ひぐらしだより
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ドッグマン
5か月半のごぶさた。
ほんとうに久々に映画のレビューを書いたので、アップすることにしました。
すごい映画を観た。
イタリアのマッテオ・ガローネ監督『ドッグマン』。
さびれた片田舎の町で犬の美容店を経営するマルチェロは、離れて暮らす幼い娘と会うのがなによりの幸せ。大好きな犬を扱う仕事と、近隣の仲間とのつながりがあれば満ち足りる、いかにもつつましい男だ。
そんな彼にとって、暴力的で無茶な要求ばかりしてくる町の嫌われ者シモーネとの縁が切れないのが、唯一の不安材料だった。
小柄で貧弱な体つき、おどおどした表情、いかにも権力を持つものに利用されそうな風貌のマルチェロ。対して、シモーネは巨漢で怪力、自制心も倫理観も皆無な暴君だ。
気弱なマルチェロはシモーネの要求にいつも屈し、じりじりと立場を悪くしていく。やがて決定的な犯罪の片棒を担がされることになり、マルチェロの人生は暗転する。その顛末を、映画はひたすらに、マルチェロの表情を執拗に追いながら描く。
そもそもこの町が、異様にさびれすぎている。とうてい人が暮らして経済が回っているとは思えないほどの、すさまじいさびれっぷり。ここからすでに、この物語はリアルというより寓話に近いのだということが提示される。
マルチェロの周囲の仲間たちも、平和にサッカーに興じたりしつつ、みな相当ひと癖ある男たち。その筋に頼めば、町の困り者のシモーネを殺してもらえるぜ、どうするよ、などという相談を平気でする。結論は「そこまでしなくても、いずれあいつは誰かが殺す」。闇が深い。
結局、誰も手を汚したくはないのだ。そんな強面の男たちの相談の中で、マルチェロだけは戸惑ったようなあいまいな表情を浮かべている。
彼が何を考えているのか、なぜシモーネに徹底的に支配されてしまうのか、そもそもシモーネのことをどう思っているのか、見ている私たちには容易にはわからない。私たちはマルチェロを痛々しく思い、同時になんと情けないヤツかと憤る。自分だったら、こんな惨めなことにはならないと。自分だったら…?
果たしてそうか。
シモーネの窃盗仲間が殺しかけたチワワを、マルチェロは命がけで助けに行く。
一方、ピストルでシモーネが撃たれれば、母親のもとに運んで治療すらしてやる。
その行動は、やさしさなのか、愚かさなのか。
悪魔のようなシモーネの前に、無力な子羊のようなマルチェロ。彼はしかし、目の前で苦しんでいる命があれば、無条件で救おうとする人間でもある。と同時に、麻薬の販売にも手を染めて小金を稼ぐ、小ずるい一面もある。そして、幼い娘とともにいるときは、ただただ愛に満ちている父親でもある。
(以降は、映画鑑賞後に読むことを勧めます)
私は、映画を追いながらずっとマルチェロのことを、「この人は、何なんだろう」と思っていた。
無力で、無垢で、狡くて、汚くて、弱くて。
それなのに、マルチェロから目が離せない。
マルチェロがほしかったもの。
最愛の娘との時間。それに必要な金。
仲間とのつながり。犬とのつながり。平穏が続くこと。
それは、私たち誰もがほしいもの、必要なものだ。
それがおびやかされたとき、それらを守るためなら、私たちは多少の犠牲は払える。大きな犠牲だって、きっと。
マルチェロは、それをやっただけ。そのやり方がどんなに愚かで、間違っていたとしても。
マルチェロは、シモーネを殺したくなんかなかった。
自分がシモーネの犬にされていたから、自分が人間になり、シモーネを犬にしてみたかったのだ。
そして、ただ、謝らせて、許してやって、元に戻りたかった。
友だちに。仲間に。
友だち、仲間、安心。
その幻想を追って周囲に合わせ続けた結果、マルチェロは《友だち》すべてに捨てられ否定された。最後はシモーネしかいなかったのだ。生身でかかわりあう相手は。
しかもその相手を殺してしまったマルチェロは、今度は《ついに俺が町の困りものシモーネを始末してやったぞ!》と、かつての仲間へアピールできることに気づいて、捧げものよろしくシモーネの死体を担いで、仲間に見せにいくのだ。
この鬼気迫るシーンのなんと惨めで、なんと哀しいことだろう。
重く大きなシモーネの死体をかついで、町の広場へとよろめき歩くマルチェロ。
その歩みがふと三拍子に聞こえて、まるで十字架をかついでゴルゴダの丘を歩くイエスのようだと思った。
愚かなマルチェロ。罪深いマルチェロ。でもその罪は、彼だけのものなのだろうか。
広場にたどりついても、もちろん、もう仲間などいない。友だちもいない。
幻想が消え、狂騒ののち残ったのは、人殺しになった自分だ。
もうマルチェロには、それをつぐなうすべはない。
ラザロのごとく蘇らせたあのチワワのように、あがなえるものは今は何も残されていない。
それを理解したマルチェロの、茫然としたまなざし。
その表情を見ながらふいに理解した。
マルチェロは誰でもない。
主体性がなく、流されるままここにたどりついた彼は、無なのだ。
そして、マルチェロは誰でもある。
平凡で、守りたいあたりまえを、守ろうとしただけの、愚かで、弱くて、哀しい人間。
マルチェロは、私たちなのだ、と思った。
強大な権力や暴力の前にさらされたとき、彼のようにふるまわないと誰が言い切れるだろう。
支配と服従。
それは人対人の関係だけでなく、国同士や、民族同士の関係にも当てはめうる。
シモーネという強大な国に、押しつぶされそうになった弱小国。そんな空想も、映画を観ながら私の中に立ちのぼった。
残酷な寓話が完結したとき、不思議に私は苦しさや哀しさよりも、この世界の大きな仕組みを俯瞰したような静かな高揚をおぼえていた。
ラストで長く長くカメラがとらえたマルチェロの、あの虚無の深い穴へとすべりゆくような、それでいて不思議に無垢な表情とともに、この感覚は長く自分の中に根をおろすだろう。
ほんとうに久々に映画のレビューを書いたので、アップすることにしました。
すごい映画を観た。
イタリアのマッテオ・ガローネ監督『ドッグマン』。
さびれた片田舎の町で犬の美容店を経営するマルチェロは、離れて暮らす幼い娘と会うのがなによりの幸せ。大好きな犬を扱う仕事と、近隣の仲間とのつながりがあれば満ち足りる、いかにもつつましい男だ。
そんな彼にとって、暴力的で無茶な要求ばかりしてくる町の嫌われ者シモーネとの縁が切れないのが、唯一の不安材料だった。
小柄で貧弱な体つき、おどおどした表情、いかにも権力を持つものに利用されそうな風貌のマルチェロ。対して、シモーネは巨漢で怪力、自制心も倫理観も皆無な暴君だ。
気弱なマルチェロはシモーネの要求にいつも屈し、じりじりと立場を悪くしていく。やがて決定的な犯罪の片棒を担がされることになり、マルチェロの人生は暗転する。その顛末を、映画はひたすらに、マルチェロの表情を執拗に追いながら描く。
そもそもこの町が、異様にさびれすぎている。とうてい人が暮らして経済が回っているとは思えないほどの、すさまじいさびれっぷり。ここからすでに、この物語はリアルというより寓話に近いのだということが提示される。
マルチェロの周囲の仲間たちも、平和にサッカーに興じたりしつつ、みな相当ひと癖ある男たち。その筋に頼めば、町の困り者のシモーネを殺してもらえるぜ、どうするよ、などという相談を平気でする。結論は「そこまでしなくても、いずれあいつは誰かが殺す」。闇が深い。
結局、誰も手を汚したくはないのだ。そんな強面の男たちの相談の中で、マルチェロだけは戸惑ったようなあいまいな表情を浮かべている。
彼が何を考えているのか、なぜシモーネに徹底的に支配されてしまうのか、そもそもシモーネのことをどう思っているのか、見ている私たちには容易にはわからない。私たちはマルチェロを痛々しく思い、同時になんと情けないヤツかと憤る。自分だったら、こんな惨めなことにはならないと。自分だったら…?
果たしてそうか。
シモーネの窃盗仲間が殺しかけたチワワを、マルチェロは命がけで助けに行く。
一方、ピストルでシモーネが撃たれれば、母親のもとに運んで治療すらしてやる。
その行動は、やさしさなのか、愚かさなのか。
悪魔のようなシモーネの前に、無力な子羊のようなマルチェロ。彼はしかし、目の前で苦しんでいる命があれば、無条件で救おうとする人間でもある。と同時に、麻薬の販売にも手を染めて小金を稼ぐ、小ずるい一面もある。そして、幼い娘とともにいるときは、ただただ愛に満ちている父親でもある。
(以降は、映画鑑賞後に読むことを勧めます)
私は、映画を追いながらずっとマルチェロのことを、「この人は、何なんだろう」と思っていた。
無力で、無垢で、狡くて、汚くて、弱くて。
それなのに、マルチェロから目が離せない。
マルチェロがほしかったもの。
最愛の娘との時間。それに必要な金。
仲間とのつながり。犬とのつながり。平穏が続くこと。
それは、私たち誰もがほしいもの、必要なものだ。
それがおびやかされたとき、それらを守るためなら、私たちは多少の犠牲は払える。大きな犠牲だって、きっと。
マルチェロは、それをやっただけ。そのやり方がどんなに愚かで、間違っていたとしても。
マルチェロは、シモーネを殺したくなんかなかった。
自分がシモーネの犬にされていたから、自分が人間になり、シモーネを犬にしてみたかったのだ。
そして、ただ、謝らせて、許してやって、元に戻りたかった。
友だちに。仲間に。
友だち、仲間、安心。
その幻想を追って周囲に合わせ続けた結果、マルチェロは《友だち》すべてに捨てられ否定された。最後はシモーネしかいなかったのだ。生身でかかわりあう相手は。
しかもその相手を殺してしまったマルチェロは、今度は《ついに俺が町の困りものシモーネを始末してやったぞ!》と、かつての仲間へアピールできることに気づいて、捧げものよろしくシモーネの死体を担いで、仲間に見せにいくのだ。
この鬼気迫るシーンのなんと惨めで、なんと哀しいことだろう。
重く大きなシモーネの死体をかついで、町の広場へとよろめき歩くマルチェロ。
その歩みがふと三拍子に聞こえて、まるで十字架をかついでゴルゴダの丘を歩くイエスのようだと思った。
愚かなマルチェロ。罪深いマルチェロ。でもその罪は、彼だけのものなのだろうか。
広場にたどりついても、もちろん、もう仲間などいない。友だちもいない。
幻想が消え、狂騒ののち残ったのは、人殺しになった自分だ。
もうマルチェロには、それをつぐなうすべはない。
ラザロのごとく蘇らせたあのチワワのように、あがなえるものは今は何も残されていない。
それを理解したマルチェロの、茫然としたまなざし。
その表情を見ながらふいに理解した。
マルチェロは誰でもない。
主体性がなく、流されるままここにたどりついた彼は、無なのだ。
そして、マルチェロは誰でもある。
平凡で、守りたいあたりまえを、守ろうとしただけの、愚かで、弱くて、哀しい人間。
マルチェロは、私たちなのだ、と思った。
強大な権力や暴力の前にさらされたとき、彼のようにふるまわないと誰が言い切れるだろう。
支配と服従。
それは人対人の関係だけでなく、国同士や、民族同士の関係にも当てはめうる。
シモーネという強大な国に、押しつぶされそうになった弱小国。そんな空想も、映画を観ながら私の中に立ちのぼった。
残酷な寓話が完結したとき、不思議に私は苦しさや哀しさよりも、この世界の大きな仕組みを俯瞰したような静かな高揚をおぼえていた。
ラストで長く長くカメラがとらえたマルチェロの、あの虚無の深い穴へとすべりゆくような、それでいて不思議に無垢な表情とともに、この感覚は長く自分の中に根をおろすだろう。
by higurashizoshi
| 2019-09-16 19:08
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