ひぐらしだより
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モヤモヤぐるぐる
またまたご無沙汰している間に何があったかというと、父に続いて今度は母が救急搬送、入院という事件が起きていたのです。
夜遅くに父から電話があり、母の足が立たない、ろれつも回らないとのSOS。救急車を呼び、えらく遠くの病院に搬送され、脳の検査をしつつ3日間の入院。心配した脳梗塞などは見つからず、原因不明のまま退院。で、退院後はまたも私が実家に泊まりこんで、母が自力で夜中のトイレに立てるのかの見守り、などなど。
この期間は、タタと一緒に東京に行く予定で、何人もの友人知人に会う約束もしていたのだけど全キャンセル。とりあえず母が本当の急変でなかったことは、父に引き続き本当によかったけれど、この《いつでも実家に飛んでいって泊まりもありスタンバイ状態》が続く限り、今後遠方に出かけることは不可能ではないか?と気づく私。
来月にも再来月にも東京に行く予定なのに、どうしたらいいのだ。
私が泊りがけでどこかに出かけるときは、法外な料金を払って民間の夜間ヘルパーさんを雇う?
もしくは母をその間は施設にショートステイさせる?
一方では母の入れるホームを探しつつ、しかしまだ家で暮らせる…そうさせてあげたいという気持ちも強い。
たとえば私が実家に住み込んでサポートすれば、確実に母はもうしばらくは家で暮らせるだろう。それもわかっている。
でもそれは、私が自分の家を今以上になおざりにし、まだまだ思春期の娘たちとの時間を、これ以上さらに削るということにほかならない。
私は私の人生でやりたいことが山ほどある。
家族のために自分の人生をある程度費やすことは当然としても、私の人生の限られた時間を丸ごと差し出すことはできない。
もちろん、老いた親と同居している場合、生活のほぼ全部を親のために使っている人もあるだろう。認知症の親を家で介護している人のブログなどを読むことがあるけれど、それこそゆっくり寝る間もなく排泄を含めた世話に追われ、デイサービスに預けた間に自分の仕事や家事を片づけ、自由時間など夢のまた夢、それこそ「24時間戦えますか」の世界。
そして、昔の日本では老親を抱えた人(特に女性)にとっては、それが当たり前だったわけだ。デイサービスだのショートステイだの、なんていうものすらなく!
私がそういう介護の仕方を選ばない以上、自分の人生の時間を大事にしたいと考える以上、あるところまでがんばったら見切りをつけて、他人の手に親をゆだねるべきなのだ。
「もう、そういうところまで来ているんじゃないですか?」と私に言う人もいる。そして、そう言われるとまた心が揺れる。割り切ることはできない。合理的じゃないのだ。
で、当の本人はどうかというと、母には自分が病気だという自覚はないから「家から施設に移る」という選択肢は母の中に存在しない。
百歩ゆずって「そうね、施設に行って楽に暮らすのもいいわね」と、あるとき言ったとして、数分後にはそう言ったこと自体を忘れてしまう。ふたたび母にとっては「家にいるのが当然」になる。だから「家から施設へ」という考えが母の中で定着することは、たぶんない。
というわけで、もし母をグループホームなどに入れるとしたら、それはほぼ「だまして」「連れ去る」ことになる。表現は悪いが、そういうことだ。それをやるのは家族で、時期を決めるのも、施設を決めるのも家族。
自宅で暮らす一個人を、何のことわりもなく見知らぬ場所へ移住させて閉じ込める。記憶が欠落していく認知症患者を施設に入れるとは、そういうことなのだ。本人にとっては、ありえない人権蹂躙。それを、パッキリと割り切って「ハイ」とできるわけがない。
だから、そんな「罪」をおかしてでも、その先に老親の安全と平穏があるのなら、罪に甘んじようと家族は思う。
ホーム探しをしながら、私も注意深くそれぞれの施設を観察する。この先ありうるさまざまなケースを考えて職員の話を聞く。それでも、実際そこに入ってからのことは結局予測はつかない。
親の問題に関しては「ベストはないからベターを探す」という言葉を友人が教えてくれたけれど、そうでしかないんだなあとつくづく思う。しかし始末の悪いことに、以前書いたように常に悲観的な性格の私は、母を施設に入れたあとの未来予想図がなかなか明るく描けない。ええかげんにしなさいと自分に言いたい。
自由がほしいとか言ってるくせに、施設に入れるのを恐れているという矛盾。その二極の間のいろんな段階をぐるぐる行き来しているのが今の私だ。なんだかとってもモヤモヤしている。しばらく、ぐるぐるモヤモヤしながら進んでいくのだろう。
こんなモヤった楽しくない話を読んでいただいたみなさんに、おわびとして今回はうちの子じゃない近所の子を。
(次回は、ついに出たスピッツのニューアルバムのこととか、フィギュアのこととか、創造的な話を書きたいです。ううう)
ご近所のマンションの地域ネコ三代目、今4か月くらいかな。
ネコが箱座りする季節になりました。
秋だにゃ。
夜遅くに父から電話があり、母の足が立たない、ろれつも回らないとのSOS。救急車を呼び、えらく遠くの病院に搬送され、脳の検査をしつつ3日間の入院。心配した脳梗塞などは見つからず、原因不明のまま退院。で、退院後はまたも私が実家に泊まりこんで、母が自力で夜中のトイレに立てるのかの見守り、などなど。
この期間は、タタと一緒に東京に行く予定で、何人もの友人知人に会う約束もしていたのだけど全キャンセル。とりあえず母が本当の急変でなかったことは、父に引き続き本当によかったけれど、この《いつでも実家に飛んでいって泊まりもありスタンバイ状態》が続く限り、今後遠方に出かけることは不可能ではないか?と気づく私。
来月にも再来月にも東京に行く予定なのに、どうしたらいいのだ。
私が泊りがけでどこかに出かけるときは、法外な料金を払って民間の夜間ヘルパーさんを雇う?
もしくは母をその間は施設にショートステイさせる?
一方では母の入れるホームを探しつつ、しかしまだ家で暮らせる…そうさせてあげたいという気持ちも強い。
たとえば私が実家に住み込んでサポートすれば、確実に母はもうしばらくは家で暮らせるだろう。それもわかっている。
でもそれは、私が自分の家を今以上になおざりにし、まだまだ思春期の娘たちとの時間を、これ以上さらに削るということにほかならない。
私は私の人生でやりたいことが山ほどある。
家族のために自分の人生をある程度費やすことは当然としても、私の人生の限られた時間を丸ごと差し出すことはできない。
もちろん、老いた親と同居している場合、生活のほぼ全部を親のために使っている人もあるだろう。認知症の親を家で介護している人のブログなどを読むことがあるけれど、それこそゆっくり寝る間もなく排泄を含めた世話に追われ、デイサービスに預けた間に自分の仕事や家事を片づけ、自由時間など夢のまた夢、それこそ「24時間戦えますか」の世界。
そして、昔の日本では老親を抱えた人(特に女性)にとっては、それが当たり前だったわけだ。デイサービスだのショートステイだの、なんていうものすらなく!
私がそういう介護の仕方を選ばない以上、自分の人生の時間を大事にしたいと考える以上、あるところまでがんばったら見切りをつけて、他人の手に親をゆだねるべきなのだ。
「もう、そういうところまで来ているんじゃないですか?」と私に言う人もいる。そして、そう言われるとまた心が揺れる。割り切ることはできない。合理的じゃないのだ。
で、当の本人はどうかというと、母には自分が病気だという自覚はないから「家から施設に移る」という選択肢は母の中に存在しない。
百歩ゆずって「そうね、施設に行って楽に暮らすのもいいわね」と、あるとき言ったとして、数分後にはそう言ったこと自体を忘れてしまう。ふたたび母にとっては「家にいるのが当然」になる。だから「家から施設へ」という考えが母の中で定着することは、たぶんない。
というわけで、もし母をグループホームなどに入れるとしたら、それはほぼ「だまして」「連れ去る」ことになる。表現は悪いが、そういうことだ。それをやるのは家族で、時期を決めるのも、施設を決めるのも家族。
自宅で暮らす一個人を、何のことわりもなく見知らぬ場所へ移住させて閉じ込める。記憶が欠落していく認知症患者を施設に入れるとは、そういうことなのだ。本人にとっては、ありえない人権蹂躙。それを、パッキリと割り切って「ハイ」とできるわけがない。
だから、そんな「罪」をおかしてでも、その先に老親の安全と平穏があるのなら、罪に甘んじようと家族は思う。
ホーム探しをしながら、私も注意深くそれぞれの施設を観察する。この先ありうるさまざまなケースを考えて職員の話を聞く。それでも、実際そこに入ってからのことは結局予測はつかない。
親の問題に関しては「ベストはないからベターを探す」という言葉を友人が教えてくれたけれど、そうでしかないんだなあとつくづく思う。しかし始末の悪いことに、以前書いたように常に悲観的な性格の私は、母を施設に入れたあとの未来予想図がなかなか明るく描けない。ええかげんにしなさいと自分に言いたい。
自由がほしいとか言ってるくせに、施設に入れるのを恐れているという矛盾。その二極の間のいろんな段階をぐるぐる行き来しているのが今の私だ。なんだかとってもモヤモヤしている。しばらく、ぐるぐるモヤモヤしながら進んでいくのだろう。
こんなモヤった楽しくない話を読んでいただいたみなさんに、おわびとして今回はうちの子じゃない近所の子を。
(次回は、ついに出たスピッツのニューアルバムのこととか、フィギュアのこととか、創造的な話を書きたいです。ううう)
ご近所のマンションの地域ネコ三代目、今4か月くらいかな。
ネコが箱座りする季節になりました。
秋だにゃ。
by higurashizoshi
| 2013-09-18 22:19
| 雑感