ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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ミミの撮影

最近めっきり自分の時間がないのはなぜ?
それは私が、ミミの撮影助手をしているからなのだ。
ミミは今、遠大な計画を実行に移している。

d0153627_22112860.jpgディズニープリンセス大好きのミミは、この春「魔法にかけられて」という映画に夢中になった。
ディズニーによるプリンセスもののセルフパロディーのような映画で、アニメのお話の中から実写の現代ニューヨークに来てしまったお姫さまが主人公。歌あり踊りありロマンスありのとってもゴージャスでハッピーな映画、らしい。私は観ていないので何ともいえないけど、ミミはなんとこの映画を4回も観に行って、しかも上映期間がとうとう終わるときは涙ぐまんばかりに悲しんだのである。

そしてミミはある日、黙々と衣装作りを始めた。自分が着るのではなく、シルバニアファミリーという、小さな人形のシリーズに着せる服。
おお! 「魔法にかけられて」の登場人物の衣装が次々とできていく…。誰の手も借りずにひとりで布を切り、縫い合わせて、豪華なウェディングドレスから男物のスーツ、王子の扮装、従者の扮装、ヒロインがカーテンで作ったというドレス――十数着を作り上げるのに一か月足らず。ミミはほんとうに根気づよい。
そしてなんとなんと、この衣装をシルバニアたちに着せて、ミミは「撮影」をしたいのだと言い出した。
去年の誕生日、ミミはたっての希望で、親プラス祖父母からということで簡単なデジカメを手に入れた。このデジカメに、短時間の動画が写せる機能がついている。それを使って「シルバニア版・魔法にかけられて」を撮影したい! というのだ。

ミミは幼いころから万事ひかえめな人で、10歳になる現在まで、強く自己主張したり、自分のやりたいことを押し通す、ということとは無縁の性格だった。
そのミミが「どうしても、どうしても」と言って4回も映画館に観に行き、そして自分の手でその映画を再現してみたいと言う。私はすっかり感動した。
「できることは手伝うからね」。笑顔で声をかけたとき、まさかこんなたいへんな事業に首を突っ込むことになるとは…思わなかったのである。

短いシーンごとに撮っていって最後につなぎ合わせる予定で、デジカメでの撮影が始まった。
人形をどうやって動かす? という問題から、①背景に黒布を張り、黒い手袋をして人形を動かす方法、②上から針金で吊って動かす方法、③人形につけた針金を床に沿わせて動かす方法、の3つが編み出された。ここまででも、もう試行錯誤の連続で、失敗&爆笑のオンパレード状態。
ヒロインがアニメ世界で井戸に落ち、現代ニューヨークのマンホールからおびえながら出てくるシーンは、ミミがダンボールを切って作ったマンホールから人形が飛び出てロケット噴射になるし。
針金で吊ってもどうやってもうまくいかない動きがあって、ああでもないこうでもないと、何度も試し撮りを繰り返す。
もちろん、各シーンに使う街の風景や車、室内の壁やカーテン、装飾品までも、すべてミミが手作りしたもの。どうしてもむずかしいところは私も手伝って、大道具だけでもなかなかな工作になった。

現在、撮影開始から一週間ちょっと。毎朝ミミは起きると「今日の撮影は…」と語り出す。撮影に傾けるミミの情熱と根気にはほれぼれするものがある。こんな主体的でキラキラしたミミを見るのは初めてかもしれない。
とはいえ、どうしたってカメラで撮る人、人形を動かす人、と2人は必要で、私の参加はかかせない(タタはもっぱら撮影済みの映像を観て楽しむのみ)。いくつものテイクを重ねて何時間もかかる撮影は、私も家事はもちろん自分の用事はあるし、なかなかたいへんなのである。
しかし、ミミの美点、それは根気づよさと謙虚さ。ミミは絶対、押しつけがましく迫ってきたりしない。
まず、「今日はおかあさん、どんな予定?」とソフトに聞いてくる。あれと、これと、と答えると、「じゃあそれが終わったら撮影したいんだけど…おかあさんの都合のいいときでいいから」とやんわりと言う。

実をいえば、撮影に関するいろんな作業はすごく面白いのだけど、私はなにせ元の映画を観ていないので、細かいストーリーや場面がわからない。しかも正直なところ、私の好みはディズニープリンセスとはほど遠くて、内容的に心から楽しめるか? といわれるとつらいものがある。
そんなわけで、楽しくはあるけどちょっと後ろ向きなところも隠し持っている私は、ときどき自分の用事を長引かせてこっそりパソコン部屋にこもっていたりする。
すると、いつの間にかミミはそっと入ってきて、とってもおだやかに、
「次のシーンの用意できたよ。あとどのくらいで撮影できる? …その用事終わってからでいいからね」と言うのである。

ストーリーはまだ始まったばかり…。この調子で撮っていくと最後まで撮り終わるのにいったいどれだけかかるのか? だってヒロインはまだ、ニューヨークに来て最初の夜も過ごしてないのだ!
…静かにパワー全開のミミに、しばらくはついていくしかなさそうだ。
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by higurashizoshi | 2008-06-30 22:18 | 雑感 | Comments(6)

カミングアウト・レターズ (2)

d0153627_22133977.jpgドラマにもなった大人気マンガ『のだめカンタービレ』の中に、真澄ちゃんという、いわゆる《おネエキャラ》な男の子が出てくる。
真澄ちゃんは主人公・のだめが恋する千秋真一に対して、長年純情な片思いを寄せているという設定。
そのことを初めてのだめが知ったとき、のだめは「…千秋先輩は男ですヨ?」と驚く。
それに対して友人の峰龍太郎は真澄ちゃんのことを、こう説明する。「そういうシュミの人だ」。

真澄ちゃんをコミカルだけど好意的に描いているこのマンガの中で、たいていの人はこの部分に違和感を感じないと思う。
私も最初は、何となく読み過ごしていた。でも、最近になって、どうも気になってきた。
峰くんの説明には、同性愛は「シュミ」つまり嗜好であるという、何となく一般に考えられている感覚が表れている。
私も以前は思っていた。同性愛というのは、いわば「シュミ」の問題、恋愛の中のいわば変種みたいなものなんだろう、と。
もちろん、「シュミ」で同性に恋する人もいるかもしれないが、自分を同性愛者と認識する人にとっては、「シュミ」どころかそれは変更不可能なこと――異性愛者が異性しか愛さないのとまったく同じことなんだ、ということ。それが、やっとこのごろ納得できてきた。
だから、同性愛者が自然な存在として認められないどころか、「異常」「気持ち悪い」というような反応をされたら、自分という存在を丸ごと否定されることになるだろう、ということも、少しずつ実感できるようになってきた。

「カミングアウト・レターズ」を読んで、私はまず、同性愛者が子ども時代からどんな気持ちで生きていかなければならないか、に胸をさされた。
子どものころから自分が同性にしか惹かれないと気づいた場合、たいていその子はそのことを隠し、自分をいつわって生きていく。
世界中に、自分のような存在はほかにいないだろうという孤独感。自分は異常なんだろうかという不安。
世の中には同性愛を笑いのネタにし、軽蔑する空気がいっぱいだ。
誰にも自分の本当の姿を見せられない、打ち明けられないとしたら、その子はどれほどの孤独の中を生きなければならないだろう。

この本は、同性愛者である(おもに若い)人たちと、その親や教師との往復書簡が中心になっている。
これまで、セクシャル・マイノリティ当事者の書いた自伝的な本はけっこうあったし、私も何冊か読んだことがある。
でも、こうやって当事者と、世代の違う異性愛者である親・教師をつなぐ形の本、というのは初めてだと思う。

最初の手紙、27歳の昌志さんから、55歳の母へ。タイトルは『母さん、あのとき泣いてたか』。
「俺、ゲイやねん」。そう母にカミングアウトした20歳のときのことを思い返し、昌志さんは書く。
一生、親に嘘をつき続けて生きていきたくなかったこと。でも、カミングアウトしたとき、母を死ぬほど怖がらせてしまったつらさ。それでも受けいれてくれたことへの、心からの感謝。

それに対する、お母さんからの返信に胸をうたれる。
昌志さんからゲイであることを知らされたときのこと。
《『母さん、俺、人を殺してしまった』と言われたみたいに、怖くて怖くて、ただ、あなたが壊れてしまわないように、引き止めるために聞いていた。》
当たり前のように異性愛の世界だけで生きている人にとって、自分の身内が、ましてわが子が同性愛者だというのは、まさに青天の霹靂。
いずれいい人と家庭を持って、孫を抱かせてほしいというような平凡な夢が崩れるだけではない。
まったく異世界のことと思っていた同性愛が、わが子の中にある。それをにわかに受けいれられる親は、まずいないだろう。
人を殺してしまったと言われたみたいに、というこのお母さんの表現は、それを端的に表していると思う。

そして、このお母さんは書いている。
《『これはわが家に降りかかった災厄なんだ』という間違った思い込み(あなたが隠れて生きなければならない子で、外を歩けば石を投げられるかのような恐怖心)から脱するまで、私は一人で闘わなければならなかったのです。》
本当の自分を知ってもらいたい一念でカミングアウトした息子を、まっすぐ受けいれられるようになるまでには、長い時間と苦しみが必要だったと思う。
今では同性愛についてたくさんの理解を深め、息子とお互いに率直でいられる関係になっているこのお母さんは、カミングアウトを受けておびえ、狼狽したその日のことをこう書く。
《もし人生がやり直せるなら、私はあの日をやり直したいと思うでしょう。『何も心配しなくていいよ』って、あなたに言ってあげたい。》

たとえばここで、「同性愛」を「不登校」に置き換えたら、と私は読みながらつい考えてしまった。
もちろん、「不登校」は持って生まれた性質などではない。でも、たとえばわが子が不登校になったら、多くの親は狼狽し、子どもへ期待していた人生設計がガラガラと崩れ、顔を上げて外を歩けなくなったりする。
今の社会で、不登校であるわが子をありのままに受けいれることはたやすくない。ほとんどの親は、学校に行く人生しか知らない。異性愛者である親が、同性愛者である子どもを受けいれがたいのと同じように、不登校の子の親は、学校に行かないわが子をなかなか受容できない。
私は自分も含め、子どもが不登校になり、それを受けとめて親子で新しい道を歩むようになった人を身近に多く知っているけれど、最初からすんなりわが子の不登校を受けいれられた人はやはり少ないと思う。
それは学校に行かないことが、まるで人の道からはずれているかのような世間の価値観があるからだ。そして、そんな選択をしたら子どもの将来はないのではという、根底からの不安にとらえられてしまうからだ。
そのあたり、カミングアウトを受けた親たちと、共通するものがあるように思えてならない。

タタが学校に行けなくなったころのことを思い返し、私にはこの本に登場する、特にお母さんたちのことがまったく人ごととは思えなかった。私もまた、自分の中のモノサシを何度も何度も新しくしながら、長い時間をかけてタタの現実を受けいれていったと思うからだ。
そして、最初のころにもっともっとわかってあげていたら、もう少しタタを苦しめずにすんだのではと思うことも多い。
《もし人生がやり直せるなら、私はあの日をやり直したいと思うでしょう。『何も心配しなくていいよ』って、あなたに言ってあげたい。》
この言葉を、ほんとうにその通りだ、と自分について思い返しながら読んだ。

ついつい長くなってしまったので、また次の機会にこの続きを書こうと思う。
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by higurashizoshi | 2008-06-23 22:15 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(12)

カミングアウト・レターズ

毎日、新聞を開いても、ネットのニュースや情報を見ても、「生きづらい」というのが今の日本のキーワードなんだろうか、と思ってしまう。
派遣社員の使い捨て、過労死、自殺者の増加、いたましい犯罪や事件。
ただ、少し希望を感じるのは、たとえば不安定な就労形態の人たちが集まってユニオンを作ったり、犯罪被害者の家族が会を作り活動したり、そういう当事者によるつながりが少しずつ増えてきているように思えることだ。

余裕を失った社会は、特に少数者(マイノリティ)を隔離し、追いつめる。
多くの人が、自分だけはマイノリティに《転落》しないように必死にペダルを漕ぎつづけながら、自分と異なる人間を排除することで安寧を得ようとする。ストレスを発散させる。
その縮図といえるのが、ときには標的にされた子どもを死の淵まで追いこむような、学校でのいじめだ。
大人がしていることを、子どもは自分たちの社会の中でやっている。

ほんとうは、多数派(マジョリティ)なんて幻想みたいなものだ。
ほんのごくひと握りの特権的な人たちを除けば、今はいつでも《転落》は起こりうる。
その不安が、ますますマイノリティへの排除を生む。悪循環だ。

思えば、学校に行かず育っているタタもミミも、親である私も、立派なマイノリティ。
私は、基本的には「マイノリティがかっこいい。」と思っているので、そうであることはちっとも苦にならない。
でも、差別されたり、排除されたりするのは嫌だ。権利が認められないのも、おかしい。

とはいえ、たったひとり、心の中でそう思っているだけではしんどくなる。
社会の圧力は、いろいろな形でマイノリティをしんどくさせるのである。
今の私には、思いをわかち合える家族や友だちがいて、学校に行かず育つ子どもと親たちとのつながりもある。そのことにとても支えられていると思う。
マイノリティであることは、楽ではない。
でも、多くの人がおそれる《転落》は、実はそれまでと違う視野や生き方を見つけるきっかけにもなりうる。
それまでは出会えなかった人たちとの出会いも、そこにはある。
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この本「カミングアウト・レターズ」を作ったのは、いわゆるセクシャル・マイノリティの人たち。
彼らにとっては、自分がたとえば同性愛者であるとか、性同一性障害であるとかを公表する=カミングアウトするというのは、とてもハードルが高いことだという。
それは、そうだろう。いくら最近はマスメディアでもセクシャル・マイノリティが取り上げられることが増えたといっても、一般的にはまだまだ差別意識だらけ。彼らが身近にいるとは考えもしない人も多いと思う。
もしかしたら、マイノリティの問題、というときにも、セクシャル・マイノリティはその中に想定されていない場合も多いかもしれない。

この本の編者のひとり、RYOJIさんがこの本を作ることを思い立ったのは、今の日本でセクシャル・マイノリティの子どもたちが自分を隠して、自己否定しながら育つしかない現実を少しでも変えたいという願いからだったという。
この本を作る以前にも、HIV予防に取り組む活動などをしてこられた人らしい。
そして、そのRYOJIさんがいまだ、自分の親にはゲイであることをカミングアウトしていない、と知って、私はそのことをとても重く感じた。

私は、自分の娘たちが異性愛者とは限らない、将来女性を好きになるかも、なんて可能性を普通に考えるような人間なので、セクシャル・マイノリティに対して偏見とか何もないつもりでいた。
でも、いろいろな本を読んだり、ゲイの方のブログを読んだりしているうちに、やっぱりわからないところがたくさんあるし、自分の中にもまだまだ受容できない部分があるなあと思うようになった。
そして、この「カミングアウト・レターズ」を読んで、またひとつ視界が開けたような気がしたのだ。
マイノリティとしての自分と、ああつながるなぁ、という実感が初めて持てた。

この本についてもう少しくわしい話を、次回に書こうと思う。
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by higurashizoshi | 2008-06-20 22:15 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(3)

ニコ・ピロスマニ

昨日は私の誕生日だった。
ずいぶん前からコトブキにこの画集をリクエストしていて、とうとう昨日贈ってもらった。d0153627_1739233.jpg

ニコ・ピロスマニはグルジアの画家で、日本でいうと明治維新のちょっと前に生まれて大正時代に亡くなっている。
8歳で孤児になり田舎から首都チフリス(現トビリシ)に出てきて、正規の美術教育を受けることなく職を転々としながら絵を描いた。絵の主題はグルジアの庶民やその生活、動物などが多い。職を失ってからは食事や酒と引き換えにレストランや居酒屋の壁に絵を描くこともよくした。
50歳のころ、たまたまロシアから来た美術家グループに「発見」されて、天才画家としてロシアで展覧会に出品、芸術家協会の会員にもなったが、ピロスマニ本人はチフリスで漂泊の生活を変えることなく、やがて酒に溺れながら56歳で誰にも看取られず亡くなった。

その後彼の絵は収集され、主な作品はグルジアの国立美術館に所蔵されて、ヨーロッパのあちこちで回顧展も開かれ、素朴派の画家として世界に知られることになった。今はグルジアを代表する画家として、紙幣に肖像画が使われるほど国民に愛されているという。

私が初めてピロスマニの絵を見たのはゲオルギー・シェンゲラーヤ監督のグルジア映画『ピロスマニ』(1969年)の画面の中だった。
これはニコ・ピロスマニの生涯を描いた映画で、大阪の自主上映館で観た当時私は20歳くらいだったと思う。そのときの異様な感動は今でもまざまざと覚えている。それまで観たこともないような、静謐で残酷で美しい映画だった。
その映画の中に、実際のピロスマニの絵が次々と登場する。ほとんどその絵と映像が一体になっているかのような不思議な感覚におちいる。
ピロスマニはあらゆる束縛や人間関係からこぼれ落ちるようにのがれて、憑かれたように絵を描きつづける。自分が社会的存在として生きていることから眼をそむけるように。
特に私が強い印象を受けたのは、彼の動物画だった。まるではりつけになったように奇妙なポーズで静止した動物たち。その眼は澄んでいて、深い悲しみと不思議なあたたかさを発している。

その映画を観て以来、ずっとピロスマニの絵をこの目で見てみたいと思いながら果たせずにきた。1986年に東京と大阪でピロスマニ展があったそうだが、そのころ私は何をしていたのだろう?知らずに過ぎてしまった。
いまや映画『ピロスマニ』をもう一度観たいと思っても、ビデオもDVDもすでにどこでも在庫切れになっているようだ。
ときどき無性にピロスマニの絵を見たくなることがあって、ネット上の展示などを眺めていた。
ロシア語版で比較的最近出たピロスマニの画集があることがわかって、辛抱強く辞書と格闘するつもりで思い切って買おうかと考えていたら、この3月に思いがけず、日本語版の本格的な画集が出るというではないか! 
それで一も二もなく誕生日プレゼントとしてコトブキに頼んでいたというわけだ。

今日は静かな雨。朝から何度もページを繰って、やっと手に入った画集をながめている。
カラー図版189点というのは、残っている作品数の少ないピロスマニの画集としてはかなりの収録数だ。
全体を見ると、意外に人物画が多い。でもやはり惹きつけられるのは彼の動物画である。
何度も見ているうちにふと気づいた。ああ、ピロスマニという人は、人間より動物にずっと近さを感じていたんだ、と。というよりむしろ、動物画はみんな彼の自画像なんじゃないか、そんな気がした。
奇妙で美しいキリン、つぶらな瞳の鹿や牛たち、彼らは皆すべてを受けいれるようなまなざしで静止している。

表紙に使われている絵は「女優マルガリータ」。ピロスマニが恋に落ちたフランスの旅芸人一座の女優の肖像画だ。
真偽のほどはわからないが、この恋のエピソードが「百万本のバラ」という歌になったといわれている。この恋は実らずにマルガリータは帰国、この肖像画はそれから十年以上たって描かれたものらしい。
どこか菩薩をおもわせるような、優しいけれども悲しさのただよう絵だ。

図版もきれいだし、巻末には池内紀、小栗康平、スズキコージ、山口昌男、あがた森魚、四方田犬彦など豪華な顔ぶれのエッセイも収録されていて、これで5800円は安い。今回の刊行でやっとピロスマニ好きが日本語で彼の画業を気軽に見渡せるようになったわけで、文遊社という出版社は聞いたことがなかったけれど、偉いっ! ありがとう! と声を大にして言いたい。
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by higurashizoshi | 2008-06-05 17:40 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(9)

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