ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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少し自分のことを考えてみる

南相馬行きについて書き終えて以来、キャンプの方が忙しくなってそちらのブログ更新にかかっていたり、あちこち打ち合わせに行ったり、実家はまたそれなりにいろいろあったりと、なかなか書けないままきてしまった。


この前、ひさしぶりに会った親しい友と話していて、
「私、つくづく運が悪いな~と思うよ」
とふと言ったら、
「なんで?ひぐらしはすっごい恵まれてるやん!」
と言われた。
友には私のことばがよっぽど意外だったらしく、私がいかに運に恵まれているか…ということを語って聞かせてくれた。

うーん、そうなんだろうか。あらためて考えてみると、確かに人には恵まれているかもしれない。それだけですでに運がいいといえるのかもしれない。
でも、私はいつも「自分は運が悪いなあ」と思っている。なぜか思っている。要するにネガ根がティブ、じゃなくて根がネガティブなのである。
そして私はけっこう逆に見えるらしい。行動的でポジティブな人間に。社交的で、明るくて、前向きな。
いや、実際の私はいかにすぐヘタレるか、黒雲がむくむく心に広がるか、マイナスビームを内向きに照射し始めるか。

運が悪い、というとスネてるみたいで嫌だけど、要するに良い選択をする力がない、という意味なのだ。
あっちか?こっちか?さあどちらを選ぶ?
という場面で、「あの選択は、正しかった!」とあとで思えたことは人生で数回しかない。
たとえ失敗に終わっても、「あれでよかったんだ」と思えれば、それは「悪くない選択」になり、運が悪いということではなくなるのに、私は
「あそこでああ選ばなければこうなってたのに、こうなってたらああなってて、…」
とけっこういつまでもじびじびと考え続けてしまう。
「だーっ!ええかげんにせいっ!」
と自分に叫んで気持ちを切り替えようとする(こんな性癖のくせして、粘着にモノゴトにこだわるのは嫌い)のだけど、ふと気づくとまた「あそこでああしなければ…」などとループに入ってしまっている。

たとえば、人に裏切られたとする。そういうことは、どんな人生にもある。要はそれをどう受けとめるかだ。
「めぐりあわせが、悪かっただけ☆」と思えるか、「アイツ一生許さねえ」と思うか。
もう絶対に前者の方が体にも心にもいいに決まっている。でも私はそういうふうには、思えない。
かといって「一生許さん」というのでもなく、裏切った側には裏切るだけの事情というか理由というものがあったんだよなあとは思う。すぐには思えなくても、やがて思う。
私はむしろ、「裏切られた、自分」というものについて繰り返し考えてしまうのだ。
「裏切られた自分は、裏切られるような自分だったのかもしれない(ややこしい)」
つまりその人との関係において、自分はそういう裏切られるに足る(?)存在になってしまった、それは自分がその人との関係で何らかの選択を誤ってきたからではないか…。

ああー、こうやって書いてみるとかなりめんどくさい私の思考。
かといって私はいわゆる自己肯定感というものが、特に低いわけではないのだ。「いいとこもいっぱいあるもん、自分!」と思っているし、「こういう領分では、そんじょそこらのヤツには負けん!」という持ち場もある。
でも「私って、運が悪いよなあ…」という根底的な思いは変わらない。そしてそのことが嫌である。でんぐり返りをしてパッと立ち上がり、朝日に向かって歩いていければどんなにいいか。

考えてみれば私の「運が悪い」説は、誰かに比べて、ということではないのが特徴かもしれない。「あの人はいいわよねー」という思いはない。いや、世の中にはこれほどの幸運に恵まれ続ける人があっていいのかしらん、というスゴい人もいるのかもしれないが、それは傍目から見たことであってその人の気持ちなんて誰にもわからんじゃないか、と思う。

つまり私は私独自に「運が悪い」。それって何やねん。つまり、あくまで自分の問題だっていうこと。パカッと開いて、ちょいちょいとネジを足すか引くかしたら、すっきりポジティブ頭になるんだったらいいのに、と夢想する。
そして両手を胸の前で組んで、「私って本当に本当に運がいいわ!」とミュージカル映画のヒロインみたいに叫ぶのだ。心の底から。――ああ、一度でいいからやってみたい!


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by higurashizoshi | 2013-06-24 00:10 | 雑感 | Comments(4)

福島・南相馬への旅 3

《これは、私が2013年5月24日に個人的に南相馬を訪れた記録です。被災された方や、津波・原発事故被害に心を痛められた方の中には、写真や文章によってつらさがよみがえったり、不快に感じたりされる部分があるかもしれません。それでも自分の見聞きしたことを少しでも伝えたくて、記事にしています。ご了承のうえ、どうぞ注意してお読みください。》


浪江町から南相馬市内に戻る。
昨年まで警戒区域だった小高地区へ。

「森のふるさと」のお知り合いの家がこの小高地区にあり、お家に立ち寄ると奥さんがちょうど庭で作業中だった。お話を聞かせてもらう。
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ゆるい坂に集落があるが、このすぐ下の家の裏庭まで津波が来たそうだ。
はるか向こうに見える白っぽい板のようなものは、津波で破壊された大きな橋の一部。
今もそのままになっている。

当時、津波が来るということで、避難所に指定されていた公民館にたくさんの住民が入ろうとした。しかし、ここでは危ないと言い出す人がいて、3、4人入ったところで取って返し、もっと坂の上の方へ全員が移動したという。
その公民館があった場所に案内されると、津波にえぐられて建物の跡形もなかった。
その近辺の家の中にいた十数人は、家ごと流されて亡くなった。まだ見つかっていない人も4人いる。

警戒区域の指定が解除されて、法律上は帰宅できるようになった小高地区だが、昼間は家の整理に戻ってはいるものの、夜も泊まって再び以前のようにここで暮らそうとする人は誰もいないのだという。
たくさんの人がこの集落で亡くなったうえ、長い間警戒区域となって、家の中も外も荒れ放題になった。特にネズミの被害がすさまじいとのこと。
今回の福島行きでは、その後もネズミの話はいろいろなところで聞いた。人間がいなくなった住居は、特に田舎の昔ながらの造りの家の場合、たちまちネズミに占領されるらしい。
そしてそんな中でも、空き巣が横行しているという。ネズミは自然にまかせているだけだが、人間は弱くなったものを狙ってくるのだ。

このあたりは皆、昔から農業を生業にしている家ばかり。それが田んぼも畑も荒れ、また一からやり直そうとしても家に住める状態ではなく、落ち着いて仕事などできない。第一、もう作物をつくっても放射能のせいで売れない。かといって、別の土地に移って農業を続けるめどもない、体力も資金もない。
このあたりの農家はほとんど、もともと子どもに農業を継がせるほどの規模ではなくなっていたので、自分たちがやらなければもう終わりなのだそうだ。

話を聞かせてくださった奥さん自身、もとはこの家で息子一家と三世代同居していたが、震災後は夫婦だけで南相馬市内のもっと線量の低いところにできた仮設に今は住んでいるそうだ。
息子の妻は、幼い孫を被ばくから遠ざけるために北関東の実家に避難。戻る見込みはないという。息子さんは仕事のために別の町でひとり暮らしに。家族はバラバラになってしまった。
「ここらの人はみんな孫といるのが楽しみだったのに、もうみんな離れ離れだよ…」と言われる。

夜にこの集落で、試しに自分の家に泊まってみた人が、真夜中に怪奇現象のようなものを見たという話。
夜中にそこらの道を亡くなった人が歩いているのを見たという話。
そんな話がいっぱいあるんだよ、と笑って言われるが、なつかしいふるさとだったこの集落が、そんな不穏な場所に変わってしまった痛みを思う。
警戒区域が解かれたあとの、お年寄りの自死や突然死も多いという。
あたりまえに暮らしていたところが、死の記憶や絶望感に満ちた、もはや安心して過ごすこともできない場所になってしまったのだ。
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海の方に移動すると、巨大な仮置き場が見えてきた。
津波で流された広大な田畑の上に、この近辺で出たゴミや、がれきが積み上げられている。
さっきの集落で家の片付けのたびに捨てるものも、すべて放射能に汚染されたゴミとして集められ、こうして仮置きされているのだそうだ。

「仮置き場って言ったってねえ。ほかに持ってくところないんだから、そのままそこに置いとくんだろう」とため息まじりに奥さんが言っていた。《仮置き場》という名前を、誰もきっと本当には信じていない。
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かつては防御服に身をつつんでおこなわれていただろう作業も、今では遠目にもごくふつうの作業着姿に見えた。こうした場所で黙々と働く人たちの被ばくの問題はどうなっているのだろう。


さらに小高地区の海に近づく。
このあたりもまた、津波で壊滅したところだそうだ。
ここは浪江町よりも早く警戒区域が解除されたため、さっき見た請戸の海辺と違い、津波のあとの家の残骸や、さまざまながれきはほとんど撤去されている。
それでも、注意してみるとそこは住宅地だったことが、荒れ野の中のあちこちに残るコンクリートの土台でわかる。
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突然、菜の花畑が広がる。
ここにあった家に住んでいた家族は、お父さんひとりを残して全員津波で亡くなったそうだ。
ひとり残されたお父さんが、ここに家があったことをみんなに憶えていてほしいと、ボランティアに頼んで菜の花を植えてもらったという。
そして、ここで亡くなった多くの人のために碑を建てた。

手を合わせても手を合わせても、追いつかない。何もことばが出ない。
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鹿島へと移動。すぐそこに海を見下ろす丘に行く。
案内してくださった森さんの同級生や友人が、たくさん亡くなった場所だそうだ。
丘の上に立つと、かなりの高さで、まさかここまで波が来るなんてまったく想像もつかない。
そのときの波の高さがいったい何十メートルあったのか、ともかくこの丘に避難した人たちの頭を越す高さだったことは確かだ。

避難したのに亡くなった人。避難できなかった人。避難せず、津波の様子を見に行ってしまって亡くなった人。森さんの友人知人にも、さまざまな形で命を落とした人がいるのだという。
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いっぱいの気持ちをかかえて、農家民宿「森のふるさと」に到着。
この日だけでどれだけ多くの重さを受け取ったのか、整理できるまでにはかなりの時間がかかりそうだ。
ご夫婦から心のこもったもてなしを受けて、さらにいろいろなお話を聞く。

「森のふるさと」では、なじみになった都会のお客さんに自家製の米、野菜、干し柿などを直売して毎年喜んでもらっていた。米も食味のよいものを研究して、本当においしいお米を作れるようになってきていた。それが原発事故で全部だめになった。

今の泊り客には、野菜は全部検査したものを出している。お米は震災前のものを貯蔵していたのを炊いている。来年は思い切ってまた米を作ろうかと思うけれど、これまで買ってくれていたお客さんに「また作ったけどどうですか」と声をかけて、断られるのがこわい。

震災直後は、写真を撮りに来る人がたくさんいて、見世物じゃないんだと思ってものすごく嫌だった。今は逆に、風化させないために、来て撮って、話を聞いて、伝えてほしいと思っている。

――奥さんのやわらかい物言いの中にも、震災以来の苦しみが沁みていて、それでもこんなに心豊かな暮らしともてなしを続けておられることにしみじみと気持ちが動かされた。
おいしいお酒をいただきながら、ご夫婦からほかにもたくさんのお話を聞いた。
地元の小学校の若い先生も夕食に寄られて、津波と原発被害でどんどん子どもがいなくなり、統合された学校での話もお聞きした。



一夜開けて、朝。
おいしい野菜たっぷりの朝ごはんをいただきながら、庭をながめる。
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たくさんの樹木でいっぱいの庭の向こうに見える畑。そこまで津波が来たそうだ。



何から何までお世話になった「森のふるさと」のご夫妻。またきっとお会いしましょう。
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津波と原発事故の両方に襲われた南相馬。
生半可な気持ちで訪れてはいけないと思っていた。行こうと決めてからも、本当に行くに足る自分なのかどうか、自信がなかった。

そして、まだたった一度、わずかな時間立ち寄っただけ。
わかったことはほんのわずかだ。
でも、感じたことは絶対に、そこに立たなければ感じられなかったこと。それだけは確かだといえる。
時間にすれば、たった丸一日にも満たない時の中での経験。でもたぶん、一生忘れることはないだろう。



***
長々と書いた、つらいことがらの続く文章を最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
簡単にはつづれなかったことと多忙が重なって、なかなか進まない中、なんとか最後までたどり着きました。
やっと書き終えて、またここから次が始まるという気持ちです。
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by higurashizoshi | 2013-06-16 23:55 | 雑感 | Comments(0)

福島・南相馬への旅 2

《これは、私が2013年5月24日に個人的に南相馬を訪れた記録です。被災された方や、津波・原発事故被害に心を痛められた方の中には、写真や文章によってつらさがよみがえったり、不快に感じたりされる部分があるかもしれません。それでも自分の見聞きしたことを少しでも伝えたくて、記事にしています。ご了承のうえ、どうぞ注意してお読みください。》


南相馬市原町でバスを降り、市内の鹿島で農家民宿「森のふるさと」を経営されている森さんとお会いする。
今夜の宿として予約したら、沿岸部の被災の様子を見に連れて行ってくださるとのことで、この日バス停まで迎えに来られていたのだ。右も左もわからない地で、本当にありがたい。

森さんの自宅兼民宿も、下の畑まで津波が来たとのこと。海から相当離れているので、水が来るなんてまったく考えられなかったそうだ。
南相馬市は津波被害と原発事故による被害の両方を負い、常磐線が機能停止となったこともあって震災直後は陸の孤島となり、物資の流通が途絶えた。
その後市の北部は次第に生活が復旧したものの、南部は放射線量が高く、原発から20km圏内は人の入れない状態が続いた。原発事故さえなければすぐに行われたはずの、津波後の救助活動、遺体捜索もできなかった。

森さんの住む鹿島も沿岸部はすべて津波にやられ、たくさんの友人知人を失われたという。鹿島はすぐに救助に入れたが、それでも混乱につぐ混乱で、当時は事態の全容がまるでつかめなかった。息子さんが消防団員なので、津波後の捜索に参加されたそうだ。多くの悲惨な状態の遺体に接する日々が続き、
「息子は捜索活動のことは『思い出したくない』と言ってます。思い出すと夜も寝られなかったようで」と森さんは言われた。


車はまず、南相馬市の南に隣接する浪江町に向かった。
浪江町の一部はこの春、警戒区域から避難指示解除準備区域に再編され、立ち入りが可能になったそうだ。
すでに20km圏内に入り、福島第一原発に近づいていく道。
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浪江町「希望の牧場ふくしま」。
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ここは家畜の殺処分に反対した牧場主が、牛たちを生かし続ける道を模索して、300頭以上の被ばくした牛たちを育てている牧場だという。
もともと食肉用の牛なので、もちろん出荷はできず、牧場側に収入はない。寄付やボランティアを呼びかけ、この現実を知った人と連帯しようという、ひとつの運動体であるようだ。
(『希望の牧場ふくしま』についてくわしくはこちらを)
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餌は十分足りてはいないようで、一部の牛たちはあばらが見えるほどやせている。
それでも殺処分されず、こうして青空のもと、広い場所で生きていける。
殺されるはずの食牛として生まれ、思いがけない経緯をたどって、殺されることなく生き続ける牛たち。黙々と餌を食む牛たちを見ていると、人間の傲慢さや罪深さが、ねじれながらあぶりだされてくる。

牧場での空間線量。これでも、「ふつうはもっと高いけどなあ」と森さん。
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車は浪江町の沿岸部、請戸に向かった。
途中、検問所があり係員に止められる。フリーパスでは入れないらしい。
「兵庫県から津波の被害を見に来られたお客さんです」と森さんが説明してくれると、車のナンバーを控えられ、必ず5時までに検問所を通過して出てくださいと言われる。
「この先は、前は入れなかったですよ」と森さん。ご自身も請戸の海辺まで行くのは、震災後初めてだという。

津波に襲われなかった地域も、ところどころ建物が地震でつぶれたままになっている。警戒区域で出入りができなかったため、手をつけられずにきたのだろう。
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だんだん海に近づいていく。
海のそばの防風林が、津波をかぶって塩にやられ、茶色く変色しているのが遠く見える。
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このあたりは一面田んぼだったそうだ。今はただ荒地になっている。
トラクターなど農機具がぐしゃぐしゃにつぶれ、まだいくつも転がったままになっている。
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漁港としてにぎわっていたという請戸港。港のそばの住宅地や商業施設。すべて流されたという。被災前の様子をよく知る森さんは、運転しながら「風景が変わり過ぎて気持ち悪い」とつぶやく。
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港だった場所に着いた。
漁業関係の建物だったのだろう、ぽつりと立っている。内部はめちゃめちゃに破壊されている。
誰もいない、何の音もしない。海も静かだ。
壊れたこの建物のどこかにヒヨドリが巣を作っていて、澄んだ声で鳴いているのだけが聞こえる。
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海辺の木々は塩をかぶり、立ち枯れている。まるで、別の世界に来たような光景だ。
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港の防波堤。一部は完全になくなっている。
この静かな海が、と信じられない気がする。
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水の力のすさまじさを思う。防波堤の上部がえぐられている。
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海沿いの道を進み、住宅地が広がっていた場所に向かう。
大切な暮らしを支えていたものたちが、がれきと呼ばれる塊になって、まだ累々と広がっている。
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この上まで津波が来たのだろうか。折れ曲がって立ちつくす電柱の前に、言葉もなく立ちつくす。
阪神淡路の震災後の光景を思い出す。
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住宅地だった場所に入っていくと、もう写真が撮れなくなった。
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コンクリートの、家の土台だけがどこまでも連なる。
かろうじて残っていると見えた家も、たどりつくと中はすべてえぐれて、がらんどうになっている。

広大な荒れ野に見えるこの場所に町があった。そしてあの日、消滅した。
どれだけの人が流されたのだろう、どれだけの暮らしが流されたのだろう、と考えると哀しみや恐怖を通り越して、心が真空状態になる。
自分がここに立っていていいのかわからない。ずっと手を合わせながら、祈りながら歩く。



ふたたび車に乗り、これ以上南下できない、行き止まりまで来た。
福島第一原発まで、7、8kmくらいだろうか。
引き返し、南相馬市の小高地区を目指すことにした。
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by higurashizoshi | 2013-06-09 22:08 | 雑感 | Comments(0)

福島・南相馬への旅 1

一昨年の大震災以前、私は福島のことを何も知らなかった。地理オンチにもほどがある私は、福島県がどこにあるかさえ、正確には知らなかった。

 「中通り」「浜通り」って何? 
 福島の、そんなところに原発があったの?

その私が、震災を境に何人もの福島の子どもたち、大人たちと知り合い、親しくなり、そして今、ひとりで福島を旅している。人生は不思議だ。



早朝の東海道新幹線で西明石から東京へ。東北新幹線に乗り換え、やがて車窓から安達太良山をのぞむ。高村智恵子が、東京にはない「ほんとの空」があると言った山。
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朝に明石を出たのに、福島駅に降りたのは、まだ午前11時前。おそるべし新幹線。
朝から何も食べてないので、駅ビルの中でおにぎりを買う。駅前の小さな公園のベンチで食べる。
ふと見ると目の前にモニタリングポスト。思わずおにぎり片手に立って行って数値を見る。0.2マイクロシーベルト。


南相馬行きのバスに乗る。福島市や郡山市など中通りへは何度か行っているが、初めて浜通り(福島県沿岸地域)へ行くのだ。
バスはけっこう人が乗っている。地元の人よりも、東京あたりから調査に来た大学関係者などが多いようだ。


外は快晴。郊外に入ると、新緑が美しい。
川俣町に入る。田んぼに水が張られて、きれいに苗が植えられている。
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「持って行って、実際に測って体感したほうがいい」と言われ、友人から借りた線量計。
そこに住む人にとって大事なふるさとを、外から来た人間がこんなふうに計器で勝手に測るのは、申しわけない、後ろめたい気持ちがある。
でも、目に見えない、匂いもない放射線のありかを知る方法はこれしかない。
川俣町のなかほどでバスが停車したとき、降りて測ってみた。悪いことをするようで、こっそりと線量計を出す。
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川俣町は福島市の南東に隣接する。一部が計画的避難地域に指定されていて、震災後は大混乱におちいったはずの町。バスの車窓から見た限りでは一見ごく普通に人々の生活が営まれているように見える。ただ、途中あちこちの山道に「ただいま除染を行っています」の看板を見た。
空間線量は0.5マイクロシーベルトだったが、草の上に置いたとたん線量計の数値はぐんぐん上がって行った。
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再びバスに乗り込む。通行できない道路にぶつかる。「原子力災害現地対策本部」の文字。
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しばらく行くと川俣町が終わり、飯舘村に入った。
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飯舘村で酪農を営んでいた長谷川健一さんのお話を、神戸でうかがったのは去年。
原発事故後、ひたすら翻弄されつづけた飯舘村の現実。手塩にかけた牛を、田畑を手放し、生涯をかけた仕事をうしない、村じゅうの人々が強制避難させられ、家族はバラバラになった。長谷川さんは、《原発さえなければ》と書き残して自死した、友人だった相馬市の酪農家のことにも触れて、この理不尽を、怒りを抑えるように訥々と語られた。

今、全村避難の飯舘村にはぽつぽつと人が入っているという。もちろん住民が生活しているわけではなく、除染作業や土木工事、役場関係の業務など。また、置き去りにせざるを得なかった動物たちに餌をやりに入っている人もいるようだ。

確かに、本当に時折、車が停まっていたり、人影がいくつか建物の中に見えたりした。
けれどそれ以外は、飯舘村はただただ、静かだった。そして田畑が、ビニールハウスが、家屋が、庭園が、荒れ、人の手を離れ、野性に戻っていこうとしていた。
長い長い歳月をかけて、人が耕し、工夫を重ねて作物を育て暮らしてきた土地は、原野に変わりつつあった。
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新緑の飯舘村は、美しかった。
「までい」(ていねいに、心をこめて)を合言葉に、世界で一番美しい村を目指して、ここで営まれていたたくさんの人々の暮らし。それらは、東京に送る電気を作るための原発によって、根こそぎうしなわれた。

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バスの中でも線量計の数値は高い。
いまだ原発の有用性を説く人は、ここに来てこの曠野の中に立つべきだ。
これほどの事故が起き、収束どころか危機は続き、16万人以上がふるさとに帰れない中、「世界一安全な原子力発電の技術を提供できる」と胸を張って原発の輸出を推進する首相のいる国。それが私たちの国だ。


バスが飯舘村を出て、南相馬市に入ったとたん、風景の色が一変した。車窓が、人の、暮らしの匂いに包まれている。ほっとしながら、胸が痛んだ。
この境界線は単なる行政区分にすぎない。放射線量でいえば、この境界はほとんど意味をなさない。グラデーションで広がる汚染の中にこの地域すべてがある。いや、この地域だけでなく、日本全体がある。
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by higurashizoshi | 2013-06-06 01:45 | 雑感 | Comments(0)

旅から帰って

福島、東京と続けて二つの旅があり、昨日の夜遅くに帰ってきたところ。
今朝はミミが高校の球技大会ということで、早朝起きてお弁当を作り(ずっと留守番で家事をまかせていた罪ほろぼし)送り出したあと、さすがに布団に戻りネコたちと一緒にしばらく倒れておりました。

福島へ行く第一の目的だった、関西の保養キャンプ関係者と福島の親子との交流会。
その記録を前半までまとめたところで(内容はこちらをご覧ください)東京に行くことになったので、今日一日だけ家にいる間に後半をまとめなければ…と思っていたら、タタが私のなぐり書きのメモを入力してあげると申し出てくれた! さすがに疲れ切った母を見かねたのでありましょう。やさしい娘よ…

二つの旅の間に、今夏のキャンプの準備もぐんぐん切迫してきて、実家の方もまたまた問題山積で、でも東京行きの間には友人と会ったりアントニオ・ロペス展に行ったり古本屋をめぐったりと、しっかり栄養補給もしてきた。
いよいよこれからは再び腰をすえて、老親と、福島の子どもたちのキャンプと、日常のもろもろをミックスした長い夏に突入していくのだ。
フィギュアの記事が書きたい中途のままになっていることが気になるし、そろそろ入ってくる来季新プログラム情報やアイスショー情報もチェックしつつ、それでもシーズンオフだから頭もやっと切り替えられているんだよなあと思う。

今回の福島行きでは、交流会に行く前にひとりで南相馬を訪れた。
そのときのことをどうしても書いておきたいと思う。
数日中になんとか書きたいと思っています。

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by higurashizoshi | 2013-06-02 16:05 | 雑感 | Comments(0)

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