ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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ザ・ロード

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2010年公開 アメリカ
監督 ジョン・ヒルコート
出演 ヴィゴ・モーテンセン コディ・スミット=マクフィー ロバート・デュヴァル シャーリーズ・セロン ガイ・ピアース



文明が滅亡し、地球のすべてが荒廃した未来。ひと組の父子がぼろを身にまとい、ショッピングカートにわずかな全財産を積み、南へと向かって歩いていく。もはや命の芽吹きのない世界で、口に入る食料は過去の保存食を運よく発見するしかない。
そしてもうひとつの方法、人肉食のため人を狩る集団が横行する中、父子は飢えと寒さに苦しみながら逃げ、生き抜こうとする。父は息子に言う、「善き者は人を食べてはならない」。自分たちは善き者であり、火を運ぶ者なのだと父は繰り返し息子に説きつづける。そして暖かい南の海にたどり着けば、そこで生きていけるのだと希望を語る。
しかし、父自身がそれを信じてはいないことは明らかだ。この世界で、まだ幼さの残る息子を守りながら、食料のあてもなく生きのびることなど不可能だと彼は知っている。かつて彼の妻は、この世界に絶望し、心を病んでみずから命を絶った。息子を道連れにすることを許さなかった彼に、冷酷な一瞥だけを残して。そして彼は息子と二人、生きるために南をめざして出発したのだ。
生きのびる手立てをもたない彼らが生きていこうとする、その希望なき道行きはどこに通じていくのか。彼らは善き者でありつづけることができるのか…。

コーマック・マッカーシーの小説『ザ・ロード』は、私が一昨年読んだなかで最も感動した小説のひとつだった。これがヴィゴ・モーテンセン主演で映画化されるのを知ったときから、公開を心待ちにしていた。ヴィゴほど、この作品の中の絶望的な世界を生き抜くことのできる、禁欲的で忍耐強い父親に似合う役者はいないと思ったからだ。
撮影が始まる前から、すでに原作の本が擦り切れてぼろぼろになるほど読み込んでいたヴィゴ(インタビューのとき、その本をよく手にしていた)は、これまでの役作りと同様、完璧な準備をおこなって、この父親(原作にも名前はなく、映画の役名もただ《man》となっている)を演じた。
十数キロの減量、ホームレスの人々の中に入って過ごす経験、それらはたぶん彼には当然の下準備で、むしろ精神的な意味でこの父親の役を完全に理解し自分のものにすることに、彼は精力を集中させたのだろうと思う。ハリウッドの俳優としてはまれなことに、離婚後男手ひとつで一人息子を育て上げたヴィゴは、出世作となった『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのアラゴルン役のオファーが来たとき、撮影で息子と離れるのが耐えがたく、オファーを断るところだったというエピソードが残っている。
おそらく父と息子のたった二人の絆について、彼は深く理解できる経験者であり、だからこそこの究極の父子の旅の物語に安易な感傷やわかりやすい悲哀を持ちこまないよう、厳しく自分を律した演技を貫いたのだと私には思えた。彼の演じる父親は、受難に遭う聖者のように、かぎりない慈父のように、また冷徹な動物のように見えた。

結局のところ、親が子にできること、それはほんとうにわずかなことでしかない。自分の命を張って子を守ろうとしても、自分の命は限りがある。これだけが真実であるという小さな灯を子に渡すことができたら、それだけで十分であり、この父親がかろうじてできたのもそういうことなのだと私は思った。
スクリーンの中には凍りつくような荒廃の世界があり、ひとりの父親が息子だけのために、命がけで凄惨な戦いを続けている。映画館の外は灼熱の暑さで、快適な文明が維持されている中で今日も親が子を見捨て、殺している。そのことをじんじんと感じながら映画館のシートに座っていた。
そして、この映画の中のような絶望的状況の中で、ただ子どもを守ることだけにわが身を使うことは、親となった人間にとって実はひとつの究極の幸福なのかもしれない、とも思ったのだ。それはぞっとするような、少し恍惚とする感覚だった。

原作を忠実に映像化しようとした脚本、ヴィゴと息子役の少年をはじめ、役者はみな素晴らしく、映像も美しく、とても誠実な作品であったことは心から認めつつも、私にはどうしても納得できない一点が残った。これは原作を愛読したものの見方であるけれど、原作では夢とも現実ともつかない幻想的なラストシーンの描写が、映画では一面的な結末になってしまっていたことだ。これがヒルコート監督の解釈なのか、製作側からの意図なのかはわからない。
もちろん、エンドロールに流れる音(胸を衝かれる)が原作のラストをなぞっていると解釈できなくはない。けれど私としては、この絶望の物語が最後にかすかな希望をどうつかみ取るか、そのもっとも重要な幕切れを納得できる形で見たかった。それが残念だ。
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by higurashizoshi | 2010-09-07 22:57 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(4)

子は消ゆるもの

短歌にはほとんどなじみがないけれど、先日亡くなった河野裕子さんの名は知っていた。享年64歳、今の世では早すぎる死である。
訃報をつたえる記事のなかに、河野さんの作品がいくつか引かれていた。

たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏(くら)き器を近江と言へり
君を打ち子を打ち灼(や)けるごとき掌(て)よざんざんばらんと髪とき眠る

身体感覚をことばに結びつける、その感性が抜きんでていた人なのだなと思う。あえて直裁にものごとを描くドラマチックな歌が多く、私の好みとは少し違うのだけれど、圧倒的な才能と力は素人にも感じとれる。

朝に見て昼には呼びて夜は触れ確かめをらねば子は消ゆるもの

この歌を20代で読んでいたら、「何をおおげさな」と思っただろう。母親のエゴすら感じただろう。一日のすべてを子とともに過ごし、その存在を確かめていなければ《子は消ゆるもの》。そんなに思いつめた母親なんてうっとうしい、そう思ったかもしれない。
でも今の私はこの歌を読んで、胸を衝かれる。そうだ、ほんとうに《子は消ゆるもの》なのだ。小さな命の、実はどんなにはかないことか。それを手のひらで包むように守り、育てていく果てしない繰り返しの日常のために、親はどんなに力をつくさねばならないか。
ミミが一歳半で入院し、回復のきざしのないまま、高熱と不安で泣き叫ぶのを病室の小さなベッドに添い寝して、幾晩も抱いて過ごしたことを思い出した。命は、まして小さな子の命は、たえまなく守り続けなければ、いや、たとえ守り続けていたとしても、あるときふっと消えてしまう。消えてしまうかもしれない。その恐怖と、親は親になった瞬間から戦いはじめる。

だから、子どもを育てるとは、ほんとうに消耗するしごとである。生半可な気持ちでできることではないのを、自分自身親になってみて初めて思い知らされた。今も思い知らされつつある。そこから与えられるよろこびと、このたえまない消耗は、いつも背中合わせに続いている。

それにしても、この歌は一歩間違うと《正しい母親》、母とはこうあるべきという理想像のように読まれてしまうかもしれない。常にわが子を手放さず面倒をみる母親、こうでなければ子は守り育てられないんだと、どこかの間違ったおやじさんが得々と語ったりしたら大変である。
そして、一面そのように受け取られかねないところが、この歌の中にはあるともいえる。自分を削ぎ落とすように子を育てゆく母親自身の、一種の恍惚感がこの歌に底光りしていて、最後の《子は消ゆるもの》で読者をわしづかみにし、見事な完結をみる。これは相当巧みな作りである。他者にほかの思考をゆるさないようなところがある。そう考えていくと、この歌は少し危険な歌でもあるような気がしてくる。

次回は最近映画館でみた映画のレビューをひとつ。今書いていたことともつながる部分もある、究極の親子の話である(こちらは父と子だけれど)。
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by higurashizoshi | 2010-09-04 14:36 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

カティンの森

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2007年 ポーランド
監督 アンジェイ・ワイダ
出演 マヤ・オスタシェフスカヤ アルトゥル・ジュミイェフスキ ヴィクトリャ・ゴンシェフスカ マヤ・コモロフスカ



数年ぶりに、ひとりで映画館に行くことができた。
そして観たこの作品は、ひとりで映画館で観るべき映画だった。暗闇の中で、たったひとりで対峙するべき映画だった。

1940年、一万数千人のポーランド軍の将校たちが虐殺された「カティンの森事件」。長く真相を語ることがタブーとされてきた、第二次大戦末期の事件である。
歴史にうとい私は、その名前と、おぼろげな知識しか記憶になかった。だが昨年4月、この事件の70年目の慰霊式典に向かうポーランド大統領ら政府高官を乗せた飛行機が墜落するという、信じられない惨事が起きたことで、「カティンの森事件」についてにわかに知ることになった。
この事件は、ナチスドイツとスターリン率いるソ連軍が、たがいを犯人として罪をなすりあっただけでなく、戦後ポーランドがソ連の衛星国となったために、さらに真相は闇へ葬られることになったという。長い東西冷戦の中で、この事件の名が歴史の表に出ることはなかった。
カティンの森で、いったい何があったのか。誰がそれをしたのか。どのようにそれは行なわれたのか。その全貌があきらかになったのは、冷戦が終わりを告げ始めた1990年。真実を世界が知るまでに、50年という長い年月がかかったのだ。

アンジェイ・ワイダはこのカティンの森事件の遺児である。彼は母とともに、父の生還を信じて待ち続けた少年時代を過ごした。父の死を知り、カティンで父たちがなぜ、どのように殺されたのかを知ったときから、「カティンの森事件」を映画にすることがワイダの生涯かけての目標となった。
私は20代のころワイダの映画をいくつか観ている。『地下水道』『灰とダイヤモンド』の鮮烈な印象、『大理石の男』『鉄の男』などもポーランドの複雑な政治状況をわからないままに、それでも興味深く観た。その後、86年の『愛の記録』以降の作品はまったく観る機会がなかった。
ワイダは『鉄の男』を最後にポーランド政府から国外に追われ、「カティンの森事件」の映画化という目標を形にできない長い歳月を過ごした。ソ連が崩壊、ポーランドの政権が変わり、やっと何の検閲も受けず、自由に作品をつくれる時代がやってきた。ワイダはそれからさらに15年以上の時をかけて、多くの試行錯誤を繰り返しながら構想を練り上げ、80歳にしてついにこの映画『カティンの森』をつくりあげた。彼の生涯に時代はぎりぎりで間に合ったのである。

ワイダの長い多彩な作品歴のなかで、この映画は集大成といえるだろうし、信じられない歳月をかけてとうとう作品にすることができた、彼の原点の具現化ともいえるだろう。
これをいったいどんな形で、どう描くべきか。おそらく多くの逡巡ののちにワイダが選んだのは、カティンの森で犠牲になった将校たちの家族、なかでも彼らの生還を待ちつつ生き抜く女性―妻たち、娘たち、姉妹たちを物語の中心にすえることだった。
冒頭、大尉の妻アンナがソ連軍が侵攻してきたポーランド東部に、幼い娘を連れてたどり着く。夫アンジェイを探しに、人々が逃げまどう混乱をぬけて、首都からやってきたのだ。アンナは、すでにソ連軍の捕虜になっていた夫とつかの間再会する。そして収容所への列車に乗せられる夫を、娘とともにむせび泣いて見送る。
ここを物語の起点として、夫を待ち続けるアンナとその娘、そして同僚の将校たちのそれぞれの妻や姉妹たちの、それからの年月がはじまる。彼女たちがみな、夫や父や兄弟の無事を祈りながら、それぞれの苦難を越えて生きていくさまが、静かに鮮烈に描かれていく。
一方、収容所に送られた将校たちの様子も並行して語られていく。はるか故郷で家族が祈っているのに呼応するように、彼らも生きのびて祖国の再生に尽くそうと自分たちを励まし続ける。しかし、将校たちの動向は、彼らが別の収容所に移送されていくという時点で、ぷつりと描写がとぎれる。

カティンの森事件の犯人がナチスドイツではなく、ソ連軍であったこと。それは、今ではスターリンがポーランドを徹底的に支配するための方策だったということも含め、あきらかになっている。ポーランド軍将校の半数がここで殺されたともいわれる。
しかし、ワイダはソ連軍が犯人であることははっきりと描きつつ、ソ連を糾弾することはしない。アンナと娘の危難を救うソ連軍大尉を印象深く登場させ、この映画の目的はそこにはないことを明確にする。
1940年、カティンの森で何があったのか。誰がそれをしたのか。
そのふたつの問いには、いわば外側から答えが提示される。ソ連の支配下に入ったポーランド国内で、カティンの森事件はむごたらしい現場の実写フィルムとともに、反ドイツのプロパガンダとして利用されていく様子が描かれる。しかし多くのポーランド人たちは、それがソ連の犯行であることを知っていて、ときには命をさらしてでもその事実を告発しようとする。アンジェイと同じ隊の中尉の妹アグニェシュカは、兄の形見のロザリオを手に断固としてカティンがソ連のしわざであったという主張を曲げず、秘密警察に逮捕されていく。カティンの遺児である若者タデウシュは、履歴書に「ソ連に父を殺された」と書き、書き直しを迫られても拒絶する。

そしてカティンの森事件についての三番目の問い―それはどのようにおこなわれたのか、について、ワイダは映画の最後にその答を置いた。
観客はすでに、歴史的事実として虐殺があったことを知り、誰が、何のために、という先のふたつの問いの答も知らされた。殺された将校たちの家族の長い苦難、ポーランドという小国の苦しみをつぶさに見た。なによりも、夫や父や兄弟を思い続ける人々の強さと深い愛情をなまなましく、身近で体験するように感じてきた。
そのように観客をワイダはみちびき、そして最後に、1940年春、雪の残るカティンの森でおこなわれたことを見せる。見せるというより、そのただなかに観客を放り込む。
そこに立たされたどの男もどの男も、愛する家族があることを私たちは知っている。彼らに、虫けらのように殺される理由などないことを知っている。
このシーンが残酷であるとしたら、それはワイダがすさまじい執念で《事実》を刻みつけようとしたからだ。どうしても絶対に、カティンの森での虐殺とはどのようにおこなわれたのかを、彼はフィルムに刻みつけたかった。ただの再現ではなく、《事実》として。

ラストの数分、私はこのことを受けとめなくてはいけない、受けとめなくてはいけないと思いながら、涙と震えがとまらなかった。映画館を出て、駅までの道を歩くあいだも涙が流れつづけた。外の風景がまるで違ってみえた。
人間はなんて残酷なんだ、なんということをする生きものなんだ、そう思い、自分もそういう生きもののひとりであることを忘れてはいけないと思った。
もちろん映画は《事実》ではない。《事実》は過去のその場所にしかない。けれどぎりぎりのところでワイダはそれをフィルムの中に作りあげた。そうするしかなかったのだし、そのようにして「カティンの森事件」は後世に伝えられていく新しい形を得たのだと思う。
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by higurashizoshi | 2010-07-06 14:13 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

遠くはなれていても

遠方の友が入院した知らせを聞いてから、一週間ちかくたつ。いつもはその友のブログを読み、たまにメールをやりとりして、無事を確かめていた。長い長い病気とのつきあいの中で、何度もあの世の手前まで行ってはあやうく引き返してきた人。ずいぶん年上だけど、なぜか誕生日が一緒で、なにかというと「higurashizoshiとオレは、同い年なんだぜ」と人に言うので、そのたび「こらー!」と怒っていた。
オトコとしてはいろいろ言いたいことの多い人だが、友であることは不思議と続いていた。それはたぶん、お互い《書くこと》を自分のだいじな仕事と思い続けている、同志的な気持ちに支えられてきたのだと思う。

入院以来、本人と連絡を取りあうことはできなくなった。人づてに様子を聞くだけだ。今のところ危機は脱しつつあるようで、ほっとしているけど、身体の中にはたくさん爆弾をかかえている人だから、この先のことはわからない。
さっと会いに行ける距離ではないし、第一私が今病院に駆けつけたところで何の役にもたたないどころか、かえって迷惑になるだけ。それはもちろんわかっているから、私にできるのはふだん通りに元気に日々を暮らすこと。そう思いながらも、なんともいえないやるせなさが胸にひろがる。
ただ遠くで、その人のことを思っているしかない状態はつらい。つらいけどそれを持ちこたえなければならない。

毎週観てきたドラマ『Mother』が終わった。このドラマは同じ坂元裕二脚本の『わたしたちの教科書』と同じように、息をつかせない緊迫感で毎回金縛りにあうような作品だった。
虐待にあっている教え子を教師が誘拐して助けるという、一見現実離れした設定から話ははじまる。しかも彼女はその子に「あなたのお母さんになる」と言うのだ。
その後次々と、登場人物それぞれの背景が明らかになり、彼女がなぜその子を助けずにいられなかったか、《母》になろうとしたのかがわかってくる。そして子どもの実母が虐待にいたった過去も描かれ、同時に主人公は自分をを捨てた生みの母と再会する。幾重にもかさなった母と子がねじりあい物語が進んでいく。

映画のような凝ったカメラワーク、役者それぞれの演技も凄みさえ感じさせるほどのものだった。そのなかでも虐待から救い出され、新しい《母》を信じ懸命に生きる子を演じた芦田愛菜という子役があまりにも素晴らしくて、たった5歳の子がどうやってこの状況をのみこみ、ここまでの演技ができるのだろうと思った。
虐待にあう子どもたちを救いたいと多くの人が思う。では実際に他人がその子を救い出したら何が起きるか。親権があるかぎり、それは犯罪になってしまう。子どもの意思とは関係なく。
このドラマで打たれたことのひとつは、子どもをたんに受身の被害者としてでなく、意思をもったひとりの人として描いていたことだ。この子は実母とその恋人から、命の瀬戸際までの虐待を受ける。そこから救い出してくれた人を、この子は新しい《母》として選ぶ。実母を捨てて。
その後も、ぎりぎりの局面を《母》とともにくぐり抜けながら、常にこの子は自分からさまざまな選択をしていく。もちろん子どもだからその多くは踏みにじられる。それはひとつひとつ、観ているこちらの痛みになってひびく。
やがて《母》と決定的にひきはなされることになったとき、この子は次の選択をする。自分の意思で。今後も自分の足で人生を歩いていく、それをしめす幕切れだった。

最後に、《母》と子は、別々の場所で、同じ渡り鳥を見上げる。鳥になって大空へ逃げたかったふたり。遠くはなれていても、思いあうことで生きていける。そばにいられないつらさを持ちこたえ、それぞれが自分の毎日を生きていく。そうするしかないのだし、それがいつかまた会える日をつくりあげていく、ただひとつのやり方なのだ。
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by higurashizoshi | 2010-06-25 15:05 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

上海の伯爵夫人

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2005年公開 イギリス・アメリカ・ドイツ・中国
監督 ジェームズ・アイヴォリー
脚本 カズオ・イシグロ
出演 レイフ・ファインズ ナターシャ・リチャードソン 真田広之 ヴァネッサ・レッドグレイヴ リン・レッドグレイヴ


1936年の上海。日本軍の侵攻の直前の、爛熟をきわめたこの都市に、ひとりのアメリカ人外交官がいた。冒頭から品格ある美しい紳士の風貌を見せつつ、彼の雰囲気はどこか奇妙である。
と、彼の眼が見えないことがすぐ明らかになる。しかも自分の属している上流階級の世界にも、政治の世界にも、なぜかまったく関心がないようにみえる。そして突然競馬に全財産を賭け、自分の《夢の店》を出すと言い出すのである。当時の上海はさまざまな国から集まった最先端の文化が渦巻き、華やかなダンスホール、料理店やキャバレーなどがひしめいていた。そこに彼は、自分の理想のバーを作るというのだ。
そろそろ観客は、ジャクソンという名のこの男がどこか壊れているのだということに気づきはじめる。しかもそれは、こちらを少しずつ不安にさせるような、深い壊れかたである。
眼が見えなくなったのはそれほど昔のことではないのは、おぼつかない歩き方からわかる。やがて、ジャクソンの過去があきらかになっていくにつれ、彼がその視力とともにうしなったものの大きさがわかってくる。絶望の底をはいながら、彼は一瞬一瞬の享楽だけを支えに生きるしかないのだ。
そんな彼の前に、ひとりのロシア人女性、ソフィアがあらわれる。彼女は幼い娘やおばたちとともに、革命から逃れて上海にたどりつき、苦しい生活に耐えていた。ロシアでは伯爵夫人として優雅な暮らしを送っていた彼女は、いまでは家族の暮らしを支えるためダンスホールで男たちの相手をつとめる日々を生きている。そんなソフィアに依存しながら、おばたちは彼女の仕事を貴族の恥とののしり、娘をソフィアから引き離そうとまでする。
そんな孤独で屈辱的な毎日を送る彼女を、ジャクソンは自分の開く理想のバーの《店の華》としてスカウトする。美しく、気品とプライドに満ち、しかも人生をあきらめている者にしかないけだるさ―それが、ジャクソンがソフィアに見た《華》としての魅力だった。2人は互いに通じあうものを強く感じながらも、開店したバー「White Countess(白い伯爵夫人)」をともに支えながら、一線を越えることなく友情を続けていく。やがて間近に日本軍の軍靴が聞こえ、上海は陥落へと一気になだれおちてゆく…。

オリジナル脚本がカズオ・イシグロ、監督ジェームズ・アイヴォリー、撮影クリストファー・ドイルという、これで素晴らしくなかったら困るような組み合わせ。そして壊れゆく男を演じたら右に出るものはない名優レイフ・ファインズ、気品と優雅さに満ちたナターシャ・リチャードソン、天下の名女優ヴァネッサ・レッドグレイヴとリン・レッドグレイヴの姉妹出演(ナターシャはヴァネッサの実娘なので親子出演でもある)、謎めいた日本人を演じた真田広之と、豪華絢爛なキャスティング。そのわりにけっして派手な印象の作品ではないが、そこがいかにもカズオ・イシグロが作りあげた世界らしい。
《なにかを決定的にうしなった人間》がさらに翻弄されながらも生きのびていくというのがイシグロの小説世界のメインストリームで、この「上海の伯爵夫人(原題は店の名と同じ『White Countess』)」も同じ流れのうえにあるといえるだろう。
この時期の上海は多くの芸術作品の舞台になっていて、たとえば近くではアン・リー監督『ラスト、コーション』が思い出される。薄靄が張ったような魔都・上海のたたずまいが魅力的だったが、この映画の上海はもうすこしきらびやかに、軽やかに描かれている。個人の絶望感や虚無感と時代のそれがないまぜになって、やがて破滅へとむかっていくという結末を、この作品は単純にはとらなかった(観ていない方のため、こう書くしかないが)。そのことが、観終わったあとにかえってじっくりとしみてくる余韻をつくっていると思う。

没落した伯爵夫人を演じたナターシャ・リチャードソンは、私には最初この役にあまり合っていないように思えた。《華》としての美しさと強さには、いささか足りないように思えたからだ。けれど物語が進むにつれ、その深い気品と優しさに魅せられていった。結果的には、ありきたりの美女を配するよりはるかに適役だったと思う。
彼女は昨年、事故で45歳の若さで亡くなり、その記事を新聞で見たときは私はまだスクリーン上のナターシャ・リチャードソンを見たことがなかった。この映画を観ながら、きっとこれは彼女が一番すばらしく輝いていた役であり演技なのではないかと感じて、いっそう胸にせまるものがあった。
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by higurashizoshi | 2010-06-18 18:21 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(4)

スピッツ2010@神戸こくさいホール

好きなものの話を人とするのは、あんがいむずかしい。うまく好みが一致したときは会話が平和にすすむけれど、最初からまったくの行き違い、となると気まずい。そして、実はいちばん困るのが、「○○が好きなんだけど…」「あ、それ私も好き」と幸運なスタートを切った会話が、双方の「好き」の中身に実はエライ差があり、その「好きななにか」に対する認識のちがいがあきらかになっていき、心はかけはなれていき、結局はかなしい結末で終わることである。

d0153627_17173117.jpgで、なんの話をしたいかというと、スピッツである。かわいいですね。
じゃなくて、日本のバンド、スピッツ。知らないって人はあまりいないだろう。デビューから20年以上、ずっと売れ続けている。メガヒットだってあったし、タイアップも多数。スピッツの一般イメージはたぶん、《草野マサムネの透明なボーカル》《美しいメロディーと歌詞》《爽やか癒し系バンド》みたいな感じ。
だから私は言えない。「音楽どんなの聴くの?」「何が好き?」と聞かれたとき、「スピッツ」と。「まあUKロックとか…」などとお茶をにごす。
だって、無邪気に「スピッツ」と答えてごらんなさい。「あ、スピッツ私も好きー」とか「いいよねスピッツ」という対応がかえってきて、「『白線流し』の歌だよね」とか「聴きやすいよね」という流れになり、なにかこう、きらきら~とした空気になって、こっちは(あー、やっぱり言うんじゃなかった…)と後悔することになる。
d0153627_17223810.jpgスピッツのどこが好きって、私はいわゆるヒット曲じゃないマイナーな曲(特に初期のころ)の、湿った歪んだところが好きなのだ。草野マサムネという天才の書く歌詞と曲は、林の奥の廃屋にそっと隠れているような、暗い胸騒ぎにしめつけられるような、なつかしさと残酷さが点滅する世界。ときどきありきたりの歌を作ってしまって(そしてヒットして)がっかりさせられながら、ずっと長年好きでいつづけているのは、もちろん草野くんの声が理由なくただ好き、ということも、バンドのバランスのよさもあるけれど、その作品世界の美しい歪みっぷりが私の心にぴったり添うからだと思う。

で、そのスピッツのライブに行ってきたという話である。6月7日、神戸こくさいホール。そして、いっしょに行ったのがタタだという驚愕の事実! といっても、事情を知らない人には何のことだか…だろう。不安定期には生来の聴覚過敏が出て、音楽はおろかテレビの音も出せなかったタタである。それが、回復してくるにつれ自分からCDを聴くようになり、好きなアーティストも見つけ、いろんな音楽をたのしむようになった。とはいっても、ライブはとにかく音の大きさが段違いだし、独特の空気、大勢の人…よもやタタが「スピッツ神戸に来るの? 行きたい!」と言うとは思わなかった。
もちろん、タタにとって人生初ライブ。音は大丈夫なんだろうか、楽しめるんだろうか、と案じながら、私のほうは久々の生スピッツなのでその分もさらに緊張して、うへーと言いそうになりながらライブにのぞんだ。
タタにとってはスピッツは「小さいころから聴いてきたから、家族とおんなじで、好きなんだけどあたりまえな存在」なんだそうだ。ふーむ。なるほど、客席にはうちと同年代くらいの親子連れの姿もちらほら。いつの間にかスピッツも40代だもんなあ…と実感。

今回のツアーは、例年とちがってアルバム先行ではなく、新しいアルバムを準備しながらのツアー。だから未発表の新曲あり、なつかしい曲ありで、昔の歌もマイナーな選曲のものがいくつかあったりした。ライブが始まって、とたんに私は不思議な気持ちにおちいっていった。
前回スピッツのライブに行ったのは、9年前、渋谷公会堂。タタは6歳で、当時住んでいた東京の学校で不登校になり、それでも行かなければと本人が必死でもがいていたころだった。そのほかにも私じしん、個人的に耐えがたいできごとがあって、人生で何度目かのどん底の時期だった。タタとミミをあずけて、ひとりで行ったライブ。ステージを見つめている時間だけ、何もかも忘れられた。
そして今。となりには15歳のタタがいて、手拍子をしている。ステージの上のスピッツは、まるで9年の歳月なんかなかったみたいにフレッシュで、いったいこれはどういうことなんだろう。私はこの9年で、こんなに年とってしまったというのに。
なんだかおいてきぼりをくったような、それでいてしあわせな気持ちで、2時間あまりを過ごした。アンコールの最後、「僕のギター」で終幕。タタは大音響もなんのその、「すごかった! 楽しかった!」を連発していた。
まさかこんな日が来るとは思わなかったタタとのライブ。お互い、きっとずっと憶えているだろう。

家に帰ってからも「スピッツは歪みだ!」という話で盛り上がり、mixiに《スピッツは誤解されている》というナイスなコミュニティがあるのを発見して、2人で大ウケしながら読んだ。おお、私と同じように思っている人たちがいたんだと感動。まあ、スピッツ自身がその誤解を解こうとする気もなく、一般イメージもちゃんと利用してバンドとしての平常飛行をつづけていくわけだから、これは一部のコアなファンが胸に抱いていたらいい想いなんだろうな。堂々と「スピッツ好きです」と言う、かなわぬ夢を心にしまって…。
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by higurashizoshi | 2010-06-12 17:32 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(4)

いろんな国の映画を観よう

めずらしく3日間まるまるオフ、ということになったので、しめしめとDVDを借りてきて3日連続で3本の映画を観た。
最近、なんだかアメリカ映画か邦画ばかり観ていて、感覚がかたよってきていたらしい。今回のラインナップは、イタリア・インド/イギリス/アメリカ・フランスと、多国籍な作品になった。ぜいたくな3日間でした。
といってもその合間にはごはんを日々3度作り、庭のバラを剪定してトゲにやられたり、手紙やメールを書いたり、布団を山ほど干したり、タタといっしょに数学の問題を考えたり、ミミと豚まんを作ったり、振込みに行ったり、ネコのトイレそうじをしたり…とまあ地道なことをあれこれしていたわけで。そういえば《豚まん》というのは関東では《肉まん》というけど、ほかの地方ではどっちなんだろう? 今回初めて手づくりしてみたのだけど、かなり感動的においしく…と、話が豚まんに行きそうになっているぞ。映画の話をするんでした。


d0153627_23343371.jpg湖のほとりで
2007年/イタリア
監督 アンドレア・モライヨーリ
出演 トニ・セルヴィッロ ヴァレリア・ゴリノ オメロ・アントヌッティ


小さな村の、美しい湖のほとりで、アンナという若い女性の遺体が発見される。初老の警部が捜査を開始すると、彼女は村の誰からも親しまれ、愛されていたことがわかる。それだけに、逆に多くの人が動機をもっているように見えてくる。警部は村の人々を厳しく取り調べる。
いっぽうで、警部が抱えている家庭の問題が描写されていく。妻は若年性の認知症で施設に入っており、年頃の一人娘との関係も難しい。捜査も、家庭も、なかなかうまく進んでいかない。村人たちはそれぞれに、なにか秘密をかくしているように見える。
ラスト近くまで終始しかめっ面の愛想のない警部、内省的な村の人々の雰囲気、そして何より眼のさめるような美しい湖の前におかれた、美しい死体の風景。ミステリーなのかと思って観はじめたら、しずかに肩すかしをくった。これはイタリア映画。ハリウッド式のわかりやすい事件ものの起承転結をあてはめようとしてはいけないのだ。

感動したのは、オメロ・アントヌッティの姿をひさしぶりに見られたこと。『父/パードレ・パドローネ』(1977年)、『エル・スール』(1982年)など、忘れられない名作に出ていたベテラン俳優だ。現役で活躍していたのがわかったのもうれしかったし、短い出演シーンでも重厚な悲しみや怒りの表現はさすがだった。
そして村人の中で幼い息子をなくした母親が出てくるのだが、この女優さんの顔はどこかで確かに見たことが…と最後まで気になり、あとで調べてみたら『レインマン』(1988年)でトム・クルーズの彼女を演じたヴァレリア・ゴリノだった。


d0153627_23391542.jpgザ・フォール/落下の王国
2006年/インド・イギリス・アメリカ
監督 ターセム
出演 リー・ペイス カティンカ・アンタルー ジャスティン・ワデル


すこし前まで《映画は一度しか観ない》がモットーだったのが、最近くずれてきている。
今回もこの作品は二度目(最初に観たときのレビューはこちら)。理由のひとつは、ミミがこの映画をすごく気に入り、もう一度観たいとずっと言っていたこと。もうひとつは、私自身もあまりに魅了されてしまったので、もう一度観る誘惑に勝てなかった…。

そして二度目を観終わった。またも涙ぽろぽろで、感想はただただ、「ファーストシーンからラストの一瞬まで、ぜんぶ好き」。
これは評価の分かれる作品だと思う。絶景を並べただけのカタログ映画だという人もいるらしい。私にとっては、人生の宝物のような映画。物語というもの、映像というものへの、そして人間への愛にみちた映画。
いつか大きなスクリーンで観られるときを夢見ている。


d0153627_2331378.jpg夏時間の庭
2008年/フランス
監督・脚本 オリヴィエ・アサヤス
出演 ジュリエット・ビノシュ シャルル・ベルラン ジェレミー・レニエ


ああ、おんなじだ―観ながら何度も感じたこと。
広大な庭と美術品にあふれた屋敷で、おしゃれな服装のおしゃれな家族がおしゃれにフランス語で会話しているのに―私たちと、おんなじ。
年老いた母がひとり暮らす実家に、成人して家庭や仕事を持った息子・娘が、ひさしぶりに家族を連れて集まる。長男と2人きりになったとき、母は言う。「私が死んだあとのことを話しておきたいの。きょうだい3人で遺産をきっちり分割できるように、美術品もこの家も、全部売ってしまってちょうだい」。
長男は、思いっきり逃げ腰の対応をする。「そんな話、今はやめよう」。母が死ぬなんて、この家がなくなるなんて―考えたくない。

そしてやがて母の死が現実になったとき、誰も住まない家を維持し、美術品を維持していくことの困難さが、ノスタルジーではまかなえないことを長男は知る。次男はあっさりと言う。「僕のところは金がいる。売るのに賛成」。末っ子の娘も、実家に深い愛着をもちつつも、今はアメリカで暮らす自分にはどうにもならないと売却に賛成する。

ああ、これから私がやらなきゃいけないことを、フランスの家族もやっている…。かつてなら代替わりで継承されていった家や土地が、世代の激しい移り変わりのなかで、いやおうなく失われていくのだ。でも次世代には、感傷にひたってる余裕なんてない。なんだろう、このリアルさ。
こういう数家族のあつまる群像劇は、たいてい問題児が登場したり、息子に強欲な奥さんがいたりして、それまで隠されていた感情が暴露されたりするというパターンを踏みがちなのに、この映画はそういうこれ見よがしなところがまったくない。きょうだいはみんな仲良しでしっかり思いやりあっていて、それぞれの夫婦関係も良好。だからかえって落ち着いて、きめこまかいひとつひとつのエピソードを現実味をもって観られる。これもハリウッド式にはないリアル。

そしてもうひとつ興味深いのは、この家には数多くの美術品が、生活の中にあったこと。絵画だけでなく、有名なガラス工芸作家の花びん、貴重な陶製の食器、みんなふだんの暮らしに使われていた。けれどそれらもまた、母の死とともにまったく違う境遇へと移っていってしまうのだ。芸術品って何だろう? そんなことも深く考えさせてくれる。
ジュリエット・ビノシュもジェレミー・レニエ(『ある子供』で赤ん坊を売ってしまう父親を演じていた)も抑えた演技。すべてのバランスが淡くたもたれている中で、ラストのちょっと予想外の終わりかたもまた、なかなか面白かった。
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by higurashizoshi | 2010-05-17 23:42 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(6)

トリノ・エジプト展

d0153627_23525658.jpgイタリアのトリノ…荒川静香さんが金メダルを取ったところ。そんな記憶ぐらいしかない? 
えっへん、トリノには世界有数の古代エジプトのコレクションを誇るトリノ・エジプト博物館があって、その中でも門外不出のお宝が今回日本にやってきたのですぞ。
といったって、実は私もそんなの初耳で、とぼしい歴史の知識はとっくにタタに追い越されているので、ただただ面白そうという興味だけで行ってきました、トリノ・エジプト展

会場の神戸市立博物館は、ただいまオンエア中の『龍馬伝』で今まさに描写されている勝海舟の海軍操練所跡地のすぐそば。そして神戸の中華街・南京町のすぐそばでもある。
というわけで、展覧会を観るまえに、まずは南京町で腹ごしらえ。広東粥のランチでおなかいっぱいになったら、ウーロン茶の専門店を物色して、あらかわいい中国小物のお店ができてるわ、薬味入れ安いから買っちゃおう…。「そろそろ博物館へむかいましょうか?」と同行のKさんからやんわり言われなかったら、あと数軒はうろうろしてたであろう私。
そぼ降る雨のなか、博物館へ。それからたっぷり2時間あまり、古代エジプトの世界をただよい、夢見心地で現世に帰ってきたのでありました。

古代エジプト関係の展覧会は何度か観てきたけれど、今回新鮮だったのはやっぱり大きな彫像の迫力と、初めて実際に見た「死者の書」など、古代エジプト人たちの死と再生の思想をあらわした資料。

d0153627_23592074.jpgポスターにもなっているアメン神とツタンカーメン王の巨大な石の彫像は威厳にみちてとても美しく、ツタンカーメンの少年らしい体躯がアメン神によりそい、肩を抱いているその指先がくっきりと浮き出しているところはドキッとするような艶めかしさ。
神殿への参道を守っていたといわれる山羊の巨大な頭の像や、顔はライオン、身体は女性の報復の女神の像、暗い会場内に照明でそれぞれの彫像が浮き上がるような演出効果もあいまって、なんだか古代というより宇宙の異空間を歩いているような心地。
そしていよいよ死後の世界と、そのさらに先の再生の世界へ。

d0153627_23574485.jpg「死者の書」は埋葬品の重要なひとつで、霊魂が肉体をはなれて死後の世界に行くまでの過程が記されている。その途中には審判があって、死者の心臓を秤にかけ、現世で真実をまっとうしたかを問われる。もし偽りを現世でおこなっていたことがわかったら、その心臓は怪物に食べられてしまうのだそうだ。おそろしや…。
この「死者の書」のあとに、いくつもの棺とミイラが展示されている。ミイラはいつ見てもなにか荘厳なパワーを感じるものだけど、今回は人型の棺の精巧な細工に吸いこまれるように魅了されてしまった。贅をつくした棺の中で、ミイラはさらにたくさんの護符に守られている。とにかく死後の世界に無事に行きつかなければいけないのだ。なかでも心臓は、大事な審判で必要なので体内に残されている。その心臓の位置の上にかならず護符がある。なんと、心臓が審判のときに嘘をつかないように封じるためなのだそうだ。心臓が、その持ち主を出し抜いて嘘をつく!

古代エジプト人にとって、死は人生の終末どころかひとつの大きな通過点にすぎず、無事にこの通過点をすぎれば、オシリス神という冥界の神の支配する平和な死後の世界で暮らすことができた。しかもその世界は極楽や天国のような場所ではなく、ナイル川ぞいの現世のエジプト世界をそのままそっくりうつしたような世界だと考えられていたのだそうだ。
だからミイラというのは彼らにとっては絶対不可欠なことで、肉体を保存しなければ次の世を暮らしていくことはできない。最高の技術をつぎこんで、次の世を生きるための準備をするのである。
なんだか今のわたしたちの人生観が、とてもせまく、薄く感じられてくるくらいの圧倒感で、展示を見終わるころにはくらくらとめまいが…。

あ、それともうひとつ、展示物で印象的なものがあった。それは手ぼうき。生活品のひとつとして展示されていた、ごく簡素なほうきだ。うしろで誰かが「これ、どっかで売ってそう」と言っていたけど、ほんとにそう思えるくらい、古びて変色してはいるけど、今の日本でも田舎の雑貨屋さんに行ったらぶらさがってそうな、ちょいとガラスケースから出したらそこらのほこりをぱぱっと掃けそうな感じなのだ。
ところがこれが紀元前1000年くらいのものだというんだから、なんと三千年前のほうき! いくら乾燥地帯とはいえ奇跡的な保存状態。
だのにあまりにもフツウのほうき然としているから、いかにも古代エジプト!という展示物の居並ぶなかで、かえってとてもリアルに感じられた。
この手ぼうきを握って床を掃いた手は、どんな手だったんだろう? その人はなにを思いながら掃除をしたんだろう、その背後にはどんな暮らしがあったんだろう…となまなましい想像がふくらんでいく。
こうなると頭がトリップを始めてしまう私。一日たった今でも、あの手ぼうきにまつわる想像がぐるぐるとめぐっている。
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by higurashizoshi | 2010-05-13 00:03 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(4)

5月2日

あの寒さがウソのような、初夏めいた晴天がつづいている。
5月2日も、とてもいいお天気だった。めずらしくスーパーで買い物をして、両手に重い袋ふたつ下げて帰ったら、ちょっと汗をかき、新しいサンダルで靴ずれができた。

総理大臣は、《自然への冒涜》をしないために、南の海に数千本のくいを打つと言っている。
高齢になった被爆者たちは、アメリカに行き命をけずって核のおそろしさを語っている。
この一年も、この国で命を絶つ人は3万人を越えた。

道の途中でまっさおな空を見上げ、彼に話しかける。
あなたの願ったことはそう簡単には実現しないよ。そんなこと、わかってるよね。でもあきらめるなってあなたは言うだろう。
もちろん、返事はこない。でもこの日、きっと多くの人が思ってる。この一年、彼に恥ずかしくないように生きただろうか。なにか少しでも、もっとよいことにできただろうか。

清志郎が逝って一年。
道端には長いため息をつくようにいっせいに咲いた花、花。
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by higurashizoshi | 2010-05-04 12:46 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

百万円と苦虫女

d0153627_21325479.jpg2008年公開
監督・脚本 タナダユキ
出演 蒼井優 森山未來 ピエール瀧 佐々木すみ江 笹野高史


ごく平凡に、人に合わせておとなしく生きてきた若い女性、鈴子。彼女は友人の誘いに乗りルームシェアを始めようとしたのがきっかけで、思いもかけない深淵に転がりおちることになる。予想できないことが次々と起きたあげく、鈴子は友人の元カレに告訴され、刑事事件の被告として拘束されてしまうのだ。
「前科者」となった鈴子は家に戻っても居場所がなく、家族とぎくしゃくした末に叫ぶ。「百万円たまったらこの家を出て行きます!」
鈴子が家や近隣で針のむしろ状態のとき、年の離れた弟は学校でひどいいじめに耐えている。互いにつらさをわかちあって、そっと手をつなぎ歩く姉と弟。そして宣言どおりバイトで百万円をためた鈴子は、弟に手紙を書くと約束して家を出る。

彼女の決めたルールは、次の居場所でまたバイトをし、そこで百万円たまったら、また別の街へ行くこと。「誰も自分のことを知らないところに行きたい」。淡々と百万円で区切る旅を続けながら、それでも働くかぎり、生活するかぎり、人との関係ができてしまう。鈴子に親切にしてくれる人、好意をもつ異性も現れる。でも彼女はするりと抜け出して次の街へむかう。鈴子は人を信じたり、信じられたり、したくないのだ。つながりあうことの喜びより、怖さを骨身にしみて知ってしまったから。彼女の起伏のすくない表情の奥にはいつも用心と恐れと、そして底なしの無常感がある。
はたち前後のころ、私もある時期、人を遮断してひとりで旅ばかりしていたころがあった。人と関係するのがわずらわしいだけでなく、怖かった。
でも、そのころの自分も、この映画の鈴子も、そうやって旅を続けていくこと自体、ほんとうには人を遮断してはいないのだ。ほんの少し触れ合った手をぱっと放して別れていくやりかたで、何かを得ようとしている。ちゃんと生きたいと、どこかでその方法を探している。

鈴子は、やがてある街で、大学生の男と恋におちる。それはいじらしいほど古風な、お互いにそっと心をかさねあうような恋だ。はじめて鈴子は自分のこれまでのことを彼に語る。そしてそのことに自分でおびえて、それでも彼が差し出した手を握りしめる。
しあわせがやってくる。でも人とつくるしあわせは、いつ壊れるかわからない。いつひっくり返るかわからない。スクリーンのこちらから見ている側も、その緊張感に裂かれるようなひりひりした一瞬一瞬をすごす。
彼を信じる。うたがいの心が生じる。鈴子はこれまでのように、ぱっと手を放すことはできないのである。鈴子はどうするだろう。彼ははたしてどんな人間なのだろう。鈴子の心の奥底にすみついた孤独と不信を見てきた私たちは、息をひそめる。

これは若い女性の自分探しのロードムービーではない。鈴子は言う、「自分はもうここにあるから。探すんじゃなくて、逃げてるんです」と。
百万円という区切りをもうけて、持ち重る自分をかかえて、鈴子は逃げる。家族から、世間から、評価から、あらゆる関係から。そうしながら旅の中で彼女の見る風景は光をおびて透明で、移り住むたびお守りのように部屋にかける手縫いのカーテンは、かろやかでやさしい。そのカーテンのすきまから、鈴子はそっと世界をうかがっているのだ。
そしていつかたぶん鈴子は気がつくのだろう。人に合わせていた過去の自分を捨てさって、逃げていく自分は以前よりずっと強いのだと。旅の中で忘れなかった弟の存在と、この旅の先にあるちいさな光にも。

私にとってははじめて観たタナダユキ監督の映画だった。きめこまかく、すみずみまで緊張感がはりつめ、ありきたりの展開が次々に裏切られてゆくここちよさ。映像はあざやかで、しっとりと美しい。
鈴子を演じる蒼井優、大学生を演じる森山未來、ふたりは呼吸するように演技をする。演技をしていることを忘れさせるように自然に。その注意ぶかいたくみさが、この作品を生きたものにしている。文句なく、最近観た邦画のなかで一番、心を揺られた。
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by higurashizoshi | 2010-04-14 21:42 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(4)

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