ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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一年たった

あれっと気がついたら、一年。
ブログを始めてから、一年。
いやー早いものというか、逆に長い日々だったというか。とても不思議な気持ち。
履歴をみたら、こつこつと93個も文章を書いてきたのか…
穴があったらすぐ入りたくなる私が、人に見せる文を93個も、よくまあ。

昨夜、今年のゴールデングローブ賞の授賞式を観ていた。
ヒース・レジャーが助演男優賞を受賞した。受賞作『ダークナイト』の監督が、ヒースの代わりにトロフィーを受け取っていた。会場はいっせいに立ち上がって拍手をし、哀悼をあらわした。
たしか、ブログを始めた最初に、私はヒースの死のことを書いたんだな、と思い出しながらそれを見ていた。受賞はすばらしいこと、彼はこの作品にすごく入れこんでいたそうだし。でもジョーカーのメイクで狂ったように笑うヒース・レジャーが後世に残ると思うと何か悲しい。私はたぶん『ダークナイト』は観られないだろうと思う。
アカデミー賞のほうもヒースが本命といわれているとか、天国でどんな思いで見ているのだろう。

外に出られない生活にすこし風穴をあけたくて、自分を何か変えないとどうにもならない感じもして…ブログを始めた。それから一年、ほんとうにいろんなことがあった。ここには書かないこと、書けないこともたくさん。
でも、書けることを書きながら、自分の内側をいろいろ片づけたり、気づいたりした。
コメントやメールをもらうと、やりとりの楽しさにすごく励まされた。
すこしずつ、外に出かけられるようになってきたこのごろ。まだまだ私の自由はほんのちっぽけだけど、また新しい気持ちで書き続けることで、自分がひろがっていきたいと思う。
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by higurashizoshi | 2009-01-31 17:55 | 雑感 | Comments(2)

三行日記

三日坊主、根気がない、なにごとも続かない…
子どものころからずっとそう。そのいい例が日記で、はりきって始めてもじきにつまづいて、書かないまま日がたち、そのうち日記帳すらどこにいったかわからなくなる始末。それをいったい何回繰り返してきたかわからない。
もうずいぶん前、こんな自分をなんとかしよう! と決意して「10年日記」というのを買った。やめときゃいいのに、意気揚々と一年目の元旦から書き始めた。二週間くらいは続いただろうか…少し、息切れして、忙しい日はついつい書けなくて。あれ、こんなはずでは…こんなはずでは…
今その箱入りの重たい「10年日記」は押入れのどこかに、9年11ヶ月以上の真っ白なページを抱いたまま眠っておられる。おそろしくて、10年目がもう過ぎてしまったのかどうか、たしかめる勇気がありません。

と、そんなある日。今から2年以上前のこと。「僕の歩く道」という、自閉症の青年が主人公のドラマを観ていた。
彼のたいせつな日課に、幼なじみの女友だちに必ず毎日はがきを書く、というのがある。ドラマには毎回、そのはがきが映し出される。中身は、いつも三行だけ。《今日は、何々をしました。》《誰々が、こうしていました。》というような、すごくシンプルなもの。シンプルだけに、とても含蓄があり、
「一日のことを、たった三行に書いてしまうなんて、すごい」と私は感動した。これはみごとな短詩型の世界!
で、そのときにふと、これならできるのでは? と思ったのだ。
長年、日記をはりきって始めては息切れしてしまうのは、もちろん私があきっぽいからなんだけれど、その日の出来事や考えたことなんかをあれもこれも書きとめておこうとしすぎるからなんじゃない? と初めて(遅すぎる)思った。
そうだそうだ、日記をこんなふうに三行だけにしてみよう!

それで、2007年の元旦から、この三行日記を始めてみたのだ。
これはらくちん、と思っていたら、実はやってみると以外にむずかしかった。人間、朝起きてから寝る前まで、けっこういろんなことをしているもんである。忘れられないような出来事が起こる日もあれば、「…ん、今日は何してたんだっけ?」というような一日もある。
それらの全部を平等に、いつも一日三行、つまり三つの短い文だけで記す。
うー今日はこんないろんなことあったのに、三つだけ選ぶなんてどうやったらいいの? という日。
二つは出てきたけど、最後の一つが何にも出てこないなあ…「チャチャのうんち、ゆるめ」、これでいいか。なんて日もあり、たった三行を考えるのにえらく時間がかかったりした。

でも、三行日記のいいところは、とにかく実際に書く時間はめちゃめちゃ短いということだ。三つを選べれば、書く字数はあっけないほど少ない。めんどくさがりには最適である。
それと、もうひとついいこともあった。その日の全体を振り返る、ということが楽にできるようになってきたことだ。
それまでの私はその日のいろんなことをねちねちと思い出し、ねちねちと日記を書いていた。それはそれでいいのだけど、それは疲れる。そしてとにかく、続かない。
三行日記をはじめてから、しばらくすると、書くときにさーっとその一日を見渡せる感じになってきた。この《さーっと》がいいのである。

さて、ここまで自慢げに? 書いてきたからもうおわかりでしょう。私のけっこう長い人生で初めて、なんと丸2年以上が過ぎたというのに、一日も欠けることなくこの三行日記は続いているのである。
正直、3年目に入る今年の日記(といってもバッグにはいるような小さなダイアリー)を開いたときにはわれながら感動した。「こっ、この私が2年も…一日欠かさず日記を…うっうっうっ」もはや母の心境(誰が誰の?)。
でも、私にはわかっているのだ。これだけ日記が続いたのは、寝る前にちょこっと座って三行日記を開くとき、一日の終わりのごほうびにワインをちょっぴり飲むからだってこと。
楽しみとセットになっているからこそ続く、三行日記なのである。
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by higurashizoshi | 2009-01-27 21:51 | 雑感 | Comments(8)

別れ

14回目の震災の日。正午にテレビの追悼式典の黙祷にあわせて眼を閉じた以外、いつもとかわらない一日をすごした。
それから3日たって、その1月17日の、14年前に地震がおきたくらいの時間に、子どものころから知っていた方が亡くなったのを知った。
両親にとっては若いころからの親友で、知的で凛とした、でもユーモアあふれる女性だった。私はいつも颯爽としたおばさま、と思って見ていた。

知らせを聞き母に電話をすると、母は沈んだ声で言った。「ほんとうのことと思えないのよ、何度考えてもほんとうのことと思えなくて」
電話を切ったあと、ひとりで座り、私は思った。ああ、そうなのか。あの人はほんとうに、いなくなってしまったんだなと。

これまでずいぶんといろんな、つらいといえることを経験してきたつもりだけれど、どんな幸運が私にあったのか、たったひとつ、家族の死にだけはあわずに生きてこられた。
親しい友だちのほとんどは、親やきょうだいをなくしているのに、私はそれをまぬがれてきた。
でももちろん、もうそう長くは、まぬがれているわけにはいかない。そのことを、まざまざと思う。亡くなった彼女は、私の両親より年下だった。

いつかは別れなければならない。私はいつもそう思って、人とともにいる。
タタやミミといっしょにいても、どこかでそう思っている。
だから一日一日が、とてもたいせつで、てのひらでくるみたくなるほどなのだ。
あたりまえのことなんて、ほんとうは何ひとつない。たいくつな昼下がり、誰かといさかいをした午後、はてしなく続くと思いこんでいる日常は、すこしもあたりまえではなくて。
14年前、たちきられた多くの人の人生が、そうであったように。
いつもすぐそこに別れがあるかもしれないから、今はそっとだいじな人に、だいじな時間にちゃんとふれていよう。
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by higurashizoshi | 2009-01-21 11:51 | 雑感 | Comments(2)

つぐない

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イギリス・2007年公開
監督:ジョー・ライト
出演:キーラ・ナイトレイ、ジェームズ・マカヴォイ、シーアシャ・ローナン、ロモーラ・ガライ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ


古き良きイギリス映画、ということばを思い出させるような、がっしりとしてしかも緻密な…そして映像も音も実に端正で美しい映画だ。ジェームズ・マカヴォイ、キーラ・ナイトレイの主役ふたりもみずみずしく、ぐいぐいと引きこんでいく。
とりかえしのつかないこと、を描いた映画である。ひとりの少女がある激しい感情にかられてついた、一つの嘘。それが、彼女の美しい姉と、ひそかに愛し合った身分違いの男とのふたりの人生を、まるごと変えてしまう。戦争がそこに襲いかかり、少女が悔恨の気持ちにいたったときには、もうすべては手遅れになっていく。

少女が壮麗な屋敷の一室でタイプライターを打っている冒頭のシーンから、それが音楽と重なり、すべるように物語が動き出す躍動感や、若いふたりが秘めた恋をあらわにする瞬間の官能的な美しさ。そしてかれらが目指していたものが、ある瞬間からみるみるうちに崩れていく残酷さ。
少女はなぜ、嘘をつかなければいけなかったのか。
とりかえしのつかないことは、どうつぐなえるのか。

この映画はすこし複雑な構造をしている。少女は大人になって作家となる。彼女が年老いて、最後の作品として『つぐない』という小説を書く。その小説がこの映画に入れ子のようにはいっているのだ。
ほんとうにあったことと、小説の中で彼女が創作したところとが入り混じったまま、映画の描写はすすむ。けれど、ときおり時が混線するように、時間の流れが巻き戻され、また視点をかえて同じ場面が繰り返される。
観ている側は、今どの視点でこの時を見ているのか、それは事実なのかフィクションなのか、迷いつつ作品のつよい流れに身をまかせることになる。

原作はイアン・マキューアンの『贖罪』という小説だ。未読なので原作と映画とのちがいはわからない。ただ、この「入れ子構造」は映画化のための工夫ではないだろう、原作もたぶんそうなのだろうと思わせられる。
というのは、語り手がこの入れ子の中の物語を作っている、つまり少女のころ自分がおかした罪をつぐなうためにこの物語をつづっているということが、この作品の要だからだ。
現実にはなかったことも巧みに織り交ぜながら物語ることそのものが、贖罪の行為なのだと彼女はいう。はたしてそれは成立するのだろうか? 
語り手は物語にとって全知全能の神と同じだ。彼女がほんとうに傲慢でないといえるのだろうか?

老いた彼女を演じるヴァネッサ・レッドグレイヴ。出演場面はごく短いのに、少女のころから持つ孤独、罪の意識、強いプライドなどを凝縮して見せる力はほんとうにすばらしい。
深いしわの刻まれた彼女の顔。その苦悩。そして彼女のつづる物語の中で、色彩ゆたかに若々しい情熱をほとばしらせて、人々はいつまでも生き続ける。
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by higurashizoshi | 2009-01-19 09:22 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(4)

レンジレンジレンジ

おせち気分もすっかり遠のき、ひさしぶりにりんごケーキを焼いた。なかなかうまく焼けたでないのと満足して、調理後のオーブンレンジに何気なくマグカップを入れ、ちょい冷めたコーヒーを温めようとした。

ジジジジジ! ジジジジジ!

レンジ内部からなんか不穏な音がして、いきなり「はた。」とレンジが止まってしまった。そして表示窓に見慣れない英文字と数字が…。
説明書を引っぱり出し、その表示が出たときはコンセントをいったん抜き、差し直してくださいとあるのでやってみた。
でも何度やっても、いったんは直ったように見えて、じきにあの

ジジジジジ!

がはじまり、レンジは止まってしまう。
あちゃー。

このオーブンレンジ、2002年製という微妙なお年頃である。まだまだいけるけど、ちょっとくたびれても不思議じゃないという、まるで誰かのことみたいな…。
翌日、さっそくメーカーから修理に来てもらった。カンガルーのようにつぶらな瞳のお兄さんがやってきて、レンジのカバーを手早くはずし、内部を調べ始めた。
ものの数分でカンガルー氏は調査を終えたらしく、
「はあ。」
とちいさなため息をついた。
「どどどどうなんでしょう?」と聞くと、
「これはですねえ…」としばし間をおくカンガ氏。そしてやおらケイタイを取り出すと、何ごとか調べはじめた。
前日、メーカーの窓口に電話したときは、表示窓に出た謎の表示を伝えると「それなら修理可能だと思いますよー」と言われたのだ。
もしかして修理できない? 来てもらってそれはないだろう、とドキドキしながらカンガ氏の次のことばを待った。
ぱち、とケイタイを閉じると彼は気の毒そうに首をふり、
「この部分を取り換えればいちおう直るんですが…」
とレンジ内部の鉄の小箱みたいなものを指差した。
「今調べたら、部品代修理代出張代に消費税を入れて3万2千ほにゃ百円かかるんですよ。」(ほにゃ百円は記憶がさだかでない)

沈黙。

「僕、売る方はやってないんではっきり知らないですけど、このくらいの機種だと今2、3万くらいで新しいのが買えると思うんですよ。」

沈黙。

「もう少し、そうですねー1、2万くらいで修理できるんなら、した方がいいと思うんですけど、これ7年目ですから、これだけ出して今修理されても、いつまたほかの部品が悪くなるかはわからないですからねー」

ぷしゅー。(頭の空気が抜けていく音)

 A:たったこんな鉄の小箱いっこ交換するだけで、さんまんにせんほにゃひゃくえん!?
 B:鉄の小箱いっこ換えればすむのに、買い替え? これ全部廃棄処分!?
で、AかBか、しか選択肢なし?
そんな、そんな、アホな…

カンガ氏は判断不能におちいった私をつぶらな同情のまなざしで見ると、「もし修理されるならご連絡ください」と言い置いて帰っていった。

それから4日。
動かなくなったレンジはそのまま置かれ、チャチャが襲う食べもの(魚料理とか野菜とか)の保管箱として使われている。
動かない頭の私は、ネットでオーブンレンジの今の機種をいろいろ調べては、
「スチーム? 石焼?」何がなんだか、どこを決め手にしたらいいのか、もうごちゃごちゃ…。
いや、だいたい買い替える決心を私はしたのかどうか、あやしい。昨日もレンジ調べを途中でほうり出して、ミミと『マトリックス』なんか観てしまった。

新品が買える以上の金額を出して修理するのは、おろかなことなんだろうか?
ていうか、おかしくないかい、修理代より新品が安いなんて? 家電業界の戦略につるりとのせられて買い替え? それでいいのん?
いやもうこのさい、パンもこのごろ焼くようになったことだし、お菓子も作るし、オーブン機能がデラックスな(なにがデラックスなのかよくわからんけど)上等品を買っちゃおうか?
―こころは乱れるのである。しかも。
レンジのない暮らしを4日してみると、これが意外にどうってことないのである。
冷めたものを温めるのも、少し手間を惜しまなければ鍋に入れてガスにかければいいし。
冷凍したごはんも、しばらく自然解凍してから炊飯器の保温状態に入れておけば復活するし。
けっこういろんなことをレンジで便利にやってきたことはよくわかるけど、その反面、なくても時間や手間をすこしかければ、やっていけるんだなーと思うのだ。

どうしようかなあ、レンジ。ガスオーブンだけ買うとか? やっぱり従来路線に戻って適当なオーブンレンジを買う? いややっぱり修理する? 思い出のたくさんつまった今のレンジを見ると、こころは揺れる。
そして今もまた、ネットでレンジ情報を見るのをなぜか避けて、こんな文を書いている私なのであった…。

ちなみにこちらがレンジ停止前、最後のりんごケーキでございます(哀)

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by higurashizoshi | 2009-01-16 13:57 | 家事というか | Comments(5)

なかなかむずかしい

家中が寒くて、ヒーターのきいたリビングだけが暖かい、ある午後。
別の部屋でミミと用事をすませて、さあリビングに戻ろうと思っていたら、タタがやってきて言った。
「これからリビングでDVD観るから、立ち入り禁止。」
しばらくぽかんと立ちつくす私。
ひとりで観たい、お年頃なのであろう。でもリビングはみんなの場所であって、しかもこの寒さであって。いきなりひとりじめはないでしょう。―と、いうようなことをタタに言った。
するとタタはこともなげに、私とミミのいた部屋のエアコンを指差し、
「これつけたらいいじゃない」
と言う。

私は、リビングを占領したいなら、いきなり「禁止」なんて言うのじゃなく、この時間だけ、悪いけどお願い! とか言うもんだよ、とも言った。
ところがこれも、タタにはわかりづらい。
タタは、けしてわがままで思いやりのない子ではない。理解力もある。ただ、人の気持ちをおしはかるとか、こういう表現をしたら相手がいやな思いをするだろうと察するとか、そういうことが苦手だ。
 DVDをひとりで観たい→立ち入り禁止にする
 「寒い」と言われた→エアコンをつければいいと言う
ひとつひとつの対応だけみると、タタにとっては正しい。だから、それは違うよと私に言われても、何がいけないのかわからない。
長年苦しんできた睡眠障害や不安症状なんかにくらべて、こういうのはごく日常的な、なにげないことに見える。でも、これもまたタタの、アスペルガー的な特性の表れなんだと思う。

こういう言い方をすると、人はどう受け取るか。相手にわかってもらうために、どんな表現が適切か。―そういうことを、そのときどきにタタには話してきたつもりだけれど、なかなかむずかしい。
頭の回転が速く、勝気なタタは、私の説明を聞くとすぐに「わかった、次から気をつけるから」と言う。で、また別の場面で「わかってなーい!」とこっちが叫びたくなる物言いをする。
自閉圏の子どもには《療育》として、引き出しをたくさん作らせること、とよく言われる。
他人とコミュニケーションをうまく取るために、こんな言葉にはこう対応、こんな場面ではこう行動、そして相手はどう感じるか、などをひとつひとつ覚えこませていく。
自然にそういうものを身につけることがむずかしいから、これは本人を生きやすくする、という方法でもあるだろう。そして、早めにその「引き出し」をいっぱい作らせておけば集団生活に適応できる、ということでもあるのだろう。

ずっと家で育ってきたタタは、そういう技術とは縁のない道を歩いてきた。
でも昔よりずっと人に配慮したり、気持ちを感じたりすることができるようになっている。
技術としてではなく、心のありようとして、タタには少しずつ身につけていってほしい。たとえば大事な人にいやな思いをさせてしまったり、心を傷つけたりしたとき、相手の悲しみを見て「これはよくない表現だった」と気づく、そんな体験を重ねながら、人との接し方をまなんでいってほしいと思う。
頭ごなしの叱責とか、感情的な注意はタタの心に届かず、自分が拒否されたと受け取ってしまうから、たいてい私はぐっとガマンの子で話し合い作戦をとる。
とはいっても人間の器がちいさいので、「なんちゅう思いやりのないことを言うかぁっ!」とボカンと爆発してしまうこともある。大声で言い合いになって双方ドアをバタン! なんてこともある。
そして愚かな母は反省し、こんな気持ちで言ったんだよと手紙を書いて渡したりする。直接のやりとりより、タタのような特性をもった子には書いたものの方が伝わりやすいことが多い。

まあ、長い道のりである。こけながら、止まりながら、ゆっくりいくしかないのであり。
翌日、「今日はヘッドホンして観るからリビングに入っていいよー」とタタ。
おお、少し進歩じゃないか…! って、《入っていい》て何ですのん? リビングというのはねえ…(以下略)。
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by higurashizoshi | 2009-01-12 17:57 | Comments(4)

君の名は?

これ、なんというんだろう? 
と自問したくなること、ときどきある。
あ、こんな気持ち、こんな光景、こんな人のこと、なんかぴたっとくる言葉があるはずなんだけど。―あれ? わからないぞ、知らないぞ。日本語長年使ってきたのになあ…。

昨日、思いがけず外に出て、今年初めて海岸に行った。
澄んだ青空にこまかく繊細な雲がいっぱいに広がり、午後のしずかな海がきらきら輝いていた。
気がつくと西の空の雲に太陽が少し隠れ、その雲間から海に向かって光の筋がいくつもおりてきている。
「きれいやねー」と私が指さすと、タタもミミも「おー」とため息。
で、にわかに思い出した。もうずいぶん前から、何度も思っていたこと。
この、雲間からいく筋もの光が降臨するような景色、というか現象、というのをなんというのだろう?
いいあらわす言葉がきっとあるはずなんだけど、私は知らない。この景色をどこかで見るたびに、はっとするような神秘的な感じに心うごかされて、この美しいものはなんていうんだろう、なんていうんだろうと思ってきたのに、その言葉に出会えずにきたのだなあ。
そんな話を子どもたちにしたら、ミミが「調べてみたら?」と言う。
これまでも、調べようとしたことはあった。でも、ある言葉の意味を調べることはわりとたやすくても、「あるものがどんな言葉でいいあらわされるか」ということを調べるのはけっこう難しい。

海に沿ってゆっくり景色をながめてから家に帰って、ためしにグーグルで検索をかけてみた。「光 筋 雲 間」などの言葉を入れてみると、天文関係のサイトがざざざーっと並んだ中に、気象関係のサイトがいくつかあった。さまざまな雲について写真入りで解説してあるサイト、都会の空の風景をルポしたブログ。いろんなものがある。
そこからあちこちに飛んで、また検索をかけ直して…としていくと、おおっ! 偉大なりインターネット。しばらくのちに、私はあの光景をあらわす言葉にたどりつけた。言葉さがしにもこういう方法があるんだな。

ちなみにそれはこんな光景で、いくつもの呼び名があるらしい。d0153627_17311984.jpg
まず、「光芒」という言葉。ただしこれは、雲間から降りる光の筋のことだけをいう言葉ではなくて、尾をひくような形状の光、たとえば彗星のしっぽなども含む、光の形をいいあらわす言葉らしい。
次は、気象用語として「薄明光線」。これはまさしくこういう雲間からの筋状の光をいいあらわす言葉。ただし、ちょっとありきたりというか、独特の神々しい光景にはあんまりぴったりこない名前だ。
それから、「レンブラント光線」という呼び名もあるという。レンブラントが風景画で好んでこの雲間から降りる光を描いたことから、そう言われるようになったとか。
さて、いかにもロマンティックなのは「天使のはしご」という名前。別名、「ヤコブのはしご」。天使の方はちょっと赤面する感じの名だけど、これはどちらも旧約聖書の記述からとられたものだという。創世記の中でヤコブが見た、天から地上におりたはしごを天使が昇り降りする夢。その挿話が、この自然現象に重ねられて名づけられたらしい。
ヤコブっていうと、英名ジェイコブ。はしごは英語でラダー…むむ、そんな題名を聞いたことがあるぞ? と思い調べてみたら、やっぱりありました、20年近く前のアメリカ映画『ジェイコブズ・ラダー』。ティム・ロビンス主演のサイコスリラーだそうだ。旧約聖書のヤコブの話をもとに作られたストーリーと書いてある。
ところでヤコブといえば、ユダヤ人の祖。創世記の中で彼はこの「はしご」の夢を、自分の子孫が偉大な歴史を作り、繁栄する神からの予言と受け取ったそうだ。ヤコブの別名は、イスラエル。となるとこれはロマンティックどころの話ではない。今、むごたらしい戦場になっている場所のことに心は動いていって、急に複雑な気持ちになる。

やっと探していたものの名を知ることができて、胸はすとんとしたものの、次にあの光景に出会ったとき「あ、○○だ!」とすぐ言えるだろうか?
なんだかどの呼び名もそれぞれに意味はあって、でもジャストミート! という気持ちになるにはどれもちょっと足りなくて。
きっと次の出会いのときは心の中でつぶやくんだろう。「あー、これ、あの、あれね。」と。
うーん何のために調べたのか、私…。
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by higurashizoshi | 2009-01-09 17:42 | 雑感 | Comments(4)

めでたく、どどんと

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大きい…
小さくする方法がわからなかったので大きい…

年賀状を出せなかった方へ、ここでお見せしようと思った牛2頭。
上の力強い赤茶の牛がタタ作、
下のやさしい感じの乳牛がミミ作。
ふたりがひさしぶりに絵具で描いた絵、これが今年のわが家の年賀状。
おひろめでございました。

それにしても、もう少しPCをあやつる技術を学ばにゃ…
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by higurashizoshi | 2009-01-06 17:51 | 雑感 | Comments(8)

籠…

あけまして、おめでとうございます。
昨年のいろいろなことはとりあえずおいて、ページをめくってこちらがわです。
今年もつたない文をぼちぼちと書いていきますので、おつきあいください。



新春バージョンにデザインを替えてみて、はなやかになったのはいいものの、どうもこのデザインだとパソコンによっては文字がみょうにゆがんで(大小でこぼこに)表示されてしまうようだ。
なんだかちょっとへんだし読みづらい。でもいちおうお正月だけはこのままいくことにした。

三が日は、両方の実家へ行く間に近所の神社への初詣をはさんで終わりそう。
今日、その初詣でひいたおみくじは末吉だった。
いわく、

籠の中にありし小鳥のはなされて自由にとび歩くように苦しみを逃れて楽しみ多き身となる運なり

だそうだ。おお…そうなのか、そうなのかと感動していたら、横から読んだタタが、
「おかあさん今年死んじゃうとか?」
新年そうそう、ぬわんじゃそりぁ! と思ったら、
「籠からはなれて自由になるっていうんだからさ」とほがらかに言うタタ。
人生は籠なり…おそるべし13歳のニヒリズム、いやリアリズムか。
もう少し規模のちいさい籠から出るんだってば…
ん? でもなんだか、数年前にもこれとよく似たおみくじの文句を初詣で見たような気がしてきた。
神様、私の籠っていったい何重なんですかね?
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by higurashizoshi | 2009-01-02 18:16 | 雑感 | Comments(6)

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