ・マザー』。
原題は「僕は母を殺した」。そう、これは古今東西さまざまに描かれてきた息子による《母殺し》のドラマなのだ。

映画には、母を憎み、拒み、かつ執着し愛を求める――実にめんどくさく、いじらしく、危険きわまりない思春期の少年の等身大の葛藤が、徹頭徹尾、むきだしに生々しく描かれている。
と同時に、ヌーベルヴァーグをはじめとする映画史やポップカルチャーにインスパイアされているのが丸わかりの、青臭くも才気ばしった映像美がこれでもかとばかりに展開する。
とにかく、オレには表現したいことがこんなにあるんだ! オレはこんな《絵》を構図を見せたいんだ! という欲望の発露で、すがすがしいほどパンパンにふくれあがっている作品。

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で、ひとつ間違えば自己満足的な若書きの作品になりかねない危ういところを、作者(であり主演俳優)であるところのグザヴィエ・ドランの、その鼻息の荒さの一方にある賢さ、見通しの鋭さと客観性が、最後まで破綻することなく作品を完結させているのである。

ドランくんお見事。ナルシスト美少年と見せかけて、19歳にしてこの才気と聡明さは、ただならない。




胸騒ぎの恋人
2010年公開 カナダ
監督/脚本 グザヴィエ・ドラン
出演:グザヴィエ・ドラン、モニア・ショクリ、ニール・シュナイダー

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『マイ・マザー』で母息子関係を描いたグザヴィエ・ドランが第2作で描くのは、ずばり恋。胸騒ぎというよりは、胸が痛くて穴があきそうな恋。
20代の仲良し男女二人(ドラン演じる男の子はゲイで、女の子はヘテロ)が、同時に一人の男に恋をする。しかも、絵に描いたような美男。頭がよくて人当たりがよくてみんなの人気者で、アンタは日本の少女マンガかルネッサンス絵画から抜け出てきたのかというような美青年。

残酷なことに、美青年はこの主人公2人に対して同じように愛想がよく、3人で遊びに行こうよって誘ったりして、しかしそれぞれとの関係は、同じようにいまいち進展がない。
2人はせつなさに胸を焦がし、お互いに嫉妬し、牽制しあい、要はていよく美青年にいたぶられているのか? いやしかし希望はないわけではない、というやるせなさ。
ドラン演じる男の子もせつないが、痛々しいまでの虚勢を張る女の子を演じるモニア・ショクリという女優さんがすごくいい。

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ポップでお洒落なしかけがいっぱいの映像、洪水のように流れる音楽、特に冒頭と最後に流れる「バンバン」(確かに聴いたことがある曲なんだけど…どこの曲?)が耳にこびりついて離れなくなる。
映像、音楽だけでなく、ここまでスローモーション多用? ここまで思わせぶりなインタビュー多用? となんにしても過剰なのがオレ流!とばかりのグザヴィエ・ドランくん。
しかし、輪廻のような恋のロンドに乗せて、粗削りな第1作からステージを上げてかなり洗練された作品に仕上がっております。『500日のサマー』が好きな人にはお勧め。ミシェル・ゴンドリー作品好きな人にもお勧め。ちなみに私はどちらも好きです。




わたしはロランス
2012年公開 カナダ
監督/脚本/衣装/編集 グザヴィエ・ドラン
出演:メルヴィル・プポー、スザンヌ・クレマン、ナタリー・バイ、モニア・ショクリ
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3作目にしてグザヴィエ・ドランはとうとう作品づくりの側に。今作ではほんの一瞬、カメオ出演のみ(それでもやっぱり出たかったのね、と思わせる力の入れようの一瞬でしたが)。
1作目、2作目が短編から中編小説だったとしたら、ついにこの作品で彼は長編小説に着手。まったくスケールの異なる段階へ移行したことがはっきり示される。映画としての文体においても、表現方法においても、これまでとは勝手がちがう。そのとまどいもまた露呈しつつ、全力でこの大作にぶつかり、一歩も引かずにいる勝負感が、一種のカタルシスを呼ぶ。面白い作家だなあ。この時点でまだ23歳、すさまじい才覚。
しかも今作ではさらに手を広げ、監督・脚本のみならず、衣装も編集も音楽選びも! とにかく自分のやりたいことを自分のやりかたでやりたい人なのだな。

性同一障害をカミングアウトした主人公ロランスと、その恋人フレッドの、10年にわたる年月を描いたこの作品は、一組のカップルが曲がりくねった長い道のりを、憎みあい、離反し、また惹かれあい歩んでいく過程をときに痛いほど生々しく、ときにファンタジックに、じっくりと描いていく。
女性になるロランスを受けいれようともがき、壊れていくフレッド(名前が男女逆転しているようなのも、意図的なものだろう)。さまざまな形で二人はそれぞれの人生の、再生をこころみる。
ロランスもフレッドも、自分に正直で率直、それゆえに激しくぶつかりあう。お互いをもとめあいながらも、穏やかに歩みをそろえることなどできない。そこが痛ましくもあり、同時にすがすがしくもある。

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愛の成就などというものは瞬間に過ぎず、けれどその瞬間のために人はすべてを投げ出すこともできる。その一方で、人生という長い時間の流れの中でゆっくりとしか育んでいけない愛の形も、また存在する。
若い作者グザヴィエ・ドランはその概念を自分なりに懸命に咀嚼し、この長い物語を駆け抜けてみせた。その野心と底力がこの作品を支え、美しいものにしている。

主役二人の演技もすばらしいが、『胸騒ぎの恋人』で虚勢を張る女の子を演じたモニア・ショクリが、フレッドの無愛想な妹役でまた出ていて、実にいい。
3作続けて観たおかげで、重なって出ている役者さんがとても多いので、それを発見するのも楽しかった。
すでに4作目『トム・アット・ザ・ファーム』(日本では劇場未公開。昨年の東京国際映画祭で上映)、5作目『Mommy』(現在、カンヌ映画祭でコンペティション部門に出品中とのこと)と怒涛の勢いで撮りつづけているドランくん(いや、もうドラン氏と呼ぶべき?)。

願わくば、彼の自意識過剰でケレン味たっぷりなところが、よい方向に結実していっていますように。
3作を観たところで、
「うまくいけばここからさらに凄い作品をつくっていける才能だけれど、評価が高まり製作費がうなぎのぼっていく過程で、はたしてこの人は堕さずにいられるかしらん?」
という一抹の不安も感じたので。

それを確かめるためにも、4作目5作目もぜひ!上映してくださいますよう。
元町映画館さま、今回は太っ腹な企画に感謝の一念です。
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by higurashizoshi | 2014-04-25 01:17 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

スピッツ「小さな生き物」ツアーライブ@大阪フェスティバルホール

神戸・大阪公演が草野マサムネくんの急病で延期になり、彼の国宝級(!)の喉の回復祈願をこの前書きましたが…
スピッツのツアーライブ@大阪フェスティバルホール延期公演2日目、昨日無事行ってきました。
はああ~いろんな意味で感動的な一夜でありました。
(写真は今回のツアーライブ初日のものをお借りしてます)

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もう体調は万全らしいと聞いてはいたものの、やはり実際にライブを見るまではなんだかハラハラで、ライブ始まってからも曲が高音部にくるたびに「うう、大丈夫か?」と思いつつ聴いていた。
でもそんな心配はなんのそのというくらい、マサムネくんの歌声は力強く、美しかった。
40代半ばを過ぎて、ここまで伸びやかで透明感をうしなわない楽曲と歌声。
思えば、初めてスピッツのライブを生で観たのは2001年の渋谷公会堂。あのときはまだマサムネくんもほかのメンバーも若者の面影だったなあ…。って、当時私だって若かったんだよな。ちょうどその直後ぐらいから、私の人生の底のひとつともいうべき長く暗いトンネル走行の時期が始まったのだな…(ひとりで遠い眼)。
だからあの渋谷公会堂でのライブの、若々しいスピッツのパワーや客席との親密感、わくわくするような楽しさは、まるで祝祭の記憶のように残っている。生で聴いたマサムネくんの声が、想像を裏切るほど力強かったことや、バンドとしての技量の高さに驚かされたことや…懐かしいというより、今も思い出すと胸が騒ぐ。

そして現在のスピッツ。もちろんそれなりに年を重ねた印象はあるものの、いまだ初々しいといっていいくらいのみずみずしさがあふれていて本当に不思議なバンドだと思う。
マサムネくんが昨日のMCで言っていたけど、バンド結成27年目!しかもその間、一度として活動を休止することもなくメンバーの交代もなく、倦まず焦らず実に平熱な感じで(あ、『空も飛べるはず』からブレークする前の絶頂売れなかったころはちょっと焦ってたみたいだけど)、ここまでクオリティの高さを保ち続け、売れ続けてきたのは奇跡的。
昨日のライブは今回のアルバム「小さな生き物」からの曲と、けっこう古い曲とをバランスよく取り混ぜてのセットリストだった。

なぜか古い曲は私の好きな曲がとても多くて、うれしかった。「名前をつけてやる」とか「うめぼし」とか「君が思い出になる前に」とか、特にファーストアルバムの名曲「うめぼし」が生で聴けるとは思わなかった!
そして古い曲で特によかったのは「恋は夕暮れ」。CDで聴くよりもずっとずっと楽曲としての奥行きが伝わってきて、なんて美しい曲なんだろう…なんて美しい歌詞なんだろう…と涙があふれてきた。
そして「ロビンソン」も初めて生で聴いた。このヒットでスピッツを知ってファンになったので、一気に1995年当時に引き戻される気分。ああ、あのころは、あのころは…といろんな記憶が心から飛び出てくる。阪神淡路の震災があって、初めての出産もこの年。頼りない、茫漠とした中で生きていたなあと思う。

「小さな生き物」の曲はどれも、生で聴くとさらに音楽としての質の高さがよくわかった。そして東日本の震災を経て、草野マサムネの音楽への姿勢が明らかに変わったのだということもしっかりと伝わってきた。
特に「僕はきっと旅に出る」は、一見さわやかな曲調の奥にある苦しみや孤独感、まるで深い穴ぐらの底から小さく見える空を見上げているような、それでも希望を捨てないという祈りに近いものを感じて胸がふるえた。
飄々としているように見えるスピッツご一行様だけど、もう一度、そして新しく、地に足をつけて真摯に音楽を作り、届けていくという固い決意を感じさせてくれた。ライブを観て本当にそう思った。「還暦になってもビンビンで!」とマサムネくんが言ってた通り、どうかこれからもずっと長く音楽を私たちに届けてほしい。

ちなみに新生フェスティバルホールは初めてだったのだけど、前のフェスティバルよりさらに傾斜がきつく、すり鉢化が進んでいたのにはびっくり。新たに3階席ができていて、その3階だったもんですから高いのなんのって。
いきおい、スピッツの皆さんはものすごい下で演奏されてたので彼らの視線の先にはこんな高いところにいる観客はほとんど入ってないだろうなあというくらい。でもさすがに音響はよかったです。ただ、いつもライブってどこでも思うんだけど、お願いだからボーカルの音をもっとよく聞かせてほしい。耳が弱い(らしい)私などは、爆音の楽器とボーカル音がどんどんミックスされて聞こえてくるので歌詞が聞き取れないという以上にマサムネくんの美声がしっかりクリアに堪能できないのが残念でした。

いや、そんな文句をいっちゃいけないな。これだけ長生きしてきたスピッツを、これだけ長生きしてきた私が(しかも今回はタタとミミも一緒に!)、またこうして生で聴くことができたんだから。この奇跡のような事実に心から感謝! 
ねばり強く元気で生きて、次のツアーライブ(いつだ?)にも行けるように精進せねば。

さて、次回はまたフィギュアスケートに戻って、あまりに遅まきながらのヨーロッパ選手権についての記事を…と思ったら、ひえ~!今日からもう四大陸選手権始まってるし!
まあ、時間を作ってなんとか書いていこうと思います。
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by higurashizoshi | 2014-01-22 21:37 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

草野マサムネ声帯回復祈願

「来週はスピッツのライブだ!」
と前回書きましたが。
本当なら今日がその日。大阪フェスティバルホールでスピッツのツアーライブに行っているはずでした…
何度も何度も落選し、やっとつかんだチケット3枚。しかもミミは人生初ライブ。

しかしながら、草野マサムネくんの急性声帯炎により神戸、大阪公演は延期に。
すでに広島公演の2日目から急きょ休演になっていたようで、知らなかった私と娘たちは一時放心状態→真空状態になりましたが、その後さっさと気を取り直し「マサムネくんの声帯が回復しますように祈願」を個人的におこなっております。

で、その回復祈願の一環として、今日ポッカリとあいてしまった(ライブに行くはずだった)時間に、《スピッツを徹底的に歌う会》をやってきました。
ええ、世間では単にカラオケというそうですけどね。これはおごそかなる祈願なんですってば。

スピッツ、さすが古株バンドだけあって、今回のアルバム「小さな生き物」が9月に出てから、収録曲がカラオケに入るのが遅いこと、遅いこと。
前回カラオケ行ったときに「まだ2曲しか入ってないってどうゆうこと!?」と思わず機材を壊しかけた(うそです)私ですが、今日はジョイサウンドにちゃんと全曲入ってることを確認。
「これでええのや」
とふんぞりかえったのでした。
(しかし、あとで知ったところによると、12月に入ってからようやく全曲が入ったらしい。ピチピチしたバンドだったらこんな扱いじゃないんだろうなあ)

「bridge」のインタビューの写真をお借り。
近影を見るに、4人とも体型変わらず、雰囲気変わらず。ピチピチは確かに、してませんけど…
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「小さな生き物」は、3.11以降のスピッツが、特にすべての曲と詞を書いているボーカルの草野マサムネの、震災以降の思いや姿勢が詰まっているアルバム。
彼自身もインタビューなどで言っているように、ここから次のスピッツがはじまる、というくらい画期的な意味を持つアルバムだと思う。
デビューして20年以上もたつ、メンバーが40代なかばにもなっているバンドが、次の時代へ…というのもすごい話だけれども、それほどまでにアルバム「小さな生き物」はまっさらな決意と、目の覚めるようなみずみずしさにあふれている。
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震災当時、ちょうど前回のツアーライブ真っ最中で、マサムネくんがこのときは急性ストレス障害で倒れ、公演がしばらく中止になった。
震災のショックでまったく食事もとれない、動けない状態になったとのことで、「ああー当然だなあ」と私は思った。表現者としてとてもとても悔しかったと思うが、それだけ感情と身体が一致していることはある意味、表現者としてあるべき姿だとも感じられたから。


それだけに、その後回復してツアーにも復帰し、そしていよいよ次のアルバムに取りかかったと知ったときは「どんな曲を書いてくるのだろう」と息をつめて待つ気持ちだった。
そして「さらさら」「僕はきっと旅に出る」の2曲が先にシングル発売され、この2曲を私はいったいどれくらい繰り返し聴いただろう。
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よく憶えているのは、今年の5月に福島を訪れ、浜通りの津波跡から南会津までのひとり旅の最中に、ipodでひたすらこの2曲だけを聴きつづけていたこと。なぜかわからないけど、ほかの曲はまったく聴けなかったし、ずっとこの2曲を交代に聴きつづけていても飽きるとか嫌になるということが一切なかった。
むしろなんだかまるで薬のように、いや、薬というより痛いところにそっと当てるやわらかいタオルのように…その2曲を聴きつづけるのをやめることができなかった。
2曲とも震災の影響を濃く感じさせる歌詞ではあるが、マサムネくんらしくさりげなく、注意深く聴き込まなければさらっと深刻にならず聴けてしまう曲。
でも、だから救われたというか、あの旅で幾度も崩れそうになった感情を支えてくれたのかもしれない。


そして9月にやっと出たアルバム「小さな生き物」は、これまでのスピッツのアルバムとはやっぱり違うものだった。
何が違うのか、それはやはりたぶん《歌をつくることの意味》《それを人に届けることの意味》、もっといえば《歌をつくり、届ける自分が生きている意味》を草野マサムネが画然と自覚して、もう一度生き直すような気持ちでつくった作品だという点だと思う。
それにしても、ここまで再びというか新たにというか、みずみずしくなれるマサムネくんは本当にすごい人だ、と私はアルバム「小さな生き物」を何度も聴いては感嘆した。
そしてその作品を成立させているのがメンバーの演奏であり、マサムネくんの声であるわけだが、マサムネくん身体も壊しやすいけど喉も弱いのね。彼の喉の急変でツアーの途中で休演になったのは今回が初めてじゃないので。

私は、草野マサムネの作詞作曲能力とともに、その歌声は人間国宝級だと個人的に思っているので、今回もそうだけど彼が喉を壊すと「これは人類の宝(ショックのあまり国宝を飛び越えている)の危機じゃ!」とものすごく焦る。
いやまあ、単に彼の歌声がものすごく私の脳の快感中枢(?)にジャストミートして、どんなほかの声よりも私にとって治癒能力が高い…ということなんですけど、同じように感じている人はかなり多いのではなかろうか。私なんぞ、あの声が聴けなくなるかもと考えただけで残念とか悲しいとかじゃなく、恐怖を感じる。


というわけで、現在私は「高橋大輔の右足」「草野マサムネの声帯」という二大回復祈願をすることになっておるわけです。
今日は「小さな生き物」アルバム全曲を無事、きっちり歌って祈願してきたので、次はとりあえず全日本にむけて再び大ちゃんの右足回復祈願に力を入れることにしよう。
スピッツのツアーライブ広島2日目は5月に延期公演が決まったそうなので、神戸・大阪公演も同じ時期にやってくれるのではないか…と期待しつつ。どうかどうか声帯お大事に。
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by higurashizoshi | 2013-12-18 01:26 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

奈良の一日

実家からの緊急電話が来ないかな?来ませんように…と祈りつつ、今日はタタとミミと3人で奈良まで行ってきた。

明石でとっても仲良くなった友だちが、ずいぶん前に奈良に転居して、服作りをなりわいにしてコツコツと努力を続けてきた。
その彼女がこのたび初めての個展を開いたので、どうしても見に行きたくて、ずっと前から予定していたのだ。


奈良は2年ぶり。
まずはこの方たちにごあいさつ。
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「せんべい持ってへん?」
やっぱりシカさんは、きゅーとです。
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東大寺の大仏さんに会いに行く。
私は数十年ぶり。タタとミミは初めて。
正面から見上げたときはそう大きく感じなかったけれど、斜めから見ると、ほおお~。迫力。
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大きい、ということの意味をあらためて考えさせられる。
この大きさに守られてきた、いにしえからの幾多の人々の心。


そして一方、魔物や禍いと戦う神さまたち。
ううむ、このかっこよさはどう。
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こちら、南大門の金剛力士像の足部分。
モノクロで撮った、この足に惚れました。なんというリアル。
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ならまちへ移動。
細い路地にいろいろな楽しいお店がたくさん。
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ウインドウにも、シカやほとけさまがあちこちに。
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お昼ごはんのあと、いよいよ友だちの個展へ。
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「風の栖(かぜのすみか)」という、すてきなお店で開かれていた。
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最終日にようやく間に合った…
どきどき。
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服作りを本格的に始めたころ以来、彼女の作品を実際に見るのはとてもひさしぶり。
そして、会うのも3年ぶりくらいかな?
いったい、どんな世界が広がっているんだろう。


友だちといっても、彼女は私よりずっとずっと年下の、まだ20代。
初めて知り合った10代のころから、彼女はたくさんの試練をこえて、自分の足でここまで歩いてきた。
服作りという天職にめぐりあい、ものすごい熱量で自分の理想を追い求め、ひたすら仕事して仕事して…
大丈夫なのかな?って心配になるくらい、貪欲で、がんばりやさんで。

会場に入ると…
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彼女はちっともかわらない自然な笑顔で迎えてくれた。
タタとミミがおとなになった!とびっくりしていた。


並んでいる服たちを見て、手で触れたとき、なんだか泣きそうになった。
あんまりいきいきとした、美しい服たちなので。
そして、彼女が生きているかたちがここにある、と思えて。
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小物は全部売れてしまい、ワンピースをはじめ、服もほとんどが売約済みの札をまとっている。
生地のよさを生かし、こまかいところまで工夫の行き届いた、ほれぼれするような服ばかり。
これから、それぞれの場所で新しく、人を彩っていくのだなあ。
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まだ売れてなかったウールのワンピースが、あまりにミミに似合っていたので、思い切って!来月の誕生日祝いに購入することにした。
「ずっと大切に着ます」とミミ。

試着した写真を載せられないのが残念!
代わりに(?)「風の栖」のべっぴんさん、ひなたちゃんのお姿を。
うふふふーん。
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ミミだけに買うことになったのでタタはちょっとかわいそうだったけれど…
おばあさんになるまで着ようね、ミミ(脅迫)。

彼女と、搬出のお手伝いに来られていたご両親にもごあいさつして、とてもほかほかした気持ちで帰路についた。
古ーいお店で、奈良漬けも買いました。


彼女のブランド「草和花工房」のHPはこちら
作品をながめているだけで和んだ気持ちになります。
その和みは作者の、コツコツと積み上げてきた努力の上にあるのだと思うと、身の引きしまる思いもあって。



なんだかこのところ追われ、疲れていた気持ちがリセットされるようだった奈良の一日。
こんな日もあるから、人生は続いていく。
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by higurashizoshi | 2013-09-24 00:59 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

パルシネマで2本

2本立て1200円という低料金、女性用シートなどきめこまかい配慮、親切なスタッフ。
そしてカオスな街・新開地、福原界隈という立地。ゴージャスともスタイリッシュとも縁のない、昔ながらの映画館=《小屋》的なレトロさも含め、なんともいえない良さを感じる貴重な名画座、それが「パルシネマしんこうえん」
忙しい予定の合間に駆けつけて、一気に2本の映画を旅し、現実に戻るときには少し心が潤っていたり、自分の中に新しい何かが加わっている。

昨日は午前中の用事を終え、車でいったん家に戻って子どもたちと昼食のあと、ひとりで電車に乗り、パルシネマに行ってきた。こんなことができるようになったんだなあ…と改めて噛みしめつつ。

さて今回の作品は『最強のふたり』と『ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋』の2本。長いレビューを書く余裕がないので、ざっとメモ的な感想を書いておきたい。



d0153627_17524586.jpg最強のふたり

フランスで記録的大ヒット、日本でも大ヒット、すでにハリウッドリメイクも決まっている話題作(それにしてもハリウッドはなぜこうリメイクが好きなのか?やらずにいられないのか?)。
事故で首から下がすべて麻痺した大富豪の中年男フィリップと、貧民街育ちで前科のある黒人の若者ドリスが出会い、互いの人生が変化していくさまを描いた作品だ。

なんといっても、ドリス役のオマール・シーが魅力的。全身に生きるエネルギーがみなぎっていて、しかも押しつけがましくなく、ガタイがあんなにでっかいのに何ともいえず愛らしい。
全身のかもし出す雰囲気も素敵なのだが、顔がいい。なんて気持ちのいい、美しい顔なんだろう!と何度も見入ってしまった。私は常々、顔を見ればその人の品性も人となりもわかると思っている。こんな人にそばにいてもらったら、こんな魔法のようなことが起きるのではないか、と思わず信じたくなってしまう。

まったく介護経験もやる気もない若い男が、まったく階層のちがう、しかも重い障害を持った男を介護する。そこに化学反応が起きる。すべてをぶっちゃけで語り行動するドリスに心地よく揺さぶられ、解放されていくフィリップ。これは実話に基づく映画で、元になったドキュメンタリーがあるそうだが、ポイントのひとつはフィリップが大金持ちであることだろう。
経済的負担に耐えながら生活する多くの障害者から見れば、フィリップの何不自由ない生活も、何人もの専属スタッフがつく介護体制も、ほど遠い夢物語に過ぎない。そこを一種のファンタジーとして、フィリップが解放されていく物語を楽しんで受容することができるかどうかが鍵になると思う。
そのためには、どんなにお金があろうとあがなえない苦悩がフィリップの中にあることが観客に共感されなければいけないのだが、そのあたりが少し弱かったのではないかと私は思う。
今、老父を介護していて実感することだが、身体の自由がきかない苦しみ、排泄も含めたコントロールができないことの屈辱感、日々の細々とした苦労はエンドレスで、いつも絶望と背中合わせだ。にもかかわらず希望はあるのだ!と思わせるだけの根拠がこの作品にあるかどうか、というといささか難しいところだ。

だからこの映画はむしろ、比喩としての不自由――何かに閉じ込められ、がんじがらめになっている人が、まったく違う存在と出会い、予想外の形で自分を解放するというストーリーとして観るべきなのだろう。
フランス映画らしいしゃれたユーモアやエスプリ、変に《泣かせる》趣向などないさらりとした展開はこころよかった。クロワッサンを毎朝届ける男の子の前髪に注目!


む、メモ的に、といいながらやっぱり長くなる私の文…



ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋

d0153627_181392.jpg最初に言っておきたいが、この邦題はいただけない。クレイアニメの『ウォレスとグルミット』とまちがえそうだし(そんなことない?)、副題含めて長すぎて焦点がぼやけてしまう。なんかこう、もっとピリッとタイトな邦題がほしかったところで、もったいないと思う。

マドンナの監督第2作。1作目がかなりマニアックな感じだったので、ゴージャスな王室ものが来るとは意外だった。とはいっても、これはどこまで史実、どこまで空想なのか判然としない物語。軸足は現代ニューヨークにあり、ウォリーという若い女性がサザビーズでウィンザー公夫妻の遺品と出会うところから話は始まる。
ウィンザー公とは元のエドワード8世で、離婚歴もある人妻ウォリス・シンプソンとの恋の成就のために国王の位を捨てた人である。この《世紀の恋》の一部始終が、遺品を糸口にウォリスにのめりこんだウォリー(ややこしい!)の現実と並行して語られていく。

映画は二つの時代を小刻みに行き来するうえ、ウォリスとウォリーがどちらも黒髪で(あえてそうしているのだろうが)なので慣れないうちはちょっと混乱する。
現代のウォリーは夫との間に深刻な問題を抱えていて、いわば自己セラピーのような形で、ウォリスの人生をひもといていく。ウォリーを演じるアビー・コーニッシュも好演だが、ウォリスを演じているアンドレア・ライズブローという女優さんが巧い! ぼーとしたお坊ちゃまなエドワードを引き回し、策を弄し、一方で情熱的に愛を捧げる。全イギリスから憎悪されたとまで言われたウォリスを、あでやかな外面の奥の孤独や苦悩も含めて、たくみに造形している。

ウォリスの身につけるファッション、調度品のすべてが豪華絢爛で、凝ったカメラワークとともに、ものすごいごちそう感を味わえる。カルティエのてんこ盛りの一方で、セレブの乱痴気パーティーで流れるのはセックス・ピストルズ。あまりにも満腹でくらくらするので、現代のウォリーが窮地におちいったのを助けてくれる男エフゲニーの部屋の、がらんとしたシンプルさにほっとする。この部屋の書棚にリルケの「若き詩人への手紙」なんぞが置いてあるところがニクい。

映画の中ではウォリスもウォリーもともにDVを受けるのだが、女性が暴力にさらされる主題というのはフェミニストの闘士でもあるマドンナのテーマでもあるのだろう。
ちょうど今熟読中のスティーグ・ラーソン『ミレニアム』シリーズがこの主題に貫かれた話なので、そういう意味でも興味深かった。
『最強のふたり』メインで観に行ったのだけれど、こちらの方もなかなか見ごたえのある作品で面白かった。映画というものは、いつも予想以上の贈りものを私にくれる。


というわけで、今回も「パルシネマしんこうえん」に感謝!
おいしい映画をごちそうさまでした。
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by higurashizoshi | 2013-05-15 18:07 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

偽りなき者

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2012年公開 デンマーク
監督 トマス・ヴィンターベア
脚本 トマス・ヴィンターベア トビアス・リンホルム
出演 マッツ・ミケルセン アレクサンドラ・ラパポート トマス・ボー・ラーセン ラース・ランゼ 
アンヌ・ルイーセ・ハシング シーセ・ウォルド




デンマークの片田舎の小さな町に住むルーカスは42歳。
離婚と失職を経験した彼は、今は町の幼稚園の先生として勤めながらひとり暮らしをしている。ひとり暮らしとはいっても、子どもの頃からともに育った仲間たちに囲まれ、共同体の一員としてそれなりに充実した日々を送っていた。
あるとき、離婚のために別れ別れになった一人息子がルーカスのもとに来て暮らすことになり、彼の心は一気に明るくなる。おまけに職場の同僚の魅力的な女性との恋愛もはじまり、ルーカスの人生に再び光が射しはじめた矢先、信じられない暗転が訪れる。
幼なじみの親友テオの娘で5歳のクララが、ルーカスに性的虐待をうけたと言い出したのだ。
クララはルーカスの幼稚園の園児でもあり、犯行は園内でおこなわれたという。まったく身に覚えのないルーカスは必死に無実を訴えるが、またたく間にこの《事件》は園の保護者から共同体すべてに知れわたり、彼には《変質者》のレッテルが貼られ、身近な人々は手のひらを返したように次々とルーカスから離反していく。
そして懸命に父を信じて支えようとする息子の目の前で、ルーカスは逮捕され、警察に連行されてしまう。

やがて証拠不十分で釈放され、やっと息子との二人暮らしを再開するルーカスだが、本当の地獄はそこから始まった。司法の裁きを受けないのなら私刑を。憎悪ともいえるバッシングは、実際に暴力の形となって次々と彼を襲うようになる。
家の窓ガラスが何者かに割られる。食料品店で買い物を拒否され叩き出される。仕事を、仲間を、信頼を、そして生活の安全も失い、人としての尊厳を奪われて、生き延びるすべのない淵にまで追いやられるルーカス。
そしてある出来事を機に、どこまでも彼を信じてくれる息子も、数少ない擁護者の友人も遠ざけて、彼はたったひとりでこの現実と対峙していく道を選ぶ。
相手の見える暴力と、相手の姿の見えない暴力。後者がよりいっそう怖ろしいことを、この出来事は痛いほど私たちに訴えてくる。
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なぜ幼いクララは《嘘》をついたのか。
なぜルーカスはここまで追いつめられなければならないのか。
そして、ルーカスはこの絶望的な現実をどう生き延びていくのか。

ルーカスは決してヒーローではない。ちょっと依怙地なところのある、優しいが無骨で不器用な男だ。しかしマッツ・ミケルセン演じるこのルーカスは、抑えてもにじむ色香のある、ハンサムで魅力的な男でもある。そこが周囲の男たちとは違っている。
彼の離婚の理由は説明されないが、冒頭、別れた妻が息子を会わせたがらないことからも、こじれた経緯があったことが類推できる。そして彼以外全員が女性の幼稚園の職員の中で、いささか浮きながらも異性としての魅力をルーカスが放っていたことは疑いがない。
そんな彼に恋したのは同僚の女性だけではなかった。5歳のクララも、先生でもあり父の親友でもあるルーカスに、異性の香りを感じて恋していたのである。
あどけないクララの、ほのかな初めての恋。そのかわいらしい想いが、ある感情の行き違いと、偶然の重なりによって、おぞましい《事実》の告発に仕立て上げられていってしまう。そのリアリティには戦慄するほかない。

デンマークには、「子どもは嘘をつかない」という考えが根強いという。子どもの発言が軽んじられやすい日本とは逆に、子どもの言ったことは、子どもであるがゆえに信用される。
クララがあいまいに発したいくつかの言葉が、大人の受け取り方によって雪だるま式に《事件》として形づくられ、人々の動揺がそれに拍車をかける。誰もクララが告発したことを疑わない。実はクララは何も具体的なことを話していないにもかかわらず、である。
しかしそれは、この経緯をスクリーンのこちら側で見続けている私たちにわかることだ。クララをとりまく大人たちはまったく客観的になろうとしない。誰もがその肝心な点をおざなりにしたまま、一種のパニックにおちいり、ルーカスを糾弾する方へと走り出してしまうのである。
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なんて愚かな、と私たちは思う。でもそれは、ルーカスの無実を知り、クララが《嘘》をついたことを私たちが知っているからだ。
ではスクリーンの向こうと、こちら側を入れ替えたらどうなるだろうか。
真実を知るすべのない状態で、戦慄するような《事件》を目の前にしたら、私たちは同様にパニックにおちいり、悪者を糾弾することで安全を守ろうとするにちがいない。
映画の舞台になる町は、のどかで温かな人づきあいの息づく、地域性の高い町だ。ルーカスを追いつめるのはあくまで人間の手であって、ネットなどは登場しない。もし今の日本でこんなことが起きたとしたら、と考えると、標的にされる人間はもっと陰湿で深い、広範囲な悪意にさらされるはずだ。

しかし、そう思っていたのは映画のラストの手前までだった。
ルーカスの、人としての尊厳をかけた戦いがどんな着地をみたのか、それを見届けたつもりになった私たちは、最後の最後で虚をつかれる。しばらく席から立てないほどの衝撃を受けて動けなかった。

デンマークの田舎の伝統として、男たちがおこなう森での狩り。それがいかに人生の中で重要なものであるかが、この映画ではていねいに描かれる。男女平等の印象のつよい北欧の国だが、男だけの領分として「狩猟の免許を取ることが成人の証」とされるのだ。
映画の原題は『狩猟』。
鹿をもとめて銃を手に森を歩き回る男たちと、これから自分たちが標的になることも知らず、静かに歩き回る鹿たち。
彼らのうちの誰が、いつ選ばれるかはわからない。
いつ狩りだされるかわからない。
無垢な目で森を行く鹿たちが、私には人間ひとりひとりのように見えてならなかった。


何といっても、絶望の底をよろめきながら屈服せずに生き抜くルーカスを演じるマッツ・ミケルセンが本当にすばらしい。息子マルクス、そしてクララを演じる子役二人のみずみずしさも際立っている。
人間の不寛容と寛容の両方を、これほど鋭くあざやかに描き出した作品はめったにない。トマス・ヴィンターベア監督の前作『光のほうへ』もぜひ観てみなければと思った。

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by higurashizoshi | 2013-04-20 00:03 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

一日3本!@映画館

一日に3本も映画館で映画を観る、というのはたぶん、20代のころ以来ではないだろうか。

体力的に、というよりも感性のありさまが、おそらく若かりしころとは違ってきていて、昔ならオールナイトでヌーベルバーグ特集5本!とか平気で観られたところを、今はがんばっても一日に2本立てを観るのが精一杯。
20代の自分の感性だと、どんどん映画を観ても、バシッバシッとそれぞれの心のいれものに入れることができて、ハイ次!ハイ次!とわんこそばのようにいけたものが、今では一本観ると、「じわ~」と入ってきて、味わって、考えて、身になるところまで時間がかかる。とてもどんどん次を入れられる余裕なんてない。

それなのになぜ3本観ることになったかというと、そもそもがロベール・ブレッソンの『白夜』が何十年ぶりか?でニュープリント上映されるという話題に「はっ」となり、神戸でもやるというので心待ちにしていた。
神戸アートビレッジセンターでの上映スケジュールをチェックして、日を決めて、タタもミミも誘って。
すると前日になってタタが「どうせアートビレッジセンターで新開地行くんなら、パルシネマでやってる映画も観ようかな~」と言い出した。
確かに「パルシネマしんこうえん」は新開地からすぐ。考えればゼイタクな文化環境に住んでいるものです。
「パルシネマで何やってるの?」と聞くと、
「『ジェーン・エア』と『アウンサンスーチー』」とのこと(パルはいつも2本立て)。
「へー、でもそれも観たら、一日3本も観ることになるやん!さすが若いなー。ようやるわー」
と、完全ひとごとだったのだけど。

ふーん、ジェーン・エアかあ… 昔の映画なら観たな。新作はミア・ワシコウスカ主演だったよね。ミアはいいよね。『永遠の僕たち』もよかったな。
で、相手役がマイケル・ファスベンダー?ほおお。『危険なメソッド』観たとこだわ。
え、ジェイミー・ベルも出てるの。『リトル・ダンサー』の子役から、いい役者になってるよねえ。

アウンサンスーチー、監督がリュック・ベッソンってなんで? 主演のミシェル・ヨーは『グリーン・デスティニー』の人だよね。デヴィッド・シューリスも出てるのか~。

などと情報をちらちら見ながら思っていたら、

《人生は短い》
《やれるときにやれることをやれ》
《今できなかったことを次にできると思うな》

等々の格言?がなぜか頭に次々と点滅してきた。

うーん。行く気になったら行けるんだもんなあ。
でも3本も受けとめられるかなあ? 『白夜』観るときには頭ごちゃごちゃになってないかな?
…まあいいや! やれるときにやれることをやれ、だ!

とまあ、こんなふうに決心がいるところが、すでに年老いた証拠なんですねえ。
そういうわけで、朝からパルシネマしんこうえんに出かけ、この2本を。
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そのあと夕方から神戸アートビレッジセンターで、これを。
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観てきました。



結果的に、頭は大丈夫でした。
心は美味でおなかいっぱいになり、すごい充足感を味わいました。
うん、これなら一日5本でも6本でもいけるかも!
再びわんこそばに挑戦できそうな錯覚すらおぼえた、厳寒の神戸の一日でありました。

それぞれのレビューは後日書きたいと思います。
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by higurashizoshi | 2013-02-28 17:40 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

エディット・ピアフ 愛の讃歌

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2007年公開 フランス・イギリス・チェコ
監督 オリヴィエ・ダアン
脚本 イザベル・ソベルマン
出演 マリオン・コティヤール シルヴィー・テステュー パスカル・グレゴリー ジェラール・ドパルデュー




エディット・ピアフと美空ひばりの共通点について考えていた。
考えれば考えるほど、この二人の生涯には似たところがある。
下町的な出自、幼時からの歌手としての出発、不世出といわれる稀有なその才能。
裏社会との癒着、著名なスターとの恋愛と破局、多くのスキャンダルと孤独。
そしてキャリア半ばにして病に倒れ、一度は復活のコンサートをおこない、惜しまれながら早くに世を去ったこと。
そのうえ、ピアフという芸名は雀という意味。
雀とひばり。
二羽の鳥はどちらも、なみはずれた強烈な個性をもち、そして熱烈に人々に愛されて死んだ。

「いやになるほど歌がうまい」。
美空ひばりの歌を聴くといつもそう思い、でも好きではなかった。
そしてピアフも「すごい声だな」と思いつつ、あまりにもどぎついその歌唱スタイルが過剰に感じられて、すすんで聴くことはなかった。
それがごく最近になって、なぜかピアフのあの強烈なだみ声が、心に沁みて感じられるようになった。そのあられもないほどの表現の裏に、哀しみややるせなさが貼りついている。
そう感じられるようになると、聴けば聴くほど、ピアフの歌は私にとって深く魅力的なものになってきた。きっと私が年齢を重ね、ものごとの歪みや苦みも、芳醇なものとして味わえるようになってきたからだろう。美空ひばりにだって、そのうち開眼する日が来るのかもしれない。

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『エディット・ピアフ 愛の讃歌』は、ピアフの幼少期から晩年までを描いた伝記映画である。
親との縁が薄く、娼家や芸人小屋でさまざまな大人とかかわりながら育った幼少期から、路上で歌い日銭を稼ぐ娘時代、才能を見いだされてデビューし、47歳で死を迎えるまでの道のり。
それらを、巧みに時代を行きつ戻りつしながら描いていく手法が鮮やかだ。
女王のように君臨する若いピアフのシーンのすぐあとに、晩年の、病と薬物依存で老婆のように衰えた鬼気迫る姿がさしはさまれる。
オランピア劇場での生涯最後の公演で倒れ、楽屋にかつぎこまれたピアフは、舞台に戻してほしいと懇願してうめき叫ぶ。
「一曲でも歌わないと自分に自信が持てないの。歌わせて、歌わせて!」

彼女がこれほどまでに才能に恵まれた不世出の歌手でなければ、路上から出発してほどほどの幸せを手に入れることができたかもしれない。
酒におぼれ麻薬におぼれ、次々と恋をして、周囲を傷つけ支配し、そのくせ孤独に身を折り、一方では世界中を飛び回り喝采を浴びる日々。
悲惨なことも多かった少女時代、彼女は大人たちに翻弄されながらも、下町の世界で濃く熱いかかわりを他人と交わしていた。けれど有名になり、天才と認められることで、彼女が何かを決定的に失っていく過程が、観ている側にじんじんと伝わってくる。
そしてそれを埋めるように彼女が身を捧げた、世界チャンピオンのボクサー、マルセルとの恋。
「神様、私にマルセルを与えてくださってありがとう」。少女のように祈るピアフの愛らしさ。そしてそれが信じられない形で壊れ去ったとき、ピアフの人生は決定的に破綻に向かって走り出す。
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幼いころ、路上で歌っていた母。その母に捨てられたピアフは、いつか同じように路上で歌うようになった。それだけではない。自分が歌うために、十代で生んだ娘を育てることができず、あっけなく病気で死なせてしまうのだ。
母に捨てられたこと、自分もまた母のように自らの子を見捨てたこと、それがピアフにとって生涯癒えない傷となる。それでも歌わずには生きていけない。舞台で脚光を浴び、力の限り歌い、称賛を受け続けなければ生きる実感が持てない。華やぎの陰でもがき苦しみ続ける彼女の姿が、等身大で胸に迫ってくる。

そういえば、美空ひばりはピアフとは反対に、捨てられるどころかステージママに支配されるようにして育ったと聞く。けれどそれもまた、別の意味で母子関係の影が人生に濃かったともいえるだろう。
そして何より、二人の共通点は熱狂的な大衆の支持だ。ひばりの葬儀のとき、テレビの中でものすごい数のファンが泣き崩れ、叫んでいたのを思い出す。ピアフの葬儀の際にはパリ中の店が休業になり、葬列を見送る無数の人々が路上に群れをなしたという。
その歌声が庶民の喜び悲しみと結びつき、その生きざまがきれいごとでなく、必死で生きる人々を励ましてくれる。そういう意味でピアフもひばりも、単に天才的な歌い手だっただけでなく、それぞれの国で後にも先にもいないようなたった一人の選ばれた存在だったのだろう。

エディット・ピアフの映画であるわりには、実際に歌うシーンはそれほど多くない。これは歌手ピアフの映画ではなく、生身の女性ピアフを描いた映画だからだ。
けれど数少ない歌のシーンは鮮やかで、克明に心に残る。特に最後のヒット曲となった『水に流して』を舞台で歌う場面は、ピアフの人生を凝縮したような、痛みと赦しがないまぜになった光が彼女から放たれていて、涙が止まらなくなった。

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ピアフを演じているのは、当時30そこそこだった美しい女優マリオン・コティヤール。
本当にこの人が?と誰もが目を疑う、老醜すさまじい晩年のピアフも、若いころのあけすけで傲慢でとうてい美人とはいえないピアフも、その変身ぶり、演じぶりは本当に一世一代といえるだろう。
監督のオリヴィエ・ダアンはまだ30代前半、長編映画の経験も多くなかったらしい。その若さでよくぞこの国民的スターの生涯を描く、リスクの大きな映画を、これほど質の高い作品に仕上げたことだと思う。

暗く激しいシーンの多いこの映画の中で、唯一といっていいほど明るくおだやかな場面。
それはピアフが病気療養に入ってから、ひとりで海岸に行くところだ。
陽光のきらめく海を見ながら、浜辺に座って編み物をするピアフ。やわらかな微笑を浮かべ、童女のように無心に編み針を動かす彼女のもとに、パリから来たというインタビュアーが突然訪れる。
夢か幻想のように不思議な空気に包まれたこの場面は、まるでピアフから伸べられた手と、ピアフを愛する人々の手がそっと合わさるような救いを感じさせる。

あまりにも早い死ではあったけれど、彼女は十分に戦い、十分に表現し、生き抜いた。
映画が終わってからも、《私は何も後悔しない》と歌うピアフのだみ声が、いつまでも耳から離れなかった。
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by higurashizoshi | 2013-02-24 00:32 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

シネマひぐらし

またもブログを書けない負のループに落ちていた私…
といっても心身に異変があったわけはなく、例によって忙しかっただけ。

忙しさの原因のひとつは、娘たちの入学・転校準備、例によっての日々のあれこれに加えて、フィギュアスケートシーズン後半の恒例、ヨーロッパ選手権と全米選手権の鬼・生放送を追いかけ続けていたこと。
カップル競技はすぐに放映してくれないのに、男女シングルだけは生で中継してくれるJsports…。いや、それだけでもありがたいと思わなければいけないのだろうけどね。
全選手の滑走を中継してくれるので、もちろん全部観る私。(全部で何十時間観たことだろう?)
ヨーロッパにせよ全米にせよ、日本ではほとんど無名の選手でも、毎年観ていたら「あ、この選手成長したな」とか「今季のプログラムはひと味違うね!」などなど、たくさん応援する選手ができてくる。
今年も、表彰台には遥か遠くても、たとえジャンプは失敗が多くても、年々成長する選手たちの気迫のこもったすばらしい演技が多く観られた。

今回のヨーロッパと全米では、男子は勝つためには4回転ジャンプが標準装備となり、それをより多く成功した選手が頂点に立つという結果がはっきりした。
スポーツ競技としてはしごく当たり前のことながら、フィギュアスケートの場合はそれだけがすべてではない。
音楽を表現すること、観客の心をつかむこと、それらが要求され、しかもその成果も点数化される。
ふつうに考えればスポーツの範疇に入らない芸術面が評価の対象になるということ、それ自体がスポーツとして根本的に矛盾をはらんでいるといえる。
でも、だからこそフィギュアスケートはおもしろいのだ。

というようなことを改めて感じたあとは、夜中にまたしこしこと作業を始める私。
もう、ずいぶん前からやろうと思っていたことなのだけど、この「ひぐらしだより」に書いてきた映画のレビューを冊子にまとめる作業を開始したのだ。
これがまた大変で。
せっかくまとめるのならと細かいところを書き直したり、新しく写真を入れたり、フォントを変えたり揃えたり…
要するに、適当なくせにこだわるというか、こだわるわりには適当なんだけど、適当なくせに結局こだわる。
で、時間が無限にかかる…睡眠が削れる…
たかが道楽なのに何をやっているのやら。

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表紙もこのように作ってみました。
小さくてよくわからないかもですが、「シネマひぐらし」というのが冊子のタイトルです。

2月初めに5日ほど東京に行くので、それまでに完成させて… ほかにもやらなければいけないことが…
とカレンダーを見ると出発は3日後!?
実家でもまたいろいろと問題が起きているので、そっちにも行って、家も片づけて、旅の用意をして、でも明日からカナダ選手権だよ?

しーん…
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by higurashizoshi | 2013-01-29 18:46 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

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