ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

d0153627_12502739.jpg春にBSで放映された、第80回アカデミー賞の授賞式。テレビの前で、私は主演男優賞に輝いたダニエル・デイ・ルイスのスピーチを見ながら、年月をへたエレガントな美男子ぶりにうっとりしていた。
受賞作品は、寡作のクセもの監督、ポール・トーマス・アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』。アメリカ20世紀初頭の、石油採掘で成り上がる男の話。授賞式で流れたスポットでは、ダニエル様は例によってまるで別人になりきって、脂(油?)ぎった強欲オヤジを演じているようだった。
別人になりきる、といえば、このとき主演女優賞のほうを受賞したフランス人女優マリオン・コティヤール。授賞式ではういういしい可憐なお嬢さんといった風情のマリオンさんだったが、受賞作『エディット・ピアフ 愛の讃歌』をこの前観て仰天した。伝説の歌姫ピアフの猛々しい娘時代から老醜すさまじい晩年まで、どこからどう見てもあのお嬢さんと同一人物とは思えない。役になりきってその生涯の変化を生きている気迫に圧倒された。もちろん、撮影やメイクの力もあるだろうけれど、役者が一世一代の演技をする、というのはなんともすごいことなのだと再認識したのだった。

さて『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の話。映画館で観られない身としてはDVD化されてレンタルを待つしかなく、人気作ゆえ待たされて、やっとこの前借りることができた。
石油で成り上がる男といえば、『ジャイアンツ』のジェームス・ディーンを思い出す。ついに掘り当て、噴き出した石油を両手を挙げて浴びるシーンが忘れられない。彼はとても若かったので(といっても遺作になったわけだが)、後年を描いたあたりはどうしても無理があったけれど、はるか昔に観たのに、映画全体を含めてとても印象に残っている。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公プレインビューは金採掘からスタートして生身で土を掘り、岩を削り、石油を掘り当てていく、自称「石油屋」。あるとき、見知らぬ青年ポールが彼を訪ねてきて、自分の家の牧場に石油が出るという。これが転機となり、プレインビューはその牧場一体の土地を買い占め、そこに住み、油井を次々と開拓していく。
その彼の前に立ちはだかるのが、ポールの双子の兄弟で牧師のイーライ(不思議なことにポールの方はその後一度も登場しない)。
このイーライは一見、温和で謙虚に見えるが、実はプレインビューと表裏一体ともいえる存在だ。プレインビューがひたすら求めるのが石油であり金であり、実世界の王者であろうとするのに対して、イーライは宗教の仮面をかぶって人心を支配し、精神的世界で王者になることを目指している。彼らはお互いの利権争いを長く繰り返しながら、近親憎悪的な感情でつよく結びつく。
プレインビューには、かつての仕事仲間が事故死して遺した、血のつながらない息子がいる。石油関係の契約の場や、土地買収の住民説明会などに必ず、まだほんの子どもであるこの息子を連れて行く。その方が相手の心証をよくし、信頼を得やすいからだ。いわば息子はブレインビューの小道具なのである。
ただし、このプレインビューという男は、たんに強欲で血も涙もない人間というわけでもない。息子に対しては、細やかに気づかいし、抱擁し、キスする。それが虚栄心からなのか、心からの愛情なのか、そのあたりが判然としない。やがて油井で思いがけない事故が起きたり、腹違いの弟と名乗る男が現れたりする。そのころから、プレインビューの心が加速度的に闇に向かい始める。成り上がる快感と、ふくれあがる憎悪に引き裂かれて彼はいくつもの罪をおかしていく…。

とにかく、これは男の映画である。原作、脚本、監督、主演すべて男、それどころか2時間半近い映画の中には男しか出てこない。お飾りでも女は登場しない。ひとりだけ、プレインビューの息子と親しくなる女の子(イーライの妹)がいるが、セリフはほとんどない。
強欲成り上がり男を描いた作品なのに、強欲を描く常套手段である女が出てこない。これは特異なことだ。
そして幾重にもかさねて描かれるのは、父―息子、兄―弟のねじれた関係だ。《ゼア・ウィル・ビー・ブラッド》、血は流される。どろりと黒く光る石油は、流れ出る濃い血。むせかえるように胸が重くなる。プレインビューが求めたものが何だったのか、次第に観ているほうもわからなくなってくる。
ダニエル・デイ・ルイスは、アドレナリン全開で休むことなく終局までを駆け抜ける。ここまでやるかという狂気の演技と見せて、強い理性ですみずみまで制御している。たった数秒のショットの中でプレインビューの傲慢と哀しみの間をゆれる感情を見せつけ、暴発する憎悪で観るものを凍りつかせる。もはや観客は彼の手のひらの上でひたすらこの嵐を見続けるしかないという感じだ。
対する牧師イーライを演じるポール・ダノは『キング 罪の王』『リトル・ミス・サンシャイン』と観てきたが、印象深い風貌と演技の若手である。いわば怪物対怪物というこの大役を果敢に演じていて、かなりの線まで達しているのだが、さすがにダニエル・デイ・ルイスが相手では分が悪かった。骨の髄まで主人公の愛憎の対象になる人物としては、いささか説得力が足りなくて惜しい。

監督ポール・トーマス・アンダーソンは絵画的な独特の色彩感覚とカメラワークが特徴で、これまで観た作品(『ブギー・ナイツ』『パンチドランク・ラブ』)からいうと、個性的だけれど私にとってはピタリと好みに合うタイプではなかった。今回は、もしかするとまだ30代のこの監督の転機になる作品なのかもしれない。これまでと大きく色合いを変えて、スケールと奥行きのあるドラマを作ろうとする意図が強く感じられた。どこかキューブリックのような硬質な狂気とユーモアを感じたのは新しい発見。
また、この作品で強い印象に残るのが、ロックバンド・レディオヘッドのギタリストが担当している音楽だ。冒頭のまったくセリフのない数十分ほど、荒涼たる山と砂地、ひたすら地下にもぐりツルハシをふるいつづける男にかぶさってくる歪んだ弦楽器の緊張感。そして、ときおり流れ出す美しいソナタ。緊迫した場面になだれこむ、叩きつけるようなリズム。全編こんな調子で、いささか音楽が自己主張しすぎでは? と思うほどの存在感。あと少しでやりすぎ、のギリギリの線で、私は個人的には好きだった。

ダニエル・デイ・ルイスはこの作品が5年ぶりの映画出演だという。観終わってから、アカデミー賞での美しい笑顔を思い出そうとするのだけどプレインビューの黒光りする面影しか浮かばない。まったく違う人物を造形できるすぐれた演技というのは、たんなる技術ではなく、なにか人智をこえたところにあるもののように思う。
そんなことを思わせてくれるダニエル様には、今度は5年も間をあけず、また新しい人物になりきった神業を見せてもらいたい。
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by higurashizoshi | 2008-09-30 13:02 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

ぶどう

平穏をのぞむ ということは
あたりまえのふちにつかまりながら
奈落を見ないでもちこたえることだ

たとえば今日たったひとふさ残った冷蔵庫のぶどうを
その家にすむ人の数で分けようとして
最後まで笑顔で話し合いをまっとうすることができたら

おっとあぶない というところを
うまく互いにそれあって慎重に ことばをつないだり
部屋のすみにうすく積もるあのくらいものは
見ないようにさらりと視線をずらせたりして
おいしいね

みんな唇のはたにむらさきの汁をつけて
ほんとうのなかよしみたいに向きあってすわっている
小動物みたいに罪なくすわっている

そのかなしいほどのけんめいさを
まやかし というのなら
かたい宇宙のぶあついらせんを手品のように
するする解いてみせておくれ
ぶどうの種よ



*****
なにごとも穏便に。なんて臆病もののセリフだとおもっていた。
昔は。
今夜すこし気持ちがななめになりつつ書いた詩。

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by higurashizoshi | 2008-09-26 21:59 | | Comments(2)

福岡の事件に思う

ときどき、ほんの少し外出したり、また家で静かに過ごしたりしている。
三度のごはんを作り、本を読み、文を書き、DVDで映画を観て、家族とおしゃべりをする。
波風の立つときもあり、おだやかに過ぎるときもある。心にはいろいろなことが駆けめぐっている。
そんな中、胸に突き刺さるような事件を知った。

福岡で小1の男の子が、母親の手によって殺されたという。
一番最初に報道を目にしたときは、他人の犯行のように扱われていた。
でもなぜか胸騒ぎがした。
男の子が、特別支援学級に通っていたことを新聞で読んだとき、胸騒ぎがいっそう大きくなった。
まさかそんなことであるはずがない、あってほしくない…と、悪い予感を打ち消していたのに、次々とその予感が的中してしまった。
他人ではなく母親が犯人として逮捕されたこと。
しかも子どもに発達障害があったらしいこと。
想像力がありすぎる、と自分をしかっていたのに、一番悪い想像の通りだった。

世間一般の人々はこうした事件が起きるたびに、母親をひたすら糾弾する。
ただ今回は、ニュースを見ていると、「もっと支援が届いていれば」「周りが相談に乗っていれば」というコメントもあって、ほんの少し、見方が変わってきてはいるのかなと感じた。
いつも思うことだけれど、ひとつの破局にいたる理由やいきさつは、たくさんの時間の積み重ね、事情の重なりがあって、他人がわかった気になってどうこう論じることはできない。
命がひとつ失われたという、ぜったいに取り返しのつかないことが目の前にある。
大好きだっただろう母親に命を絶たれたこの子のことを思うと、息がとまりそうになる。
そしてわが子を手にかけた事実を一生負っていくのは母親自身で、誰も肩がわりはできない。

私はタタの関係で、何人もの発達障害や二次障害(心の病など)の子どもを持つ友人がいる。
その多くから「子どもを殺して自分も死のうと思ったことがある」という話を聞いている。
私にとってもそれは、少しも他人ごとではない。
何の問題も見えない子どもを育てている人には想像もつかないことだろうけれど、ほんとうに追いつめられた母親の中には、そうするしかないと考えてしまう瞬間が生まれ得る。
それを現実にしてしまわずにすむのは、ただ単に、母親自身の強さや資質の問題ではないと思う。
母親を支えてくれる手がどれだけ周りにあるか、理解し共感してくれる家族や仲間がいるかどうか。そして、母親が閉じてしまわずに、なんとかその人たちの手を握ることができるかどうか。
そして、大きくそれを包む社会が寛容でなければ、ほんとうの意味で、追いつめられる母親を、命を絶たれる子どもをなくすことはできないと思う。

最初いっしょにこのニュースを見て、心を痛めていたらしいミミは、母親が逮捕されたという報道を見たとたん、何も話さなくなった。
黙って、絵を描いている。
受けたショックを、どうやってやわらげるだろう、と思う。
少し時間がたったら、私は、私に話せることを、ミミに伝えよう。そう思いながら、静かにミミのとなりに座って、コーヒーを飲んだ。
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by higurashizoshi | 2008-09-24 06:34 | Comments(0)

カズオ・イシグロ 『わたしを離さないで』

d0153627_1733324.jpg不思議な小説である。
全編、キャシー・Hと名乗る若い女性の一人語りで物語は進む。
物語の最後まで、キャシーが誰に向かって語っているのかはよくわからない。
ときおりはさまれる、「あなたもご存知のように」という言葉から、聞き手は少なくともこのキャシーのいる世界の構造を知っている人物、ということになる。
実際の読み手である私たちは、もちろんその世界の構造を知らない。

冒頭、この物語の世界の時と場所は、はっきりと記されている。
「1990年代末、イギリス」。
だからこれを、私たちの知っているその時代の、私たちの知っているイギリスでの物語だと思って、読者は読みはじめる。
そして読みすすめるにつれ、少しずつ、違和感を感じ出す。
キャシーの語る、全寮制の学校での、幼少時からの細やかな思い出の数々。
陰湿ないじめ、複雑な友情や恋のかけひき、師弟関係の愛憎。それらは私たち読者の多くにとっても、ごく自然に共有できるような記憶だ。
それなのに、ぬぐいがたい何か奇妙な感じが、じわじわとふくれてくる。
しばしば当然のように出てくる言葉、「介護者」や「提供」とは何なのか。そもそも、キャシーたちの育ったへールシャムとは何のための学校なのか。なぜ、彼らの誰ひとりについても、家族の話は出てこないのか…。
外の世界と隔てられて、へールシャムだけで育ちながら、キャシーたちは「保護官」と呼ばれる教師たちから、外の世界がどうなっているかについて教わる。いずれここを卒業し、外へ出ていってから困らないように。
「保護官」たちは言う。あなたたちは特別な生徒なのです、と。だから体も心も健康にはぐくまれなければならない。無邪気にその言葉を受けとめて育った幼少期を過ぎ、彼らが成長するにつれ、あらわになっていく閉塞感や不安は、どこにつながっていくのか。
キャシーの、あくまで抑制のきいたおだやかな語り口の中で、そのことはゆっくりと明らかにされていく。

作者がこの物語を「1990年代末、イギリス」と明記して書きはじめていることの意味は、読み終わると深く重く心に落ちてくる。
これはSFやファンタジーのように、どこか別の世界の物語ではない。私たちの現実の物語なのですよ、と。
そして私たちは静かに戦慄しながら、まるでへールシャムの校庭や、出かけた海辺の町の小さな店の中でキャシーたちとともに過ごしたような思いにとらわれる。
やり場のない悲しみの感情もまた、どこかにぶつけるようなものではない。それは私たちの中へと静かに降りそそいで、この世界を見つめなおすことをうながしてくれる。

『わたしを離さないで』は、1954年生まれの日本人であり、イギリス文学の作家であるカズオ・イシグロが、2005年に発表した6番目の長編小説だ。
映画化された『日の名残り』を含め、イシグロの小説はイギリスの文学賞をいくつも受賞し高い評価を得てきたことは知っていたけれど、これまで何となく敬遠して、一作も読んだことはなかった。
5歳でイギリスに移住したというイシグロの中に、どれほど日本的なものが存在しつづけてきたのかはわからない。でも登場人物の感情の細かいひだまで造形していく、ちょっと執拗とも繊細ともいえる感覚に、私はどこか日本人的なものを感じた。
今回、ふとこの本を読んでみようと思ったのは、『わたしを離さないで』という書名に以前から惹かれるものを感じていて、ちょうど最近文庫化されたことを知ったから。邦訳の単行本が出たときに書評をちらりと見た記憶では、まるでSFかサイエンスミステリーのような取り上げ方がされていた気がするのだが、実際に読んでみた印象はまったく違っていた。繰り返すことになるけれど、これは私たちと無関係な別世界の物語なのではなく、あくまで「1990年代末、イギリス」を舞台にした、現代の、この社会の物語なのである。

タイトル(原題は『Never let me go』)は、作中に出てくる『夜に聞く歌』という曲の歌詞から取られている。語り手キャシーが少女のころに愛した曲だ。
この曲も、歌っているジュディ・ブリッジウォーターという歌手も、物語の外の世界には実在しない。けれど、キャシーたちの精一杯歩んだ生の意味を考えるとき、まるでその架空の曲が耳元でいつまでも周りつづけるような錯覚にとらわれてしまう。そしてキャシーたちと自分たちが、実は地続きの存在なのだということに気づいて、じっとたたずんでしまうのだ。
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by higurashizoshi | 2008-09-18 17:39 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(10)

キムチを刻みながら

自家製キムチのその後をいうと、無事に漬け込んで発酵もすすんで、おいしく食べることができた。ただし、キムチ屋さんのキムチにはぜんぜん届かない。何がちがうのかよくわからないのだけど、私が漬けたのは「キムチ味のしみた白菜漬け」みたいな感じで、あの本格的な濃さというか深みというか…がないのである。ちょっと悲しい。
でもまあ、めげずにまた挑戦してみよう。

このところ毎日、テレビでパラリンピックを見ている。
車いすバスケットや陸上競技など、ふだん見られないダイナミックなスポーツでほんとうにおもしろい。もっとじっくり試合を見たい! と思うのに、いつもダイジェストばかりで物足りないのが残念。
車いすテニスで世界ランク一位が日本人選手なんだ、とか、ボッチャというかわいい名前のカーリングに似た競技を初めて知ったり、手足のない選手たちが鍛え上げた筋肉で泳ぎ、走る姿に「すごい!」とくぎづけになる。

メディアでの、パラリンピックの取り上げられ方は確実に変わってきているなあと思う。《障害を乗り越えてがんばる人々》を健常者目線で応援しましょうという感覚から、障害者スポーツという、ひとつのジャンルとしてとらえる方向へ。
私も、じっさいにパラリンピックの競技を目にして初めて、スポーツとしての質の高さに圧倒されたし、人が自分の機能を最大限まで高めて動くことのすごさに、素直に感動した。メディアで、美談ではなくスポーツとして取り上げられることが増えていけば、私みたいにその魅力に夢中になる人は、確実に多くなっていくだろう。

ただ、気になるのはやたらにメダルの獲得数がうんぬんされて、どんどんオリンピックに近づいていっている気がするところだ。オリンピックと同等のところまでパラリンピックの地位を引き上げたいというのが、障害者スポーツにたずさわる多くの人の願いだというのはよくわかる。それは当然の願いだと思う。でも、オリンピックそのものは何ひとつ変化のないまま、パラリンピックがそこへ追いつくしかないという図式が、なんだかおかしく思えるのだ。
それでなくても、この前までのオリンピックの盛り上がりを見ながら、メダル、メダルと躍起になりすぎて、大切なことが置き去りにされていくような違和感がいつもつきまとっていた。メダルを獲れば大げさに騒ぎ立て、獲れなければ切り捨てていく風潮がますます強くなっている気もする。私の嫌悪する「勝ち組、負け組」ということばが、頭で点滅する。

頂点をめざすのがスポーツなら、逆に結果がどうあれ、自分の限界と対峙し挑戦する姿勢そのものが尊ばれなければいけないと思う。
結果だけが特権に結びつくのだとしたら、スポーツは人々の夢やあこがれを乗せるものではなく、単なる羨望の装置に過ぎなくなる。だから結果を出せなかった選手やチームは、羨望の裏返しとしてバッシングにさらされることになる。
そういう光景をいやというほど見てうんざりしているだけに、パラリンピックの今後はとても気になる。パラリンピックが変化していくのなら、オリンピックもまた変化していくのが自然で、その両方が歩み寄っていつかほんとうに対等な関係になる…そういう時代はくるのだろうか。自家製キムチの最後のひと束を刻んでチャーハンを作りながら、ちょっとした夢想のように、そんなことを考えていた。
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by higurashizoshi | 2008-09-15 13:45 | 雑感 | Comments(2)

きみを花束にして
きみにおくる
きみのひざのうらのくぼみに
あつまる光を
食卓にのせる
朝 いちばんにきみに会い
ひとばんかかって蒸らした願いを
そっと耳の穴にいれる
きみを足のしたで踏みしだく夢を
あけがた見たことは言わない

いつもつめたい汗がながれ
それなのにおさえがたく幸福なこころ
そこらじゅうをびしょぬれにして
ただやみくもにくりかえす おはよう

こんな朝のひとつひとつが
ホットケーキみたいに ぱん と皿にのって
バターをのせてそれが溶けて
毎日それをたしかめずにいられない

どこまでいけばおしまいか
だれもおしえてくれないので
ぼくは また今日も
きみのくびすじにちかづきながら朝になる



*****
初めて詩をアップしてみた。
今日ふとできた詩、とれたて。

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by higurashizoshi | 2008-09-09 18:02 | | Comments(4)

パンズ・ラビリンス

d0153627_15155956.jpg1944年、スペイン内戦のさなか、少女オフィーリアは母の再婚相手のもとへ、大好きな本の束を抱えて引っ越してくる。そこは、臨月の母と少女が住むにはふさわしくない山の中の陣地。フランコ将軍の配下にある小隊が、そこを根城に、山にひそむ抵抗勢力との戦いのさなかにある。
小隊を率いるビダル大尉が母の再婚相手であり、彼はお腹の子を男と決め込んで、「息子は父親のもとで誕生すべき」という勝手な論理のために無理やり二人を呼び寄せたのだ。
オフィーリアにとって、すべてに不安な日々が始まる。外は銃声が行きかい、母は長旅がたたって体調を崩していく。義父のビダル大尉はオフィーリアをただ邪険に扱い、その徹底した暴力性と冷酷さをちらつかせる。
けれど、オフィーリアにはもうひとつの世界があった。この地に到着したとき、不思議な虫に導かれてのぞき見た地下の迷宮。そこにはパンと名乗る異形の男がいて、オフィーリアに向かい「あなたはこの国のプリンセスに違いない」と告げたのだ。
こうして、オフィーリアは現実の世界と迷宮というふたつの世界を行き来することになる。残酷で不安に満ちた現実の世界から逃れたいオフィーリアだが、迷宮の世界もまた、彼女に期待とともに恐怖や不安を味わわせる。プリンセスであることを証明するためにパンから3つの課題を与えられ、それをこなすために次々と異様なものたちと対面し、ときには追われ、失敗するとパンの怒りを買う。オフィーリアにとって迷宮は救いであると同時に、現実世界で自分を抑圧するものの反映でもあるのだ。

ハリウッド映画とは異質のダーク・ファンタジーとして世界中で数々の賞に輝き、特にその視覚技術、美術において高い評価を得た作品である。監督・脚本・撮影をこなしたギレルモ・デル・トロは宮崎駿作品の心酔者とのことで、無垢な少女を軸とした物語の骨格や、異形のクリーチャーが次々と繰り出される(しかも粘るような質感をもって)ところなど、確かに宮崎アニメを思わせるところがある。
ただし、この映画の世界は宮崎アニメよりはるかに陰惨で、残酷である。そして登場人物は類型的で、あやつり人形のようだ。たとえばビダル大尉は徹底したサディストで、ひとかけらの情もなく、残虐行為をこれでもかと繰り返す。オフィーリアの母は徹底的に受身で無力な妊婦、主人公オフィーリアでさえ個性をほとんど持たない。オフィーリアはどこまでも受難者であり、宮崎アニメの少女たちのように世界を救ったりはしない。わずかに一人、大尉の召使でありながら反対勢力のゲリラをひそかに支援するメルセデスという女性が、一応の陰影をもった人物として登場するくらいだ。

迷宮の映像はグロテスクかつ美しく、誰をも引きつける魅力に満ちている。この作品が紹介されるときはその部分が強調されているので、そちらが主眼と思っていたら肩透かしをくらった。現実世界のほうがずっと多く登場するし、あまりにも容赦のない残酷な事態が起こり続けて息が詰まりそうになる。「少女の成長を描くダーク・ファンタジー」という言葉を信じて観ると裏切られる。オフィーリアはけんめいに苦難に耐えるが、変化はしない。彼女をめぐる状況は、現実世界でも迷宮でも、あまりにも救いがない。どちらの世界でも彼女にのしかかるのは男性的な暴力性で、オフィーリアの無垢さとかよわさが強調される。

観終わって、この監督の美意識の高さ、その映像の凝りようには感心しつつ、ではいったいこの映画は何だったのだろう? という疑問は強く感じた。オフィーリアの母が「この世界は残酷なの」と語るシーンがあるが、私はこの映画を観ながら、まるでアリ地獄か食虫植物のるつぼの中に落ちた小動物が、ゆっくりと食まれていくのを見せられているように感じた。圧倒的な暴力に満ちた世界の中で、翻弄されるしかないオフィーリアの澄んだ黒い瞳。それがいつまでも心から離れず、やりきれない思いが残った。
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by higurashizoshi | 2008-09-08 15:10 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(2)

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