ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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カテゴリ:観る・読む・書く・聴く( 108 )

レ・ミゼラブル

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2012年公開 イギリス
監督 トム・フーパー
脚本 ウィリアム・ニコルソン アラン・ブーブリル  クロード・ミシェル・シェーンベルク ハーバート・クレッツマー
出演 ヒュー・ジャックマン ラッセル・クロウ アン・ハサウェイ アマンダ・セイフライド エディ・レッドメイン ヘレナ・ボナム・カーター サシャ・バロン・コーエン サマンサ・バークス
  



ミュージカルにはあまり縁がないので、長年にわたり日本でも上演されてきた「レ・ミゼラブル」も観たことはなく、劇中歌を耳にすることがあるくらいだった。とはいっても、原作の小説は子ども時代に忘れられないお話として残っていた。
いまだにヴィクトル・ユーゴーの原作をきちんと読んではいなくて、昔子ども向けの抄訳で読んだだけなのだけど、幼い私にはかなりのインパクトがあった。
なんといっても当時の題名は「レ・ミゼラブル」じゃなくて、「ああ無情」である。
「ああ」といきなり来るだけですごいのに、直後に「無情」。どうしろというのだ。
そして中身もおとらず濃く、哀しく、子ども心に胸をかきむしられるような展開の連続なのである。

ジャン・バルジャンの悲惨な境遇、その怒りと孤独。
迷いなく彼を招き入れる司祭、銀の食器と燭台の、ゆるしと祝福のエピソード。
開眼し生まれ変わるジャン・バルジャン、なんと市長にまでのぼり詰める。
執拗に彼を追い続けるジャベール警視の冷徹さ。
薄幸の少女コゼットとその母ファンテーヌの底なしの不幸。

同時に、ハラハラドキドキのスペクタクルでもあるのであって、中でも荷馬車のエピソード(怪力のジャン・バルジャンが、素性を知られる恐怖に打ち勝って倒れた荷馬車を持ち上げて老人の命を救う)と、人違い誤認逮捕事件(別の男がジャン・バルジャンとして逮捕され、市長の職もすべて投げ打って彼はその男を救う)には、何度読んでも、
「あかん!あかん! ジャンさんそれやったらオシマイやで!」
とページに向かって叫びたくなってしまうのだった。

しかも手中の珠として育て上げたコゼットはマリウスという青くさい男に捧げてしまうし、若い二人の幸せのために自分はどこまでも身を引くジャン・バルジャン。
献身、とか己の証を立てる、ということの意味がわからなかった子ども(私)にとっては理解しがたい展開も多く、でも忘れがたい磁力をもったお話だったと思う。

大人になってからこの「ああ無情」が「レ・ミゼラブル」となってミュージカル化されたのを知ったときも、《あの話なあ…哀しいしなあ…もう卒業やわあ…》くらいに思って、特に観たいとも思わなかった。
そもそもミュージカル…私の中でジャン・バルジャンがいきなり朗々と歌い出したり、コゼットと二重唱したりというのはあまりにも違和感があって、ちょっとご勘弁という感じだったのだ。

だからこの映画も、タタが誘ってくれたからという理由と、従来のミュージカル映画と違いアフレコでなく、撮影現場で俳優たちが歌っているのをそのまま収録しているという話を聞いて興味をおぼえなければ、きっと映画館まで足を運ばなかったと思う。


さて映画はというと、舞台版の歌を一曲もらさず収録しているそうで、次から次へと歌合戦のごとくに名曲の奔流。慣れないうちはクラクラする。しかもストーリーもツメツメのめまぐるしい展開で、まるでダイジェスト版を観ているよう。
そしてジャン・バルジャンは私の中のイメージでは骨太のがっちりした感じ、ジャベールは顎の細い神経質な感じ、だったのが、ヒュー・ジャックマンとラッセル・クロウだとまるでその逆なので、当初はちょっと違和感があった。

しかしその違和感も間もなく気にならなくなり、なかなかにみなさん適役で、しかも選りすぐられた役者たちだけあって歌唱力、表現力はほんとうにすばらしい。
なかでも出色なのが、わが子を思いながら破滅の道をたどる若い母親ファンテーヌ役のアン・ハサウェイだった。
幼い娘のため、髪を売り、歯を売り、そしてついに身体も売った直後に彼女が歌う『夢やぶれて』。
ここまで心を揺さぶる歌唱というのはなかなか経験したことはない。
彼女がこの一曲を歌い切った直後に、私は頬に流れる涙とともに、今年のアカデミー賞はこの人だなと確信した。
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おそらく舞台版と違うのは、演じる俳優の細かい表情のひとつひとつが如実に、もちろん歌のシーンでも大画面に映し出されること。
アン・ハサウェイは美貌すぎるゆえにお嬢さんぽい役が多かったけれど、近年は役柄も広げていて、それでもこの役は非常な汚れ役。女性として人としての尊厳を失わされ、いわば丸裸の状態の中から、絶望と過去への懐かしみ、そして失わない強さを実にきめ細かく表しながらの絶唱。感情の塊がこちらをわしづかみにするようなその演技に、彼女の女優魂を見せつけられた。

監督のトム・フーパーは『英国王のスピーチ』がなかなか鮮やかな作品だったが、この責任ある大作を堅実に撮りきっていると言っていいと思う。詰め込みすぎでフタのしまりづらい豪華なお弁当箱みたいになっているのはまあ仕方がなく、ダイナミックな描写を多用し、臨場感あふれる役者たちの歌と演技で十分に楽しませてくれる。
やはり、撮影時にその場で歌うという収録方法が成功したのだろう。演じるそれぞれの《必死さ》がダイレクトに伝わってくるのである。この前『マリリン 7日間の恋』で注目したエディ・レッドメインもこんなに歌がうまいのか!と感心したら、もともとミュージカルの舞台でブレイクした人なんですね。

ジャン・バルジャンの最期のシーンも、たぶん歌で表現されているからこそダイレクトに親子の情愛や感情の振幅が伝わってくる。そのほかにもエポニーヌの報われない恋など、やはり《哀》の感情が表される歌唱がとりわけ心にしみた。全編にわたって、音楽で表現することの力を改めて感じさせられ、いつか舞台版も観てみたいものだなあと思った。
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物語の中で、子どものころはどうも理解できなかったジャン・バルジャンの徹底した《献身》も、ジャベールが憎悪してきたジャン・バルジャンに許されて自らを失ってしまう顛末も、この歳になってようやく理解できた。やっぱり歳は取るものだ。
ただしこの歳になっても歴史オンチのため、いまいち理解できないフランスの19世紀初頭。
物語のクライマックスである七月革命から六月暴動、ボナパルティズムの若者たちが何を目指して蜂起し命を散らすのか、それが理解できないと、結末のシーンに感情移入できないという点が自分としては残念だった。まだまだ、勉強が足りません。
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by higurashizoshi | 2013-01-14 22:13 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

エル・グレコ展@国立国際美術館

「この前エル・グレコ展に行ったときは…」
と言いかけてハッとする私。国立西洋美術館に観に行って、夢中で何時間もグレコの絵を眺めたのは…もしかしてはるか昔?
調べてみると、はたして以前のエル・グレコ展は1986年に開催。26年前の記憶がこんなに鮮やかに残っているとは。

作品のほとんどが宗教画だから、私がその絵の深い内容を理解しているとは、とても言いがたい。
400年以上前、クレタ島からイタリア、スペインと移り住み、宗教画の巨匠として君臨した人の絵を読み解くような知識も技量も、もちろんない。
ただ、無性に魅かれる。無性に好き。なぜか最初にエル・グレコの絵を見たとき(さらに昔、エルミタージュ美術館でのこと)からとりこになった。
だから今回、大規模な展覧会が大阪でも開かれることがわかったときは本当にうれしくて、やっと予定をあけて確保した日を指折り待っていた。


一番最初に展示されていたのは、50代の自画像。
なかなか食えない男、という感じの鋭い眼光。彼の描く人物はみんななぜか細長いのだが、この自画像も細長い。
「俺の絵を見て何がわかるんだ?」というシニックな声が聞こえてきそう。
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「聖アンナのいる聖家族」
遠くから見ると、聖マリアの上半身だけが光り輝いて見える。輝くばかりの美しさ、というが、ほんとうに白く浮かび上がり、光っているのである。
このマリアの美しさは正直異様なほどで、それにくらべてマリアの母のアンナも、夫ヨセフも、極端に地味で目立たない。幼子イエスも、まるで添えもののように見えてしまう。
何か特異な感動を与えられる絵である。
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「フェリペ2世の栄光」
一見、何がどうなってるのかわからないけどなんだかすごい。これはフェリペ2世をたたえるために描かれた作品だそうで、天上あり地上あり地獄あり煉獄あり、それをひとつの画面の中にこれでもかとばかりに盛り込んで、喜ばしいのと神々しいのと禍々しいのと恐ろしいのが細密にいちどきに描写されていて、色彩のあざやかさ(グレコの赤は美しい)も相まってめまいがするほどである。
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「福音書記者聖ヨハネ」
エル・グレコの描く聖人画はとてもなまなましい。それは現代の若者といってもよさそうにすら感じられる。そしてみんな、老いた聖人も含め、ひとしく美男である。
この聖ヨハネなんて、まるでロックスターかアーティストのようではありませんか。
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「受胎告知」
プラド美術館にある大作の、グレコ自身の手による縮小版とのこと。その大作のほうを、かつて国立西洋美術館で見たような気がするのだけど記憶違い?
ここには円熟期の《これぞ、エル・グレコ》と言いたくなる要素が満ち満ちている。
宗教的観点に立たない私から見れば、それは過剰で異様なまでの美の奔流。ものすごくヘンで、ものすごく美しい。
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「無原罪のお宿り」
今回の展覧会最大の絵。3メートルの高さから見下ろす作品の力に圧倒される。
トレドの聖堂からお借りしたもの、つまりこの絵は宗教画として現役なのである。なにか、こんなところに来てもらって申しわけないような気持ちになる。
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たぶんスペインに行かない限り、一生この絵をふたたび見ることはないだろう。
エル・グレコが73歳で亡くなる前年に描きあげた、集大成のような作品。
それにしても、いつまでもいつまでも見ていたくなるこの魔力のようなものはなんだろうか。天使のみなさんの頭の密集ぐあいまで過剰すぎ、うねりながら高みへとのぼっていくものすごいエネルギーに巻き込まれる。


これまでのエル・グレコ展史上最大の50枚が展示されていたそうで、歩いてはふらふらになってベンチで休み、歩いて見てはまた休み、頭も沸騰ぎみで、やっと会場を出て時計を見ると、入ってから3時間半たっていた。
ほかにも気に入った作品が何点もあったのだけど、画像が見つからなくて紹介できず残念。

帰りの車中で図録を見ていたら、また感動が戻ってめまいがしてきた。
ついつい全身全霊でものを見てしまうのである。
この前友だちに「ひぐらしは、熱いのよ。」と言われて「ハイ?」と思ったけれど、こういうことを言っていたのかな、と思う。
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by higurashizoshi | 2012-12-06 00:55 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

3冊の著書

11月15日午後1時45分。
その日その時間のあと、彼のいなくなった世界で私は生きている。
自分のまわりの、生きて動いている人たちを不思議に感じ、この長い夢から早くさめたいと思っている。

きっとこれから時間がたって、これが夢でなく現実であることを私はゆっくりと認めていくのだろう。

彼は3冊の著書をのこした。

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浅田修一との対談。1998年9月、ぼっと舎刊。
《なまなましくも、嘘(ことば)の「私」――右足のない男と、腫瘍をもつ男が震災後の神戸で、身を削るように語り明かした魂の記録》



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1999年4月、河出書房新社刊。
《愛する家族の死がくれた、「書く」という習慣。かつて傾倒した西東三鬼の俳句や散文に同質の波長を感じとり、三鬼と戯れながら書き続けた、母と二人の弟たち、そして自分自身への鎮魂歌。第5回蓮如賞佳作受賞作品》

これだけは絶対に書かなければならない、その気迫のもとに書き上げた作品が賞を受け、出版されることになって、祝杯をあげたときのことを鮮やかに思い出す。


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2005年9月、ミッドナイトプレス刊。
《入院生活で、生きてあること、死んでいくことについて痛いような教訓を得た。それを糧にして今後の日々を大事に生きてみようと思っている-。『詩の雑誌midnight press』に連載された「高崎通信」をまとめる》

何度目かに倒れた前後、父の死もはさみながら綴った文章。心身ともにつらい状態での連載を一冊にしたもので、もっとまとまったいいものを形にしたいんだと口にしていた。


あたりまえのことだけれど、その人がこの世から消えても、書いたものは何ひとつ変わらずに残る。
まるでロールプレイングゲームさながらに、次々と襲いくる痛みや手術や喪失とひとつひとつ格闘しながら、最後までブログを書き続け、mixiの日記も続けていた。(ブログ「点景」)
3冊の本とともに、彼の生きたあとが、そこには消えずに残って私たちを見ている。
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by higurashizoshi | 2012-11-23 14:22 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

マリリン 7日間の恋

d0153627_23441938.jpg2011年 イギリス・アメリカ合作
監督 サイモン・カーティス
脚本 エイドリアン・ホッジス
出演 ミシェル・ウィリアムズ ケネス・ブラナー エディ・レッドメイン ジュリア・オーモンド ジュディ・デンチ エマ・ワトソン






マリリン・モンローが「嫌いだ」と言ってのける男性に、私はこれまで会ったことがない。
魅力的だけど好みじゃない、と言う男性はもちろんいるが、「嫌い」はいない。
「苦手」と言う人はいるかもしれないが、その人もひとりになると、そっとマリリンの艶やかな写真を横目で見たりするのではないか…(今、どきっとしませんでしたか?あなた)。

彼女が波乱万丈の短い人生を終えて、50年がたつのだそうだ。(今もし生きていたら86歳!)
この50年の不在ののちも、彼女を超える魅力と個性と存在感を持ったスターを見つけることはむずかしい。
今もセクシーさの代名詞として、可愛い女性の典型として、圧倒的なオーラを放つマリリン・モンロー。こんな人はどこにもいない。

この映画は、そのマリリンが女優として成功をおさめ、初めて製作にも乗り出した『王子と踊り子』(1957年)の撮影の舞台裏を描いている。
名優ローレンス・オリヴィエとの初共演を果たしたマリリンは、極度の緊張もあって精神的に不安定になり、撮影は難航。その現場に居合わせた第3助監督の青年がマリリンを支え、たった7日の撮影最後の期間に彼女と淡く艶やかな恋におちる。
後年は映画監督となったその青年が、マリリンの死後ずっとのちに書いた手記をもとにした物語である。

過去、マリリン・モンローを演じた女優は何人かいるが、ここまで正面切って演じきった女優はいないだろう。
素顔はマリリン・モンローとまったく似ても似つかない、華奢でボーイッシュで可憐なミッシェル・ウイリアムズが、《似せる》のではなく《なりきる》のでもなく、彼女なりのマリリン・モンローを作り出すために、細心この上ない演技をしてみせる。まずそこが見どころ。
実際のマリリンよりはるかに清楚であっさりしたマリリンではあるが、何ともいえずコケティッシュで可愛らしく、少女のように儚くて、思わず支えてあげたくなる。

当時の撮影現場の雰囲気を十分に感じさせるカメラワークや美術など(実際に『王子と踊り子』を撮影した建物を使ったという)も上質だし、ローレンス・オリヴィエに扮するケネス・ブラナーや老女優役のジュディ・デンチもさすがの風格。ハリポタ後のハーマイオニー役エマ・ワトソンも端役ながらいい演技をしている。

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しかしなんといってもこの映画ではまり役なのは、憧れのスターだったマリリンのそばで仕事をすることになり、彼女を支えることになり、ついには恋に落ちる青年コリンを演じるエディ・レッドメインだ。
うぶで、生気にみちて、きらきらしていて、まるで仔犬のような若者。
富豪の御曹司にもかかわらず、身ひとつで映画界に飛び込んだ青年が、目のくらむようなスター・マリリンの孤独と不安を前にたじろぎ、彼女の魅力にあっけなく翻弄されていく。
数えきれない男性を次々に支えと慰めにしてきたマリリンにとって、この恋はほんの一時の鎮静剤のようなもの。彼自身もそれをおぼろげにわかってはいる。わかっちゃいるけど止められない。この純粋さとも愚かさともいえる感情を細やかに表現するエディ・レッドメインは絶品だ。あまりに絶品なので、このひと今後年を取っていくと、もっと別の幅広い役をできるようになるのだろうかとつい心配になってしまう。

この映画の最大の成功は、マリリン・モンローというスターの人生の、ごく限られた短期間だけを描いたという点だろう。
観客はこのたった6年後に、マリリンが謎の死をとげることを知っている。すでに彼女は薬の処方に頼り、酒に頼り、演技指導の個人教授に頼り、圧倒的な人気とうらはらに常に劣等感にさいなまれている。
知のアイコンともいえる人気作家ヘンリー・ミラーと三度目の結婚をした直後で、映画の製作者にもなり名優たちとの共演にも漕ぎつけ、名実ともに絶頂期に差しかかっていたマリリン。なりたかったはずのスターの地位。なりたかったはずの演技派への道。
でも彼女は怖い。自信が持てない。自分の思う《あるべき自分》にいつも追いつけず、必死で何かにすがり、ようやく立っている。

この撮影現場ではたまたま、その「何か」が優しく一途な青年・コリンだっただけ。だから彼にだけ見せる素顔、彼にだけ見せる姿態はこの世で一番甘く美しい。
そうやってひとりの青年を頼りに必死に泳ぎ切って一本の映画を撮り終え、現場を去るまでの7日間の凝縮された時の流れを、この映画は鮮やかに切り取ってみせている。

恋は、終わるからこそ美しいのだ。
コリンはいつまでもマリリンとの恋を胸にあたためて生きたのだろう。
でもマリリンはこのあと、人生最後の6年を、きっとあとも振り返らず走り抜けていったに違いない。死後50年たっても男たちをとろかす、圧倒的な魅惑を振りまきながら、あの幼い子どものように渇いた心で。
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by higurashizoshi | 2012-10-14 23:57 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

ペルシャ猫を誰も知らない

2009年公開 イラン
監督 バフマン・ゴバティ
脚本 バフマン・ゴバティ ロクサナ・サベリ ホセイン・アブケナール
出演 ネガル・シャガギ アシュカン・クーシャンネジャード ハメッド・ベーダード

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しばらく前からなぜかイランの映画を続けて観て、イランの料理(ペルシャ料理)を食べに行って。
そして公開当時、新聞記事などで興味を持っていたが観られなかったこの映画を数日前、ツタヤで発見。
ああそうだ、これもイランの映画だったんだ!
最近の、イランとの不思議な遭遇。

「ペルシャ猫を誰も知らない」という印象的なこのタイトル(原題も同じ)の意味はまったくわからないまま、ただイランでは禁止されているロックなど欧米の音楽を、アンダーグラウンドで奏でる若者たちの話だということだけは知っていた。
借りて帰って、観て、何重にも衝撃を受けた。鮮烈だった。

まず、音楽だ。
ここに次々と登場するミュージシャンたちの楽曲のみずみずしさ、多彩なバリエーション!
西欧寄りなロックンロールからヘビメタ、伝統的な中東の旋律とリズム&ブルースなどをミクスチャーしたバンド、ピュアなフォークロック、イラン社会を告発する骨太なラップなどなど、いったいあの禁欲的な国のどこにこんな音楽が? と、ただただ驚きの連続だ。
登場するバンドやミュージシャンにはテクニックの格差がかなりあるものの、その多くは非常に技術が高いだけでなく、ふだん私たちが耳馴れている既存の音とはちがう豊かなオリジナリティにあふれている。

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物語は、アシュカンとネガルという若いミュージシャンのカップルが、イランを脱出して外国で音楽活動をするしか道はないと心に決め、国内で最後のライブを敢行しようと動き出すところから始まる。
アシュカンとネガルは、ちょっといかがわしいが気のいい男ナデルを仲介役に、ライブに協力してくれそうなミュージシャンを求めて多くの場所に出かけていく、その道行きがそのままイランの実在のトップミュージシャンたちの紹介になっていくという仕掛けだ。

状況的には、たとえばソ連時代、ペレストロイカ以前のロックバンドが弾圧を受け、文字通り地下にもぐって活動を続けていたのと似ている。
キリスト教的価値観に加え、厳格なイスラム社会では公序良俗に反する思想が盛り込まれた欧米の音楽は、イランでは演奏することも抑圧され、コンサートを開くことも許されず、もちろんCDなどの発売も許可されない。
ミュージシャンたちは演奏場所を求めてさまよい、当局の規制の枠に触れれば逮捕される危険と隣りあわせで音楽活動を続けている。
だからこそきっと、彼らの渇望は激しく、イランで新しい音楽を作ろうという、いわば命がけの決意にみちているのだろう。
それがまさに「命がけ」の行為であることは、わくわくするようなイランミュージックシーンが繰り広げられる中にときおり差し込まれる、唐突に不穏な場面から示される。

たとえばアシュカンとネガルが、愛犬を連れて車に乗っている何気ないシーン。
(ここで女性のネガルの方がハンドルを握っているのがまず目を引く。地味ながらおしゃれなネガルは、イラン女性が頭に巻くスカーフもぐっと大きく後ろにずらして、髪をはっきり見せている。)
おそらく、音楽活動はおろか、未婚の男女がこうやってずっと二人きりであちこちに出かけたり密室で過ごしたりすることも、イランではモラル違反なのだろう。そんなことを思いながら見ていたら、車は突然警官に止められる。
なんと、ペットを外に連れて出るのは法律違反なのだそうだ。不潔だから、と警官は言う。
そしてネガルの悲痛な叫びとともに、信じられないことが起きる。
ここで私たちは、彼らがどんな現実を生きているのかをつきつけられるのだ。
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ミュージシャンたちの親しげで温かい交友と、時には牛小屋で(このシーンは傑作!)練習したり停電に苦しめられたりと苦労を重ねながらも活動を続ける彼らの情熱に心をゆさぶられながら、時に映し出されるテヘランの街の殺伐とした裏通りに胸を衝かれる。
偽造パスポートを手に入れるためには、法外な金を作らなければならない。それが可能な者だけが自由を手に入れられる。祖国を捨てるという代償と引き換えに。

わずか17日間で、しかも完全なゲリラ撮影(当局に無許可でカメラを回し続けた)で撮られたというこの映画は、粗削りだけれどその分とてもみずみずしく、心をとらえられる。
まるでその場に自分もいて、絨毯の上で膝をかかえて彼らの歌を聴き、迷路のような建物の奥へ奥へといくつもの出会いを求めて進んでいくようだ。
だから、時折の予兆が急激な暗転へとつながるラストを前に私たちは立ちつくしてしまう。音楽だけはいつまでも流れ続ける。

監督のバフマン・ゴバディはクルド人で、これまではイラン国内のクルド人を取り巻く現実を作品にしてきた人だそうだ。
彼自身が前作をイラン国内で上映する許可が下りず、おまけに次回作もつぶされてしまったため、失意の中で趣味の音楽活動をしていてアンダーグラウンドで知り合ったのが、主演の二人だったという。
この映画も、当然イラン国内で上映されることはない。そのことをわかった上でゴバディ監督はこの作品を撮った。映画というひとつの作品として世に出たことで、たとえイランでは正式に上映されなくても、いまやインターネットという手段がある。海賊版DVDも出回っているとか。ここに出演したミュージシャンは一躍有名になったが、そのほとんどは出演後、国外に出て活動しているという。

「ペルシャ猫」はイランの現実そのもの。「誰も知らない」その現実の一端を知ることができたのは、勇気をもって世に出した監督はじめスタッフのおかげだ。どうかたくさんの人に観てほしいと思う。まずはともかく、このすばらしい音楽たちに触れてほしい。
(私は特に、猫をたくさん飼っている地下室のミュージシャン、Hamaed Seyed Javadiの歌に魂をやられた。聴いたことのない世界!)
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by higurashizoshi | 2012-10-01 21:52 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

アジョシ

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2010年韓国
監督・脚本 イ・ジョンボム
出演 ウォンビン キム・セロン キム・ヒウォン キム・ソンオ タナヨン・ウォンタラクン




韓国との関係がなんだか難しいこのごろ、とはまったく関係なく、キャンプ後の残務整理の中で一抹の空虚さなども感じつつ(私、すぐ空虚になるのが得意技なんです)、
「映画観たいなー」とツタヤに出かけていって、
「おお、これ観たかったんだった」
と借りてきた一本。

かつて「親切なクムジャさん」を何の気なしに観てドギモを抜かれて以来、バイオレンス系の韓国映画は相当な覚悟をもって観ないといけないことを肝に銘じており、この「アジョシ」もいちおう《そのつもり》で観たのでした。
しかし、やっぱりそこはそれ、韓国ダークサイドの麻薬取引、殺人のみならず、子どもも含めた臓器売買の実態が、リアルというより関西弁でいうところの「えげつない」描写でドンドン出てくるため、

「これいったい韓国本国ではどのくらいの年齢から観てるんやろ…?」 
「ウォンビン目当てで映画館行った若いお嬢さんとか卒倒しないのかしらん…」
「いや、韓国女子はそんなヤワじゃなくて、この程度の描写に慣れてはるのかしらん…」

などと隣国に思いをはせてしまうのだった。

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で、物語は《韓国版『レオン』》とか《韓国版『グロリア』》とかいわれてるように、
「暗い過去を持つ孤独な一匹狼の男(女)が、わが子でもないひとりの子どもを守るために命をかけて戦う」
という、まいどあり!な定番ストーリー。
ウォンビンが初めて登場するシーンはこんな感じだ。
全身黒っぽい服装のウォンビン、上着のフードですっぽりと頭をおおって力なく歩いている。その姿がスクリーンに出現した瞬間、
「哀愁」「孤独」「断絶」等の文字が脳内にダダダと点滅する。
フードの陰からちらりとのぞくウォンビンの飢えた小鹿のような眼!
しかも彼はその直後、白い菊の花束を買う!
「過去の悲劇」、点滅開始。

そして、やがて初めて裏組織の男たちと対面したとき、目にもとまらぬ早業でナイフを奪うウォンビン。
「昔はその手の人やったんや!」
このわかりやすさ。もうワクワクしてしまう。
もはや頭の中は『レオン』『グロリア』だけでなく『ボーン・アルティメイタム』や『ヒストリー・オブ・バイオレンス』『イースタン・プロミス』などがぐるぐる。
もうこれから何が起きるのかはわかる!わかるよ!

脚本が緻密さに欠けるとか、子どもにそんなにセリフで説明させるのはどうだろうとか、闇組織の親玉がそろってギャグマンガのキャラクターみたいだとか、文句をつけるところはいろいろある。あるのだが、少女を闇組織に奪われてから全身発火、顔半分をおおっていた長髪を剃刀で切り落とし、殺意の鬼と化してたったひとり戦いにおもむくあたりから、
「おおおー! かっこいいやんかウォンビン!」
お姿もかっこいいのだが何といっても声がいい。
私、『母なる証明』も観逃していて、昔の映画も観てないので実は初ウォンビン。
弟キャラなかわいらしいタイプの人だと思っていたけど、この抑揚のない深く低い声、よろしいなあ。

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そしてアクションシーンが半端なく凄いではないか! 何という動きの美しさでありましょう。
マンガチックな親玉たちと違い、ウォンビンと一騎打ちを繰り返す殺し屋(タイの俳優さんだそうです。ええ眼力をしてはります)との戦いが特にすばらしい。
しかし目玉…目玉…! これは日本のアクション映画にはまず出てこないシーン。観た方にはわかります。これもお国柄というのでしょうか。
いやしかし、もはやウォンビンの声とアクションのかっこよさ、暗い哀愁に満ちた表情の連続にくぎ付けとなり、些末なことなど頭から飛んでいき、一気にラストまでなだれ込むのでした。はー、おなかいっぱい。

アクション映画がけして好きというわけではなく、暴力描写、残酷シーンは苦手。そういう映画でスカッとする、という人の気持ちがいまいちわからない私。
しかしウォンビン、かっこよかったです。
そして隣同士の国は、やっぱり似ているところと違うところがあるね。
違うところはすごく違うということをよくわかりあうと、もっとわかりあえるね。
と思った次第でした。
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by higurashizoshi | 2012-08-30 01:02 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

別離

d0153627_229339.jpg2011年公開 イラン
製作・監督・脚本 アスガー・ファルハディ
出演 レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、シャハブ・ホセイニ、サレー・バヤト、サリナ・ファルハディ


映画は、一組の夫婦が裁判所で離婚の申し立てをしている、緊迫した場面で幕をあける。
妻は美しく、教養がありそうだ。夫も身なりがよく、インテリ然としている。
妻は娘の将来のため、家族で他国に移住しようとしていた。そのために奔走してやっと移住許可を取ったのに、夫はアルツハイマーの父親の介護のため、移住に反対。二人は真っ向から対立し、双方が譲る気配を見せない。
イランでも離婚? 女性からもこんなに自己主張激しく離婚の申し立てが?
まずそんな驚きに軽く打たれる。

裁判所から離婚は認められないと告げられ、不穏な空気のまま帰宅する二人。家具や家電のそろった広いアパート、彼らは経済的にも恵まれた階層であるらしい。やがて妻シミンは夜間学校の教師、夫ナデルは銀行員であることがわかる。ひとり娘のテルメーはいかにも聡明で優秀な中学生だ。そのテルメーは大好きな父と母の不和に心を痛めながら、動揺を押し隠し健気にふるまっているのが見て取れる。

まもなく、この家庭に、まったく社会階層のことなった一組の家族がかかわってくる。
離婚を譲らないシミンがついに実家に帰ってしまったために、昼の間父親を看てくれていた妻がいなくなったナデルは、急遽ヘルパーを雇うことにしたのだ。
ナデルが雇った女性ラジエーはいかにも介護の素人で、仕事に幼い娘まで連れてくる。暮らしの苦労が面立ちに表れている彼女は敬虔な信仰の持ち主で、車を乗り回し、インテリで解放的な身なりのシミンとは対照的に、いつも黒くて長いチャドルを巻き直しては身をくるんでいる。
そして驚いたことに、ヘルパーとして雇われたのに、彼女はナデルの父親の身体に触れることができない。アルツハイマーの症状で徘徊や失禁をする彼を前に戸惑うばかり。そして電話で聖職者に相談する。「仕事なら男性の身体に触れても許されるのでしょうか?」と。
イランでは介護の専門職が少ないのだろうか? 異性の身体に触れられない女性を、父親の介護人として雇うなんて、どういうことなのだろう? 

ラジエーは毎日娘を連れ、バスで何時間もかけて通ってくる。信仰上の戒律を破ることを恐れながら、失業中の夫に代わって稼ぐために必死で仕事をこなし続ける。私たちはそれを痛々しい思いで見守る。そのラジエーの苦労を、雇い主のナデルは知らない。
ある日のこと、ナデルは昼間に帰宅し、父がベッドに縛りつけられて意識不明になっているのを発見する。逆上したナデルは、どこかから戻ってきたラジエーに解雇を言い渡し、ドアから叩き出してしまう。
そして叩き出されたラジエーは階段から落ちて倒れた。
いや、落ちたところを私たちは見ていない。彼女が近所の人たちに助け起こされたところを見ただけだ。

翌日、ナデルは驚くべきことを告げられる。ラジエーをドアから叩き出したために、彼女が流産したというのだ。しかもその子は男の子であり、妊娠期間の規定により殺人罪で告訴されるかもしれないと。
そこから、離婚寸前の妻シミンも巻き込み、激高したラジエーの夫も加わって、二組の家族は複雑にもつれあっていく。
ナデルは、雇ったラジエーが妊婦であることを知らなかったと主張する。知ったうえで暴力をふるったのなら、彼は殺人犯となるのだ。

ナデルは、本当にラジエーの妊娠を知らなかったのだろうか?
そして、ラジエーは本当に階段から落ちたのだろうか? 
そもそもなぜ、ラジエーはナデルの父を縛りつけて外出したのか?

いくつもの疑問の前に、私たちは立たされる。
けれどやがて、ここに登場する二組の夫婦は、それぞれ自分の正当性や利益を主張するが、「真実」を求めはしないことに気づかされる。社会的名誉やプライド、信仰上の罰への恐れ、怒りや憎しみ。別々の方向に目をやり、理解しあうこともいたわりあうこともなく、必死でそれぞれの窮地から抜け出そうともがいている。
それをじっと見つめているのは、現場にいたラジエーの幼い娘であり、ナデルとシミンの娘テルメーだ。祖父にも両親にも思いやり深いテルメーは、初めて母の冷たさに失望し、初めて父を疑う。父は嘘をついて、罪をまぬがれようとしているのではないかと。

私たちは、わかりやすい答を期待してはいけない。
ハリウッド映画のような派手などんでん返しや、カタルシスはここにはない。
「真実」があらわれるとき、疑問が氷解した心地よさとは遥かに遠い、苦く重い思いにしめつけられて画面を見つめる。そして、文化も慣習もこれほどことなっている国で、人々が繰りひろげる愛憎の営みが、私たちにこんなにもよく似ていることに気づくのだ。

音楽をほとんど使用せず、静けさの中、全編を貫くただならぬ緊張感。そして俳優たちの自然でリアルな演技がすばらしく、前作の「彼女が消えた浜辺」とあわせて、イランという国がどれほど豊かな文化を持っているか、その片鱗を見せられた気がする。
期待した食事のシーンはまったくといっていいほど出てこなかったが、イランの料理を口にしてから観たせいか、すんなりと異国の世界に入っていくことができた。
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by higurashizoshi | 2012-06-01 22:11 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

イラン映画、ペルシャ料理

「別離」という映画が去年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したとき、内容はまったく知らないままに「え?」と驚いた。いまや核問題をめぐりイスラエルともアメリカとも一触即発の国、イラン。そのイランの映画を保守的な米アカデミー会員が、並みいる候補の中から選出したことに、である。
―いったい、どんな映画なのだろう?
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ベルリン映画祭の金熊賞をはじめ、多くの映画賞を受賞したことに加えて、「これはぜひ観てみなければ」という気持ちになったのは、アカデミー賞のことももちろんだが、「イランという国はどんな人たちが暮らす、どんな空気の国なのだろう」という素朴な疑問がこのところ自分の中にあったから。
国際情勢や、日本のメディアだけ見ていると、イランはイスラム圏の一大脅威、宗教の縛りが強固で、女性は長いベールに身をつつみ…という保守的、不寛容なイメージ。私の貧困な知識はダルビッシュ選手の父はイラン人だったなとか、しばらく前に芥川賞をとったイラン人の作家がいたな、とかその程度。そしてオボロゲな記憶の中のイラン革命…厳格そうなホメイニ師の肖像…。
イラン映画はけっこう日本でも紹介されているのだが、有名なアッバス・キアロスタミ監督の作品も私は機会がなくて観たことがない。これまでかろうじて観たことのあるイラン映画は、たぶんモフセン・アフマルバフ監督の「カンダハール」のみ。

さて、このイラン映画「別離」が元町映画館で上映されることを知ってから、それを観るまでの準備として二つのことをした。この忙しい毎日をくぐってこういうことをやるのが醍醐味というもの。
まず、「別離」に先立って短期間上映された同じ監督(アスガー・ファルハディ。製作・脚本も兼任)の前作「彼女が消えた浜辺」(2009年)を観に行った。こういう上映をちゃんとやってくれる元町映画館は偉い。
そしてこれは、心の腹部(というものがあるとすれば)に直球を打ち込まれるような映画だった。重い、そしてじわじわと効いてくる痛み。

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イランでの映画製作には、とてもたくさんの制限があるという。男女が触れ合う(どんなささいなものであれ)シーンは禁止。暴力描写も、西欧の音楽も、もちろん現体制の批判、シーア派や無神論などの擁護はもってのほか。
だから「彼女が消えた浜辺」も、のちに観た「別離」も、映像描写はもどかしいほど奥ゆかしく、画面の底に常に何かが秘められている気配がただよう。
にもかかわらず、「彼女が消えた浜辺」でまず驚いたのは、イランの女性たちのエネルギーと華やかさだ。貧困層ではなくあえて富裕な中産階級の男女を描いたこの作品の中で、女性たちはもちろん常に身体の線を見せない衣服をまとい、髪をスカーフでおおってはいるものの、ヴィトンのバッグや携帯電話を持ちおしゃれに余念がなく、男性にもまっすぐに自分の意見を言って一歩も引けをとらない。
そして、だからなおのこと、映画の途中で神隠しのようにかき消え、人々に波紋を投げかける美しい女性エリが、何に悩み何におびえていたのかが明らかになっていくストーリーの中で、イランの今を生きる女性が抱えている矛盾や苦しみが胸に迫るのである。

さて「別離」を観る準備として二番目に私がしたことというのは、イランの料理を食べてみること。
こういうとき、神戸は便利な街で、探せばたいていの国の料理を食べさせる店が見つかる。ネット検索ができる時代になってからはなおさら。
その国を知るのは知識だけでなく、味覚から! …と、好奇心と食い気の言いわけもしつつ、映画館と同じ元町にあるレストランに向かった。現地の人たちがどんなものを食べて暮らしているか、それを知るのはとっても重要なことなのだ。

ここはイラン人シェフが作るペルシャ料理(なぜかイラン料理とは言わないらしい)専門店。私、トルコ料理は経験があるが、イランの料理を食べるのは生まれて初めて。いや、ケバブなら屋台で売ってるのを食べたことがあるぞ?
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羊肉のケバブ、フェタチーズ入りのサラダ、香料の効いたスープなどはとても食べやすい味。ナンも柔らかい味わいでおいしい。
強烈だったのは、手前のこげ茶色の料理、くるみとザクロの鶏肉入りシチュー。すりつぶして煮込んだ大量のくるみが、どう味つけてあるのかまるでバターと八丁味噌(?)を合わせたかのようにどろりと濃厚! ザクロはどれかよくわからなかったが、口に含むと香ばしく、塩気と甘みと酸味が渾然一体となり、食べているとなんだかものすごくエネルギーが沸いてくるような、滋味豊か過ぎてムズムズしてくるような食べものだった。
イランの人はこういうものを(毎日ではないかもしれないが)食べているんだなあ…と感慨にひたりながら、「彼女の消えた浜辺」にも登場していた水パイプが店の片隅に置いてあるのにひそかに注目。次はあれを体験したいものだ…。いや、イランでは女性はパイプなんか吸わないのだろうな、たぶん。

そして観た「別離」についてのレビューは次回にゆっくりと。
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by higurashizoshi | 2012-05-30 23:42 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

人前で話す

しばらく前に、キャンプの関係で100人以上の人の前で話をする機会があり、ものすごい緊張で胃が痛くなったのだが、その痛みを忘れないうちにまた人前で話すことになった。
今度は自分の詩集について話すということで、いくぶん責任は軽いものの、わざわざ聴きにきてくれた人になにがしかプラスになる話をしないと、と思うし、おまけにこの前のキャンプの話は15分だったのに、今度は持ち時間3時間! どーすんねん!

場所は地元明石の図書館。セミナー室というところで、定例の「おしゃべりらいぶらりー」という集まり。毎回ゲストスピーカーを読んで話を聴き、参加者で語り合うという趣旨だ。
私は「自分のことばを持つ」というタイトルで話をさせてもらった。参加した人は15人ほどで、こぢんまりしたいい雰囲気。
今回はあんまり緊張してないぞ!と思って話し始めたのだけど、なぜか始めたとたんにまたいきなり胃が痛くなってきた。まずい。なにせ最初に自分の詩を読むのである。人前で。
大きな声で朗読するなんていつからぶりか、とっても不思議な感じだった。

そのあとはいくつかの作者の詩を、テーマに沿って紹介しながら話をしていった。詩は読み手の自由を保証するものであること、詩のマジック(俯瞰やズーム)について、そして12歳の男の子の書いた詩を通して、自分のことばで表現することのすばらしさについて。
話しぶりは不器用でも、伝えたいことは少しは伝わったように思う。参加した人たちからも、いろんな解釈や意見がどんどん出て、とても面白かった。

次がメーンイベントで、参加者ひとりひとりに詩を作ってもらうというもの。
どう進めたらうまくいくかなぁと頭をしぼってオリジナルレシピを作ってみたのだけど、これがことのほか好評だった。
みなさんそれぞれ、自分のことばで書いた、世界でたったひとつの短い詩を書き上げて、持って帰ってもらえた。

最後におみやげとして、比較的最近書いた私の詩を2編読ませてもらって終了。最後まで胃は痛かったがなんとか無事にやり終えた。
「詩の読み方が変わりました」「楽しかった!」「いい経験になりました」などなど声をかけてもらい、ほっとするやら気恥ずかしいやら。
もう一度やるんなら、もうちょっとうまくできる気がするけど、もういいわ、人前で話すのは…とへろへろになって帰ったのだった。

ああ、やっぱり話すのにくらべて書くのはどんだけ楽か…。でも朗読はひさびさに楽しかったので、これはまたやってみよう。もちろんひとりで、ひっそりと。

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by higurashizoshi | 2012-02-23 22:02 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

おるたな

d0153627_1474100.jpg1. リコリス
2. さすらい
3. ラクガキ王国
4. 14番目の月
5. 三日月ロック その3 6. タイム・トラベル
7. 夕焼け
8. まもるさん
9. 初恋に捧ぐ
10. テクテク
11. シャララ
12. 12月の雨の日
13. さよなら大好きな人
14. オケラ


スピッツが新譜を出すたびにほっとする。
まだ生きてるぞ、大丈夫だぞマサムネくん。
仲良く続いてるんだな4人。
震災後、心身がダウンしてツアー休演したり、何かとはらはらさせられ。
ふっと気づくといなくなっていそうな、つつましいバンド、スピッツ。

そんないささか後ろ向きの気持ちを、「おるたな」聴いて突き飛ばされた。
40代で「初恋に捧ぐ」を歌って、こんなにみずみずしいって何なんだ。
原田真二の「タイム・トラベル」なんて歌をこんなに艶っぽくしてしまうし、奥田民生の「さすらい」はのびやかでどこまでも行きそうだし、ユーミンの「14番目の月」ってこんないい歌だったっけ? 
オリジナルのカップリング曲も、どれもスピッツ味の宝庫。ちょっと日陰に立てかけてある絵のように。
なかでも「テクテク」は、もうずいぶん前に「春の歌」のカップリングとして収録されていた歌だけど、私はシングルはあまり買わないので初めて聴いた。
出だしの一瞬で、どん、と胸を衝かれた。
震災後に書いた歌じゃないのか? ととっさに思った。

実際には、あの震災のあと、草野マサムネはまだ新曲を発表していない。曲を作れているんだろうか、と案じているファンはたくさんいるだろうし、待っているファンももちろんたくさんいるだろう。
「テクテク」はまるで彼が震災後の今を、予知して書いた歌のように思えた。
とても美しい、やさしい歌だけど、《失うこと》と《生きていくこと》は同じことなのだと静かに伝えてくる歌だ。

強靭、なんて言葉とほど遠いイメージのスピッツだけど、実はしなやかでしぶとい。そうじゃなければ25年(結成から今年で!)も倦まず壊れず、これほどクオリティを保ってバンドを続けていられるはずがない。
はい、そうでした。ほんとそうでした。つい心配ばかりしてしまう私は愚かものでした。
そう思いながら「おるたな」を何度も聴くのであった。

さあ、次はオリジナルアルバム。どんな言葉を、どんな歌を届けてくれるのだろう。急がせたくはないけど、聴きたい。マサムネくん、どうか身体を大事にしてください。
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by higurashizoshi | 2012-02-07 14:13 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

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