ひぐらしだより
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もういない、ということ
ちょうど一年前の9月11日未明、10年間家族として暮らした愛猫ちゃーは、私たちの目の前で命を終えた。
坂道を転がるように悪化する病状を必死で追いかけた日々の果てに、ちゃーがこの世で最後の息を吐き終えた瞬間を、そしてそのあとの家族全員の嘆きかなしみを、私はあまりのつらさから思い出さないようにしてきた。
考えれば私は、この歳にして初めて、命が終わるときをつぶさに見たのだった。
一昨年の父との別れは、対面したときすでに父は命つきていたし、そのほか多くの別れを思い起こしても、その瞬間に立ち会ったことはなかった。
かけがえのない命が目の前で終わる、それは絶対的な断絶の瞬間だった。
ついさっきまで、苦しみ衰えても息をし、あたたかく、私たちになじんでいた存在が、その瞬間に完全な静寂になり、不在となる。愛するものの身体から命がなくなるそのときに起きることは、何をどうやっても決して取り戻すことのできない断絶だ。
あれから一年がたつのに、私はいまだにこの断絶を素直にうけいれることができない。ほんとうは、命をこの世に受けた瞬間から、誰しもその命は終わることは決まっていて、それがいつ来るかがわからないだけなのに、ただそのときが来たというだけなのに―そう考えても考えても、身体がしびれるほどにつらい。
もう一匹の愛猫、くー。この一年の、くーの変わりようには、遺された家族は私たち人間だけじゃない、むしろこの子の方がずっと喪失を抱いているのだと、思い知らされた。
いつも甘えて甘えて一緒に寝ていた兄貴分のちゃーがいなくなって、くーの様子は目に見えて変わった。一日中大声で鳴いては、私たちを探す。そばにすり寄っては、いつまでもいつまでも、私たちの手や顔をなめ続ける。前は人間に対してほとんど要求をしてこなかった子なのに、極端なさびしがりやの甘えんぼうになった。
ちゃーが私にくれた変化、それは今いるくーを瞬間瞬間、せいいっぱい愛そうと思うようになったことだ。留守番させなければならないときは、すぐ察知して玄関でさびしそうな顔をするくーに切なくなる。
一年の時の流れの中で、暮らしの中にちゃーがいないこと自体には、少しずつ慣れた。
けれどそんな中でも、ふとしたときに落とし穴に足をとられるように、《ちゃーがいない》と心がうめきはじめる。もういない、ということの大きさ深さを、どうすれば自分の中で平らにしていけるのだろう。
ずっとそのまま置いている、ちゃーのごはん皿や好きだったフード、最後の日々に使った流動食の容器など、一年を機に片付けたほうがいいのか、ここ数日ずっと考えている。つらいなら無理をしないほうがいいという気持ちと、区切りをつけたほうがいいという気持ちと。
多くの人が「ちゃーはそばにいて見守ってるよ」と言ってくれる。確かにお骨はずっとリビングに置いてある。写真も飾っている。でも私には、ちゃーがそばにいてくれている実感はない。せめて、ちゃーと過ごした日々を幸福な気持ちとともにを思い出す心境になれたらなあと思う。今日を機にちょっと踏み出せたらいいのだけど。
くしくも、今日は東日本大震災から6年半。
アメリカ同時多発テロから16年。
多くの人が、多くの死を悼み、命を思う日だ。
元気だったちゃーと、くー。
どんなにしあわせな時間だったか、今はわかる。