ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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セミについての考察

まことに、お暑うございます。
「ハリー・ポッター」シリーズ最終巻も発売になり、タタは発売当日に食事もとらずに10時間ぶっつづけで上下巻を読了。
それを拝領して私は3日にわけてダラダラと読み、今朝とうとうフィニッシュ。
「終わった…」と万感の思いでリビングの雨戸を開けると、必殺熱線のような陽射しと、ものすごいセミの大合唱。
「ミーンミーンミーンミーンミーンミーン…」
頭が割れるかというような音。こりゃ、家の壁にびっしり無数のセミが張りついて鳴いてるのでは?
と思わずその様子を想像し、ちょっと涼しくなる。

で、昼前、真相を究明せんと庭に出てみると、庭の桃の木に皆さん止まっておられる。
一匹、二匹、三匹…十匹、十一匹、十五匹、ええ?マジですか?
考えてみるとこの辺は海のそばで、大きな木がほとんどない。わが家のつつましい桃の木も、セミさんたちには貴重な止まり場なのだろう。
セミは7年地中で暮らし、地上に出てたった一週間で生を終える…
小さな体をふるわせて、あの大きな音を出すのはさぞやエネルギーがいることだろう。
ひたすら子孫繁栄のため。種のため生態系のため。彼らに感傷はない。
セミになった自分(オス)を想像してみる。
「ああっ、これが地上か!」
「ううっ、羽化した!」
「飛べる、飛べる!」
「よし、ここに止まって呼びかけだ!」
「交尾オッケー!」
を何度かやって一週間。
「そろそろおしまい!」さようなら。

シンプルだなあ。悩みもない、苦しみもない。いや、でもほんとうにそうなんだろうか…
と、思うところが人の感傷か。
セミはただ、限られた時間を精一杯に、自分の役割のために生きて、死ぬ。
毎朝の大合唱はかなり頭の芯にキツいけど、わが家の桃の木でしばしがんばりたまえ、セミたち。
そしてお相手のメスたちは、小さな庭に新しい命を生みつけていくことになるんだろう。
7年ののち、地上に出ることを目ざして。
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by higurashizoshi | 2008-07-26 23:14 | 雑感 | Comments(6)

猛暑とドレス

毎日、冷蔵庫を開けるたび思う。
「この中で暮らしたい…」
夏とは、こんなに暑いものだったのか?
と去年も思ったかどうか、さだかではない。
もはや記憶も熱気の中に、ジェリーのように溶けていくぅ…

そんな中。
とうとうわが家に、ミミの熱愛する『魔法にかけられて』のDVDがやってきた。
それからというのもの、一日3回は繰り返し、繰り返し、観ているミミ。
そのうち家の中で歌って踊り出すかも?
…いえいえ、ミミの場合、例の「撮影」熱にさらに拍車がかかり、衣装も
「もっとゴージャスに、もっと本物らしく…」を追及。

主役のプリンセス「ジゼル」の最初の衣装、王子との婚礼用のウエディングドレスも、ミミがさらに改良を加え、このように豪華に!
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私もやっと原作映画(?)を観られて、これでアシスタント・ディレクターとして一歩前進。
撮影は猛暑の中、続けられてゆくのであった…。
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by higurashizoshi | 2008-07-22 17:09 | 雑感 | Comments(12)

加瀬亮つながり

世間では夏休みも始まって、劇場公開される映画の話題がにぎやかだ。
映画館に行けない身としては、そういう情報は、いずれDVD化されてから観たい作品をチェックしておく機会に過ぎないわけで、「この映画は絶対映画館で観てください!」などと宣伝に書いてあるとちょっとムッとするんだなあ。世の中、映画館に行きたくても行けない人もいるんだからね、と心の中で説教をたれる。

今年はとにかく邦画を集中的に観ることに決めてから、けっこう手当たりしだいにDVDをいろいろ観ている。
手当たりしだいといっても、あ、この監督おもしろいなと思ったらその監督の作品をいくつか続けて観ていったり、気になる役者がいたらその役者つながりでおもしろそうな映画を探していく、というやり方をしている。 d0153627_1735254.jpgd0153627_17372856.jpg
で、今回観たのは『花よりもなほ』(2006年・是枝裕和監督)と『スクラップ・ヘブン』(2005年・李相日監督)。さて、この2本をつなぐのは何か? というと、加瀬亮である。

江戸長屋の哀歓を描く時代劇『花よりもなほ』ではやくざなはぐれ者、現代若者の焦燥と衝動を描く『スクラップ・ヘブン』では気弱な警官。とにかく加瀬亮という人は、ほんとうに役になりきる。役者を見分けるのが特技(ちょっと自慢)の私でも、「え、同じ人なの?」と思ってしまう。変化(へんげ)する人なのだ。
邦画をまったく知らなかった私が初めて加瀬亮を見たのは、去年何気なく観た『ハチミツとクローバー』(2006年・高田雅博監督)で、そのときは大した印象は残らなかった。
その後、『パッチギ!』(2005年・井筒和幸監督)を観たときに、冒頭のグループサウンズのコンサートのシーンで、悶絶しながら歌うボーカルがあまりにおかしくて爆笑してしまい、「どっかで見た顔だなあ…」と思ったらそれが加瀬亮。
それからだいぶたって、『ゆれる』の西川美和監督が過去に参加したと知り、それが観たくて借りたオムニバス映画『female フィメール』(2005年)の中の一本に加瀬亮が出ていて、その鬼気迫る演技と不思議な存在感に引き込まれてしまった。

加瀬亮という人は、容貌、雰囲気、ともかく地味で、まるで目立つところがない。『スクラップ・ヘブン』で共演していたオダギリジョーは同世代だが、まず美男で華があり、カリスマ性があり、演技センスも抜群。それでも作品の中で、次第にオダギリジョーよりも加瀬亮の存在感がじわじわと迫ってくるのはなぜだろう。
オダギリジョーはよくも悪くも、何をやってもオダギリジョーなのだけど、加瀬亮は「加瀬亮」という人を忘れさせる。消してしまえる。それゆえ、役が生命力を持っていく。そういう感じがするのだ。
群衆の中に入れば、たちまちまぎれてしまうようなたたずまい。演技に入ると、彼は自分をカラににして役そのものをまるごと取り込んでしまうようなタイプなのかもしれない。だからこそ、どんな人間にもなれるし、次にはどうなっていくのかという先の読めなさがある。
同時に、たとえ最低の男を演じていてもどこかに品があり、やさしさが残るのがこの人の持ち味のように思え、そこもまた魅力的だ。

『花よりもなほ』は是枝裕和監督だから観たかったという理由もあったし、『スクラップ・ヘブン』も、『フラガール』の監督が過去に撮った作品ということで興味があったというのも理由のひとつ。
これまで観る勇気がなかった是枝監督の『誰も知らない』も、いよいよ観ようという気になってきたし(これにも加瀬亮が出ている)、李相日監督も興味深いのでさらにさかのぼって観てみたいとも思う。
そのほか加瀬亮の未見の出演作品で、次にぜひ観たいのは『アンテナ』(2004年・熊切和嘉監督)。地味な作品ゆえレンタルで見つからないのがくやしい。
話題になった主演作『それでもボクはやってない』とか(監督が好きでないのでこれまで敬遠していた)、宮沢りえと共演した『オリヲン座からの招待状』(観なくてもわかるような映画じゃ、と避けていた)など、ひねくれを返上して観てみようかなと思ったりもし…。
つながりつつ、いろいろと興味は広がっていく。
当面は、DVDで観られる映画の世界をぶらぶらと、時系列あちこちしながら訪ね歩く楽しみが続きそうだ。
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by higurashizoshi | 2008-07-19 17:53 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(4)

昼下がりのチャチャ

暑いときは寝るにかぎるにょ。
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それにしても…
エアコンぐらいつけてくれよぉ。
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by higurashizoshi | 2008-07-16 22:59 | 雑感 | Comments(2)

ニキフォル 知られざる天才画家の肖像

いつもコメントをいただく、くれないさんに教えてもらったポーランド映画『ニキフォル 知られざる天才画家の肖像』を観た。心に静かにしみる映画だった。d0153627_2343549.jpg

1960年、ポーランド南部の保養地クリニツァ。
くすんだ煉瓦の建物や森を背景に雪が降りしきる美しい風景の中を、ひとりのみすぼらしい老人がよたよたと歩いていく。彼はある建物の中に入ると、ひとつの小部屋に入り込み、我がもの顔に筆をなめると絵を描き始める。小部屋にいた男が驚き、とがめる。どうやらこの部屋は、老人のではなく、この男のアトリエらしい。
頑固で偏屈なしわくちゃの老人、天才画家ニキフォル。彼の画才を誰よりも認め、愛した男マリアン。二人の物語は、こうして始まる。

画家のマリアンは審美眼は一流ながら、自分には絵の才能が決定的に欠けていることを知っている。
「こうでありたい」と焦がれてやまない才能に、この日、彼は出会ってしまう。その相手は、親子ほど年上の、おそろしく小柄な、ろくに対話も成立しないうす汚れた身なりのおじいさんである。
しかもこのおじいさんはマリアンの絵をひと目見るなり、「なんだこの絵は。…お前はもう描くな」と罵倒する。そのうえ、あろうことかマリアンのアトリエに居座り続け、勝手に画材を使い、勝手にラジオで音楽を聴き、創作に没頭するのである。
当惑しながら、ニキフォルの絵に惹かれる心を止められないマリアン。彼の心にはニキフォルに対する、妬み、あわれみ、あこがれ、憎しみがせめぎ合う。平穏だった妻と娘たちとの家庭にも、波風が立つ。
ほどなく、他人の思惑など眼中になく、ただにひたすら絵を描きつづけるニキフォルが、重い肺結核に侵されていることがわかる。ニキフォルは在野の画家として評価され始めていたが、周囲の人間は手のひらを返したように伝染病の老人を遠ざけるようになる。マリアンの妻も、幼い娘たちへの感染を恐れる。あくまでニキフォルの世話に固執するマリアンは、やがて家庭とニキフォルのどちらを取るか、という選択肢をつきつけられる…。

ニキフォルの絵は、今では世界中で高価な売買の対象になり、アール・ブリュット(アウトサイダー・アート)の代表的な画家のひとりとされているという。これは、そのニキフォルの晩年の8年間を描いた映画である。その死まで彼を支えることになったマリアンも実在の人物だ。
映画の中で、マリアンはニキフォルをともない、出生の記録を探し、足跡をたどる旅をする。ニキフォルには言語に障害があったといわれ、映画の中のニキフォルもごく断片的な言葉を自分本位に語るだけだ。
身寄りのない状況で転々としながら生きてきたニキフォルは、そのときどき援助してくれた人に対する感謝の念はまるでなく、わがままを繰り返しては追い出されてきたことがわかってくる。どうしようもない放浪児であり、同時に自分の絵に絶対の自信とプライドをもつニキフォル。自作の絵を保養地にやってくる観光客に売ることで、彼はとぼしい生計を立ててきた。ニキフォルにとって絵はすべてだ。仕事であり生活そのものであり、描き続けることだけが彼の望みなのである。

映画は淡々とリアルに、ニキフォルのたたずまいを映し出す。深い皺、黒く汚れた爪、床に吐き出す痰までも。この老人を演じているのが当時84歳のポーランドの女優、クリスティーナ・フェルドマンというのが驚異だ。
実在の男性を女優が演じるというアイデアはどこからきたのだろう。生前のニキフォルに生き写しと評判だったそうだが、どこからどう見ても偏屈なおじいさん。違和感どころかまさにニキフォルという人物がここにいる、という存在感に圧倒される。

この映画の主役は確かにニキフォルだが、これは天才に出会ってしまった男・マリアンの物語でもある。
天涯孤独で絵だけに生きるニキフォルと対照的に、マリアンには平穏な勤め人の暮らしと、養うべき家族がある。そんなマリアンが、ニキフォルのマイペースぶりに翻弄され、ときには腹にすえかね、怒りをあらわにしながら、結局はニキフォルを丸ごと受けとめていく行程がとても自然に描かれている。
その才能に惚れぬいただけでなく、手前勝手で抜け目がないくせにどこか憎めないニキフォルの愛らしさ、幼子のような無垢さがマリアンに「どうしてもこの人を支えたい」と思わせたことがよくわかる。
マリアンは自分がかなえられない夢をニキフォルを支えることで現実にし、ニキフォルはマリアンの献身によって、病の中も生きて描くすべを与えられた。

親子でもなく師弟でもなく、絵への思いと不思議な縁によって分かちがたく結び合った二人の男の間に生まれた感情は、ニキフォルの肺結核が進行する中でどこか聖性すら帯びてくる。
けれどもこの映画は、あざとい表現を封じて、感情の動きをていねいにすくいながら、情緒におぼれずただ人間の表情やしぐさだけを見せていく。その抑制がとても好もしい。
クリニツァの町の素朴な美しさは、映画の中で写し出されるニキフォルの水彩画の透明感のある色彩、独特のタッチそのままに心に残る。

もし今、自分の絵が信じられないような値で取引されていることを知ったら、天国のニキフォルはなんと言うだろう。「あたりまえだ」と言いたげに小さな背を伸ばしてみせるか、それともフン、と小ばかにしたように笑って、今描いている絵のほうがずっとすばらしいぞ、とばかりに描きかけの絵に戻っていくだろうか…。
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by higurashizoshi | 2008-07-14 22:54 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

ベランダあやうし

わが家のベランダは、総天然木の特注品である。特注といっても、この家を建てたコトブキのお父さんが5年前のリフォームのときに、リクエストにこたえて作ってくれたのだ。
(ちなみにコトブキのお父さんは大工さんである。)
ちょっとテーブルとイスでも置きましょかというくらいの広さはあって、木の手触りが心地よく、このベランダのおかげで洗濯ものも布団もいっぱい干せるし、気候のいいときはここでお茶を飲んだりピクニック気分でお昼を食べたりすることもある。

この自慢のベランダに異変が起きた。
梅雨まっさかりのある日、ふと見ると茶色い床板の隅っこに…
「ぬ、ぬゎんじゃこれは~!」
鮮やかなオレンジ色の何かが、無数に生えている。
子どもたちに見せると「うわっ、気持ち悪っ!」と逃げ出した。
どう見ても、これは小さなキノコちゃん。キノコ…?

ミミがぽつりと、「あれ、食べられる?」と聞く。
「たぶん無理」と私。
「毒キノコかも」とタタ。
それにしても…キノコ? なぜキノコ?

雨がやみ、陽が照りつけるとキノコたちは「しゅー」と縮んでカラカラになってしまう。
そいつをせっせとつまんで庭に投げ捨てる。でもすごく小さいうえ、あんまりたくさんあるので、とても全部根元から取り切れるもんじゃない。
適当なところであきらめて、また雨が続くと…オレンジのキノコは息を吹き返し、しかも増殖しているではないか!

なんでベランダにキノコが生えるのか?
これって放っておいてもいいものなの?
いや、なんとなくこのまま放置していてはいけない気がする。危険な香りである。
そこでネットで調べてみることにした。キノコについて学ぶ。

「キノコは菌です」
と書いてある。そうそう、菌だね。
「キノコは植物やその遺骸をもとに生育します」
なるほど、なるほど。シイタケも原木栽培とかするもんね。
「腐朽菌という木材の繊維質を分解し腐らせるのもキノコの一種です」
え…。
あわててほかのHPなど見ると、
「木材を腐らせる菌の種類は多数ありますが、木材を完全に破壊するのは木材腐朽菌と呼ばれるキノコの類です」
がーん。
で、その腐朽菌てどんなのよ?鮮やかなオレンジ?
と思って調べても、そのおそろしいキノコの写真は出ていない。

「わからないけど、わかった」と子どもたちに報告する。
「あのキノコは、ベランダの木を分解して栄養にして生きてるらしい」
タタもミミも
「ひい~」と悲鳴をあげる。「だめじゃん!」
そう、だめじゃんである。このままではいずれわが家のベランダはキノコに取って食われてしまうであろう。
内心、オレンジでちっちゃくて、ちょっとカワイイな、なんて思っていた私はおろかだった。

というわけで、今日はキノコ撃退のためベランダの床板にペンキを塗ることになった。
ペンキでキノコの息の根をとめることはできるんだろうか?
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by higurashizoshi | 2008-07-11 13:15 | 家事というか | Comments(4)

七夕の午後

笹飾りにたくさんの願いごとを下げて。
チャチャも何か、願っているのかな?

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夜には雲が広がり、明石では星がほとんど見えず…
ちょっぴり残念。
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by higurashizoshi | 2008-07-07 21:23 | Comments(4)

明日は七夕

「やっぱり笹がないと!」と、思いがけずタタが言ったので、コトブキに頼んで七夕用の笹を買ってきてもらった。大人の背丈ほどの立派な笹が、一本250円。
「キミはいったいどこから来たの?やっぱり中国かな?」
私が青々した笹に話しかけていると、「パンダのオリから取ってきたんじゃないの?」とタタ。
そうそう、上野動物園のパンダ亡きあと、日本にパンダがいるのは和歌山と神戸だけになったんだった。
神戸の王子動物園は私も幼いころからしょっちゅう行ったところだし、タタやミミもおなじみ。パンダが来たのはいつごろだったか…。上野動物園の、ガラス越しの箱入りパンダを見慣れてたから、王子動物園で空の下、低い柵だけをはさんで目の前に「のへっ」と寝ているパンダを見たときは感動したっけ。
それにしても、年がら年じゅう笹ばかり食べて、おいしいんだろうかねえ。脂肪たっぷりに見えるあのパンダのむくむく体型を、こんな植物が支えてるというのは不思議だなあ…
てなことを考えていると、ランランと眼を輝かせて笹を見つめる動物ひとり。チャチャである。

完全室内飼いネコさんは、自然に飢えている。切花、鉢植え、なんであろうと植物を見つけるとチャチャは突進! 葉や花をむさぼり食い! そのうちコーフンのあまり花瓶や鉢を押し倒してしまう。
「とりあえず笹をチャチャから守らないと、七夕までにボロボロにされちゃうかも」
「てゆうか、この笹って薬とかかかってない? チャチャがなめたり食べたりしたら毒かも!」
と言ってる間にも、チャチャは激しく笹に飛びかかろうとジャンプ体勢。笹を持ったミミが右往左往して、それをチャチャが追いかけ回す。
「どこにやったらいいのぉ~早く決めてぇぇ」と叫ぶミミ。
結局、もっとも安全と思われる場所(=トイレ)に立てかけておくことになった。
七夕飾りの笹をトイレに? いや、まあこの際気にしない、気にしない。

夜になってから、千代紙を切って笹飾りを作った。
このごろめったに親と一緒に何かすることのないタタも、めずらしくおしゃべりしながら参加。
明日は短冊を作ろうね、と言いながら、タタは何を書くんだろうなとふと思ったりする。
七夕は、私の祖母の命日でもある。私が生まれる前に亡くなったので、写真でしか知らない祖母。
子どものころ、晴天の七夕の夜は庭に出て、夜空をながめて天の川を探した。
祖母がどこかにいるような気がして、たくさんの星を見ていたことを思い出す。

短冊も完成したら、トイレに安置した笹を出して、飾りつけをしなくっちゃ。
チャチャの眼からどうやって隠れて作業するか? できあがった笹をどこに飾るか?
いろいろ課題ありの七夕はもう明日。天の川は見えるだろうか…。
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by higurashizoshi | 2008-07-06 13:53 | 雑感 | Comments(2)

シーソー

何もやる気がわかないときというのがあり、反対にたくさんのことをいっぺんにやりたくなるときがある。
私は昔から、こういう二つの気持ちが両端にあるシーソーみたいだ。

何もできないとき、心のまんなかにあるのは空虚というか、けだるさだ。
指ひとつ動かすのも、力がなくてたいへんという感じになる。
ところがエネルギーがやがて戻ってくると、今度は思う。
世の中にはこんなにたくさんのものごとがあって、人がいて、思いがあって、こんなにたくさんの場所や本や映画や絵や音楽や…があるのに、一日はこんなに短くて、ひとつひとつやりたいことをやっていったら間にあわない、人生は短すぎる! と。極端だなあ。

けれど結局は、ひとつひとつ、できることを、ほんとにちょっぴりずつやっていくしかないのだ。
この2ヵ月ほどをかけて、小説をひとつ書いたけれど、たいへんなエネルギーをつかって一生懸命に書いた小説は、書き終えてから見るととても短く、ささやかなものだった。
そしてそれをひとつ、自分の足もとに置いて、また次に向かってゆっくり進んでいくほかはない。

母親である以上、子どもたちがかかえていることも、望むことも、支えていくのは当然の人生の仕事で、それでもときどき、たったひとりで生きることをうらやむ気持ちが起きるのもまた、当然なんだと思う。
私は、今の私でしかなく、昨日の私にも、別の私にもなれない。
世界のすべてを見ることはできなくても、小さな小さな場所で何かをじっと見つづけることで、あるとき見えてくる広さがある。
それを見つめる眼は、くもらせずにいようと思う。
たとえ明日のシーソーが、どちらに振れても。
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by higurashizoshi | 2008-07-03 21:12 | 雑感 | Comments(2)

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明石であそぼう! たこ焼...

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