ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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路上のソリスト

d0153627_225911.jpg~失われた夢 壊れた心
天才路上音楽家と私との日々~

スティーヴ・ロペス著
入江真佐子訳
祥伝社


ロサンゼルスの新聞社に勤める中年のコラムニスト、スティーヴ・ロペスは、いつものネタ探しの街歩きの最中、ある光景に足を止めた。それは彼と同じ年頃のひとりの男が、路上でバイオリンを奏でている姿だった。
ロペスが注目したのは、男の演奏がなかなかのレベルだったからだけではない。男は黒人で、あきらかにホームレスであり、奏でるバイオリンはぼろぼろで弦が2本しかなかった。しかも彼は、かつてジュリアード音楽院で学んだというではないか。
これは自分のコラムのすごいネタになる! 最高のエリート学府で音楽教育を受け、いまやホームレスの路上音楽家――ロペスは好奇心と商売気まんまんで、男に近づいていく。
これが、たぶん終生のつきあいとなる二人の関係の始まりになった。
けれど、ロペスが考えるほど、その道のりは簡単ではなかった。
この男、ナサニエル・アンソニー・エアーズは稀有な才能と高い知性の持ち主であり、多くの挫折を経験して長い路上生活をつづけてきた人間であり、そして統合失調症という精神の病を抱えていたからだ。

ジェイミー・フォックス主演で今年公開された映画『路上のソリスト』の広告を見たときは、いわゆるハートウォーミング・ストーリーなのかなと思っていた。
しかし監督が『つぐない』のジョー・ライト。安手の作品では絶対ないだろう。劇場公開は観られなかったからDVDを待とう…と思っていたとき、図書館の新着本のコーナーにこの原作を見つけた。
気軽に読み始めた私は、たちまち深くひきこまれた。善意のコラムニストと薄幸のホームレスの友情物語、などではまったくない。そこには貧困、人種差別、そして心の病と格闘する困難さが描かれていた。また、芸術家であるとはどういうことなのかという命題があった。
語り手のロペスはナサニエルの魅力にひきつけられ(もちろんコラムのネタにするためでもあり)、彼を路上から屋内へ定住させようと、そして演奏家としての復活をめざすよう、涙ぐましい努力を開始する。けれど、疑念や妄想にしばしば支配されながら長く路上生活を送ってきたナサニエルは、もちろんロペスの思い通りには動かない。
その間にナサニエルはロペスの書くコラムのためにすっかり有名人になり、彼のもとには高価な楽器やコンサートへの招待などが押し寄せる。ロペスはさまざまな場面でナサニエルに付き添いながら、ナサニエルが摩擦を起こさず、常識人としてふるまえるよう願う。
しかしそれは一方で、ナサニエルの統合失調症患者としてのありのままの姿を押し隠すことにもなるのだ。しばしば暴発するナサニエルにロペスは困惑し、家族と過ごす時間も犠牲にしてナサニエルに尽くしては疲れはてる悪循環におちいる。
そもそも、ロペスはたんなるコラムニストであって、ホームレスの現状についても、精神疾患についても素人なのだ。おいしいネタに飛びついたはずだった彼は、ナサニエルに深くかかわっていくにつれ、とんでもなく複雑な問題に巻き込まれていくことに気づく。共感できるのは、ロペスがへとへとになりながらもナサニエルから逃げず、なんとかして道を切り開こうとすることだ。

さまざまな紆余曲折を経ながら、ロペスはロサンジェルス市政のホームレス対策まで動かす原動力になっていくのだが、路上で長く暮らすうちに心身をむしばまれていく人々のなまなましい様子、そしてそうした人たちをサポートするため地道に努力をつづけるケースワーカーやNPOの活動家たちの存在もいきいきと描かれている。
そして、ナサニエルとの出会いとその後のつきあいの歴史の中で、ロペス自身が変化していく。彼は、コラムニストを辞めて、精神疾患のホームレスをサポートするソーシャル・ワーカーになることまで真剣に考えるようになる。賢明な妻の忠告でこれはあきらめることになるが、ロペスはナサニエルを自宅に招き、幼い娘とも対面させる。
けれど、そこまでしても心の病はナサニエルを深くとらえていて、平穏な暮らしと音楽活動に向けた二人三脚は、進んでは後退を繰り返す。読んでいて、ほんとうによくわかる。心を病んだ人が回復するのは並大抵のことではない。どんなにうまくいっているように見えても、必ず揺り戻しがきて、またひっくり返ってしまう。そのときの絶望感はたとえようがない。そしてまたそこから、少しずつ始めていくしかないのだ。

この本の邦訳が出版された今年の春の時点で、ナサニエルはまだ投薬治療もカウンセリングも受けるに至っておらず、何もかもがまだ途上にあることをロペスは記している。
「出会ってから4年目になるいまも、わたしたちはよき友人であり、お互いの人生はからみあっている。そして、いまだに精神疾患という厳しい現実の前に、ほとんど毎日のようにわたしたちの希望は砕かれている」(『日本語版のためのまえがき』より)。
ナサニエルのずば抜けた才能はロペスの仲介で演奏を聴き、指導したプロの音楽家たちが認めている。舞台に立ち、演奏活動をしていくことは、彼のような重い病をもつ人にとっては非常にむずかしいことだ。それでも、ナサニエルは音楽を奏でつづけ、夢を持ち続けているという。

この本を読みながら、もしナサニエルがロペスという人に見いだされることがなかったら、多くの人に知られることもなく、街の片隅で、風変わりな路上の演奏家として生涯を終えることになったのだろう、と思った。そう思ったとたん、私は日本画家の田中一村のことを思い出していた。
一村もまた、天才少年といわれ、芸術の最高学府である東京美術学校(今の東京芸大)で将来を嘱望されたスタートを切りながら、ナサニエルと同様に中途退学せざるを得ず、その後の人生は苦難の連続で画壇からまったく切り離され、貧困のうちに生涯を送った人だ。
彼は亡くなるまでひたすら作品を描き続け、いつか必ず中央画壇に自分の実力を認めさせたいという執念を持っていた。
のちに彼の代表作として知られるようになる奄美大島の自然を描いた作品群は、今は奄美に作られた「田中一村美術館」に展示され、多くの人に高く評価され、愛されている。けれど、一村は生きているうちには一度の個展も開くことはできず、「絵を描いている変わりものの老人」と周囲からみなされていただけだった。彼は自分の作品が、後世で学校の美術教科書に載っているのを見たらなんというだろう。
一村もまた、生活費と画材代を捻出するため肉体労働をつづけて長く心身を酷使したのち、晩年は心を病んでいたらしい。彼は結局誰にも見いだされないうちに亡くなった。

どんなにすぐれた才能を持ち、人の心を感動させる技を持っていても、多くの人に認められる場所までたどりつかなければ、その人は芸術家ではなくただのホームレスや風変わりな老人でしかない。もしそうだとすれば、芸術家であるとはどういうことなのだろう。
ロペスに見いだされる前のナサニエルは芸術家ではなかったのだろうか。ひとり画業と格闘した一村は、彼のように生前認められることのなかったゴッホやモディリアニは? エミリ・ディキンソンは? ――そんなことを際限なく考える。
ナサニエルの現在はロペスの個人HPで知ることができるという。おそらく多くのナサニエルになれなかった人々の集積のなかに彼はいる。そして結局のところ、いちばん大切なのはナサニエル自身が音楽を愛し続け、満ち足りて人生を送ることができるということなのだろう。
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by higurashizoshi | 2009-10-29 22:17 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(4)

キノコふたたび

しばらく前、台風がこのあたりをかすめて激しい雨が続いたあとのこと。
ベランダで洗濯ものを干していると、いっしょにいたミミが叫んだ。
「で、でたァーー!!」
指さすところを見ると…
「げ! 出たァーー!」
ベランダの床板に、あの方たちが。
「生きていたのか…」
思わずひざまづいて感慨にふける私たち。
去年の梅雨どき、びっしりとはびこったこの方々のためにひと騒動あった。全部駆逐して、ペンキもくまなく塗りなおして、もう二度とお会いすることはないと思っていたのに、
「なんというしぶといやつ…」

そういえば去年、このキノコのことをブログに書いたとき、なぜか何人もの人から「写真が見たい~」と熱心に言われたのだった。
あのときは写真を撮るっていう発想(心のゆとりですかな)がなかったし、デジカメもなかった。
今回はせっかくだから撮っておこう! とにわかにはりきって、貴重なお姿を撮影。
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もちろん撮影後はすみやかに取り除いて、さよならさせていただきました。
とはいっても、また出たってことは菌が床板の奥に残っていたということで、表面を取り除いても完全にさよならはできてないということになる。
これはどうすればいいんだろう…
こころなしか、その部分の板は中身がフガフガしてきてるような気がする。危険な香りがする。
「ここ、どうする?」
とミミが聞く。
しばらく考えたあとで私は答えた。
「…なるべくそこを踏まないようにするってことで!」

干し終わった洗濯ものが、秋の空の下で風に揺れているのを眺めながら、それにしても金木犀の花に似た(和菓子の黄身あんにもちょっと似ている)あのキノコは、どこからやってきたんだろうと考えていた。
根本的解決は、ゆっくり考えるとしよう…。
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by higurashizoshi | 2009-10-22 14:36 | 家事というか | Comments(4)

鯛めし!

明石といえば鯛。この前東京から来た友だちと魚ん棚(明石港近くにある鮮魚店が並ぶ通り)を一緒に歩いていると、彼女は「安い!安い!」の連発だった。
すぐそばの港から仲買いなしで魚屋が直接せり落として店に並べるシステムなので、確かに安い。今ならハモ(夏が過ぎてもこのあたりは旬)、太刀魚、サゴシ、タコなど並んでいるが、やっぱり王さまは鯛だ。
王さまだけに、さすがにふだんチョイと買う値段ではない。それでも大きめの活け鯛が3000円くらいだろうか。その明石のおいしい鯛を、格安で味わう方法を発見。
魚ん棚の中ほどにある「松庄」さんで作っている、活け締めの鯛の一夜干しである。d0153627_22523098.jpg
絶妙の塩かげん、干しかげんで、身は桜色に透き通っている。これがたったの500円!
初めて買ったとき、焼いて食べてそのおいしさにびっくりした。私は値段にダマされて、大した期待をしてなかったのだ。身はふっくらトロリ、生で買って調理したのとはまた違う、なんともいえないうまみ。
たぶんこの値段は、一日の終わりに残った鯛(生きたまま水槽で泳がせている)を締め、すぐ開いて干した、いわばおいしいリサイクル品だからなのだろう、と私は勝手に思っている。
すっかり一夜干しファンになった私は、「松庄」さんの前を通るたび《あ、売ってる売ってる…》とチェックするようになった。
で、一昨日もまた通りかかり、よーし今日は買って帰るぞぉというとき、店のお兄さんが「これ、鯛めしにしてもうまいよ」と教えてくれた。「さっと焼いて、昆布と醤油ちょっと入れた米に乗せて炊くんよ」…おおお、聞くだけでなんと旨そうな。

鯛めし、鯛めし。
せっかくだから土鍋で炊くことにした。鯛をグリルで表面だけこんがり焼いて、土鍋に研いだお米と水、ラウス昆布、酒と塩と醤油少々、そして焼けた鯛を乗せてふたをして。
強火にして、噴いてきたら火を弱めて15分くらい。おこげの匂いがふんわりしてきたら火を止め、10分ほど蒸らす。
「鯛めし、できたよー」
タタもミミものぞきこむ中、ドキドキしつつふたを取る。
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ほわぁ~。なんとかぐわしい香り。ごはんもピンと、底のおこげもほどよく、なかなかの出来ばえ!
そのあとは、女3人のうばい合いとなり、2合しか炊かなかったことを後悔したのでした。
安くて絶品、一夜干し鯛めし。これは、しばらくとりこになりそうだ…。
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by higurashizoshi | 2009-10-13 22:59 | 家事というか | Comments(6)

幻影の書

d0153627_2152126.jpgポール・オースター著
柴田元幸訳
新潮社


ポール・オースターは現代アメリカを代表する作家のひとりである。ということは知っていても彼の作品を一度も読んだことがなかった。
オースターは映画にも深くかかわっていて、『スモーク』の脚本を書き、『ルル・オン・ザ・ブリッジ』では脚本だけでなく監督もしている。ということは知っていたが、それらの映画も観たことがなかった。
ひとりの作家に近づくのは意外にむずかしいことだ。私の場合、特に映画にもかかわりがある作家となると、ちょいとつまみ食いするというわけになかなかいかなくなる。つまり作品にしっかり入りこんで次々と読んで、映画も網羅的に観るという《どっぷり型》におちいる。贅沢でたのしいことだが、そのために費やされる時間(場合によってはお金も)が人生に見合っているかどうかと、つい考えてしまう。すごく若いころにはそんなことは考えなかった。

そんなわけで、とても興味はありながらオースターに近づくことがなかった私だが、思わず食指が動いたのがこの作品。映画をテーマにした小説というと『フリッカー、あるいは映画の魔』(セオドア・ローザック著)という、私のこの10年くらいの読書体験の中で1、2位をあらそうくらいの名作があり、これがあまりにおもしろかったので、この『幻影の書』もまた…? と思うと、ついつい手にとってしまった。

映画が好きな人間は何に魅せられているのだろうか。しょせん光と影の合成物、巧妙な作りものなのに、どうして人をこんなにも引きずりこむ魔力をもっているのだろう。
主人公デイヴィッドは突然妻と子を事故でうしない、人生の底で呻吟する男として登場する。彼は生者の世界からはみ出していて、死の世界とのあわいでかろうじて呼吸している。
その彼を救ったのはヘクター・マンという喜劇俳優の映画だった。サイレント最後の時代に主演・監督したドタバタ喜劇で人気を博したヘクター・マンは、ある日忽然と姿を消してしまい、以来長年忘れられた存在だった。
デイヴィッドはふとしたきっかけから、このヘクター・マンの埋もれた作品を発掘して一冊の本を書くことになる。そのことでデイヴィッドはなんとか生きのびる意味を見出していく。ところが、もうとっくに死んだと思っていたヘクター・マンが実は生きており、デイヴィッドの著作を読んで彼に会いたがっていると手紙が来る。しかも驚いたことに、ヘクター・マンは失踪後も映画を作り続けていたというのだ。それは彼の屋敷内でおこなわれ、世間に知られることなく存在しているという。そのうえ、マンはいまや瀕死の床にあって、彼が死ねば遺言によってその映画はすべて焼却されるというのだ…。

読者をぐいぐい引きずりこんでいく物語の展開もさることながら、作中で描写されるヘクター・マンの映画が、目の前に立ち上がってくるような不思議に驚かされる。特に、失踪後のマンが製作した映画のひとつ『マーティン・フロストの内なる生』にいたっては、読者はたんに文章を読んでいるにもかかわらず、まさにその映像を《観て》いる実感にさらされるのだ。これはオースターの力量に加えて、注意深く繊細な訳文(柴田元幸訳)のおかげでもあると思う。(この小説の出版後、オースターは『マーティン・フロストの内なる生』の脚本を正式に書き、自身が監督して映画化したと訳者のあとがきにある。なんて興味深い展開だろう。残念なことに日本では観ることができないそうだ。)

そして、入れ子の構造になって作中で語られるヘクター・マンの人生の真相。そのアクロバット的紆余曲折は、あざとさの一歩手前の妙味とでもいうか、哀しみと狂気が入り混じって思わず笑い出しそうになる。
結局、彼も映画に救われ、映画に身をうずめた人物なわけだが、なぜ《焼却する予定の映画を撮り続ける》という矛盾に彼は残りの人生をついやしたのか―デイヴィッドの破滅寸前の生とそこからの回復に重ねあうように、次第にヘクター・マンという謎の人物、それをとりまく人々の実相が浮かび上がってくる。
なかでも、デイヴィッドをマンのもとへ連れて行く使者となるアルマという女性は、マンの撮影スタッフの娘として育ち、いわばこの《幻影》のプロジェクトの重要な一員である。彼女は顔に大きなあざを持っており、《幻影》の世界と外の世界を行き来しつつ、どこか自分の居場所、生きるよすがを最初から失っているように見える。デイヴィッドの人生に大きな影響を与える彼女の、ほとんど宗教的ともいえる存在感は圧倒的だ。

読後、私はむしょうに映画が観たくなった。それもカタカタと映写機の回る音が聞こえてくるような、白黒のざらついたフィルムの映画を。
しばらくオースターの世界に入っていくかどうかは、決めかねていた。たぶん少し打ちのめされていたのだろう。
死者を感じながら生きていくことは耐えがたいほど哀しく、つらいことではあるが、それでも生きのびていかなければならない。そしてそのことに理由はないのだ、ということを私はぼんやりと考えていた。
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by higurashizoshi | 2009-10-07 22:02 | 観る・読む・書く・聴く | Comments(0)

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