ひぐらしだより
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窓辺にぽやん、とすわっている方。
うらうら。うらうら。
そのちかくには、こんなもの。
これ、種からやっと出てきた
サボテンの芽。
よく見ると、トトロみたいなかたち。
とげもまだほよほよで、
かなり、かわいらしい。
マイケータイカメラでは、よく写りませんが。
せっしゃ、接写ができません。
ふたをかぶせたところ。
大阪の「ダーウィン展」のおみやげにいただいたもの。
カメのかんづめ
ではありませんでした。
種と土がべつべつにはいっていて、
種まきをして、毎日水と太陽をあげるとサボテンが育つというかんづめ。
トトロ型サボちゃんたちは、
さてどんなおとなに育つのだろう。
うらうら。うらうら。
そのちかくには、こんなもの。
これ、種からやっと出てきた
サボテンの芽。
よく見ると、トトロみたいなかたち。
とげもまだほよほよで、
かなり、かわいらしい。
マイケータイカメラでは、よく写りませんが。
せっしゃ、接写ができません。
ふたをかぶせたところ。
大阪の「ダーウィン展」のおみやげにいただいたもの。
カメのかんづめ
ではありませんでした。
種と土がべつべつにはいっていて、
種まきをして、毎日水と太陽をあげるとサボテンが育つというかんづめ。
トトロ型サボちゃんたちは、
さてどんなおとなに育つのだろう。
#
by higurashizoshi
| 2008-10-13 15:15
| 雑感
怖いのだけど、ときどき失笑してしまいそうになる。
でも次の瞬間には、凍りつくほど怖くなる。けっして目が離せないほどに。
そういう人に会ってしまった。映像の中で。
イーサン&ジョエル・コーエン監督『ノーカントリー』。
この前のアカデミー賞で作品賞、監督賞、脚色賞、助演男優賞などを受賞、そのほかにも多くの賞に輝いている、コーエン兄弟の最高傑作という呼び声が高い作品。
まぎれもなくアメリカの歴史にひたひたと押し寄せる死の気配を描いた、アメリカ人による、アメリカの映画。ここにひとり異質な人間が登場する。おかっぱ頭の殺し屋、アントン・シガーだ。
演ずるスペイン人俳優ハビエル・バルデムの大きな顔、大きな眼、大きな鼻、大きな口。アントン・シガーはとてもゆっくりと歩く。姿勢がいい。
そしてどんどん、簡単に人を殺す。ただしときどき、相手にゲームをもちかける。
コインを投げて、手で伏せ、表か裏かを当てさせる。はずれたら死。当たれば死なずにすむ。シガーは去っていく。
雇われ殺し屋だったはずのシガーは、200万ドルを持ち逃げしたモスという男を追ううち、彼を仕留めることに熱中していく。
で、シガーを牽制しようとした雇い主まで殺してしまう。もはや利益ではなく自分のルール=決めた相手を殺す、だけがシガーの中にある。彼は邪魔な人波をかきわけるかのようにどんどん人を殺しながら、モスを追いつめる。
ベトナム帰還兵のモスは、頑強な男で、プロの殺し屋シガーを相手に、実によくねばる。裏をかき、反撃し、ひたすら逃げる。
しかしシガーにはおよばない。なぜかというと、シガーは人間ではないからだ。
ではなにか、というと、いろいろな呼び方ができるだろう。
「死神」とも。「運命」とも。「宣告者」とも。
シガーには悲しみも後悔も迷いもない。シガーが追いついて、決めたとき、相手は死ぬ。それだけなのだ。
シガーはほとんど漫画のキャラクターだ。マッシュルーム型のおかっぱ頭に濃すぎる顔立ち、持ち歩くのはガスボンベ。そのホースの先で相手の額をボシュッと一打ちして、瞬時に殺す。ミニチュアの人形にして携帯ストラップにでもしたら売れそうな、強烈でおかしな個性。いかにも、恐怖がこうじて思わず笑い出すような引きつったユーモアが身上の、コーエン兄弟の好みだ。
モスを助けるためにシガーを追う老保安官はつぶやく。この国はどうなってしまったのかと。想像もつかない動機で起きる、想像もつかない残忍な事件。映画の原題は『No country for old men』、老人にはもはや居場所はない。
やがて帰っていく老保安官の、古き善き安心に満ちた世界も、遠からず朽ちていくことが暗示される。そして、シガーはどこまでも歩き続ける。アメリカという国を。
ふと、ドアの外にシガーが立っているのではないか、と思う。夜の闇の濃いところに、ゆっくりと近づいてくる彼のやわらかい足音が聞こえるような気がする。
いや、たしかに立っているのだ。この国でも、たくさんのドアの外に。
そしてたぶん、たくさんの人々の心の奥にも、彼はいる。ガスボンベをぶら下げて、いっさいの感傷と無縁の、穴のような眼で。
でも次の瞬間には、凍りつくほど怖くなる。けっして目が離せないほどに。
そういう人に会ってしまった。映像の中で。
イーサン&ジョエル・コーエン監督『ノーカントリー』。
この前のアカデミー賞で作品賞、監督賞、脚色賞、助演男優賞などを受賞、そのほかにも多くの賞に輝いている、コーエン兄弟の最高傑作という呼び声が高い作品。
まぎれもなくアメリカの歴史にひたひたと押し寄せる死の気配を描いた、アメリカ人による、アメリカの映画。ここにひとり異質な人間が登場する。おかっぱ頭の殺し屋、アントン・シガーだ。
演ずるスペイン人俳優ハビエル・バルデムの大きな顔、大きな眼、大きな鼻、大きな口。アントン・シガーはとてもゆっくりと歩く。姿勢がいい。
そしてどんどん、簡単に人を殺す。ただしときどき、相手にゲームをもちかける。
コインを投げて、手で伏せ、表か裏かを当てさせる。はずれたら死。当たれば死なずにすむ。シガーは去っていく。
雇われ殺し屋だったはずのシガーは、200万ドルを持ち逃げしたモスという男を追ううち、彼を仕留めることに熱中していく。
で、シガーを牽制しようとした雇い主まで殺してしまう。もはや利益ではなく自分のルール=決めた相手を殺す、だけがシガーの中にある。彼は邪魔な人波をかきわけるかのようにどんどん人を殺しながら、モスを追いつめる。
ベトナム帰還兵のモスは、頑強な男で、プロの殺し屋シガーを相手に、実によくねばる。裏をかき、反撃し、ひたすら逃げる。
しかしシガーにはおよばない。なぜかというと、シガーは人間ではないからだ。
ではなにか、というと、いろいろな呼び方ができるだろう。
「死神」とも。「運命」とも。「宣告者」とも。
シガーには悲しみも後悔も迷いもない。シガーが追いついて、決めたとき、相手は死ぬ。それだけなのだ。
シガーはほとんど漫画のキャラクターだ。マッシュルーム型のおかっぱ頭に濃すぎる顔立ち、持ち歩くのはガスボンベ。そのホースの先で相手の額をボシュッと一打ちして、瞬時に殺す。ミニチュアの人形にして携帯ストラップにでもしたら売れそうな、強烈でおかしな個性。いかにも、恐怖がこうじて思わず笑い出すような引きつったユーモアが身上の、コーエン兄弟の好みだ。
モスを助けるためにシガーを追う老保安官はつぶやく。この国はどうなってしまったのかと。想像もつかない動機で起きる、想像もつかない残忍な事件。映画の原題は『No country for old men』、老人にはもはや居場所はない。
やがて帰っていく老保安官の、古き善き安心に満ちた世界も、遠からず朽ちていくことが暗示される。そして、シガーはどこまでも歩き続ける。アメリカという国を。
ふと、ドアの外にシガーが立っているのではないか、と思う。夜の闇の濃いところに、ゆっくりと近づいてくる彼のやわらかい足音が聞こえるような気がする。
いや、たしかに立っているのだ。この国でも、たくさんのドアの外に。
そしてたぶん、たくさんの人々の心の奥にも、彼はいる。ガスボンベをぶら下げて、いっさいの感傷と無縁の、穴のような眼で。
#
by higurashizoshi
| 2008-10-07 21:58
| 観る・読む・書く・聴く
台風も去って、いよいよの秋晴れで、ベランダからながめる雲があちこち空に絵を描いている。
出かけられそう、なのが出かけられない、になったりしつつ、この数日窓やベランダから空を見るばかり。
前にコトブキがBSで録画して、ダビングしたままタイトル書かずにごっそりストックされていた映画のDVD-Rの整理をした。
私が画面で映画のタイトルを確認し、DVD-Rを取り出すと、それにミミ助手がタイトルを書く。4、50枚くらいあったので、けっこうな作業になった。
「はい、『駅馬車』」
「駅ってどんな書き順だったっけ」
「タテ、ヨコ、タテ、ヨコヨコ…」
「わかったー」ペンで書き書き。
「次は『オール・アバウト・マイ・マザー』ね」
「ん? オール・マザー…?」
「オール、ナカテン、アバウト、ナカテン」
「オールマイ、ナカテン?」
「マザーは母、マイは私の、やん? アバウトは何々について、ていうこと、オールはすべて。私の母についてのすべて、ていう意味なん」
「あーあー…なるほど! オール、ナカテン、アバウト、ナカテン…
なんだっけ?」
「これは『アメリカン・ビューティー』」
「どんな話?」
「アメリカの家庭ホーカイの話らしい」
「ホーカイってなに」
「こわれゆくのやね」
「それなのになんでビューティーなの?」
「んむむ…ユとイはちっちゃく書くねんよ」
「うわー古い映画やなー。『望郷』」
「ボーキョー?」
「フランス映画。ジャン・ギャバン。おばあちゃん世代の大スター」
「ボーキョーって?」
「ふるさとをのぞむ…望、郷、とこう書く」
「希望の望だね」「で、郷ひろみの郷」
「…それ誰?」
とかいうようなやり取りをしながら、映画と言葉の学びを少しずつ。
ミミが観たがっていた『オズの魔法使い』もストックの山の中から出てきた。なかなかきれいな字で全部タイトルを書いてくれて、完成。
過去の時間のなかで手つかずになっていたものを取り出して、こうして整理できるのは、ちょっぴりでも気持ちがいい。
肌寒いほど涼しくなってきたせいか、明け方に眠りが浅くなって、たくさんの夢を見る。
ああ、これは夢だ…とわかっていながら、映画のようについ筋を追ってしまう。
私の夢はいつも、見知らぬ場所と見知らぬ人たちが出てきて、私はどこかへ行こうとしていたり、帰ろうとしていたりする。
それなのに、いろいろなことが起きて、なかなか行けなかったり、帰れなかったりする。
そしていっしょうけんめい帰ってみたら、自分の家ではなかったりするのだ。
眼が覚めると、しばらくの間、私はどこにもいないような気持ちがして、夢と現世のさかいめがはっきり見えるまでじっと横になっている。
どこかさびしく凛とした気持ち。秋の一日はそんなふうにして始まる。
出かけられそう、なのが出かけられない、になったりしつつ、この数日窓やベランダから空を見るばかり。
前にコトブキがBSで録画して、ダビングしたままタイトル書かずにごっそりストックされていた映画のDVD-Rの整理をした。
私が画面で映画のタイトルを確認し、DVD-Rを取り出すと、それにミミ助手がタイトルを書く。4、50枚くらいあったので、けっこうな作業になった。
「はい、『駅馬車』」
「駅ってどんな書き順だったっけ」
「タテ、ヨコ、タテ、ヨコヨコ…」
「わかったー」ペンで書き書き。
「次は『オール・アバウト・マイ・マザー』ね」
「ん? オール・マザー…?」
「オール、ナカテン、アバウト、ナカテン」
「オールマイ、ナカテン?」
「マザーは母、マイは私の、やん? アバウトは何々について、ていうこと、オールはすべて。私の母についてのすべて、ていう意味なん」
「あーあー…なるほど! オール、ナカテン、アバウト、ナカテン…
なんだっけ?」
「これは『アメリカン・ビューティー』」
「どんな話?」
「アメリカの家庭ホーカイの話らしい」
「ホーカイってなに」
「こわれゆくのやね」
「それなのになんでビューティーなの?」
「んむむ…ユとイはちっちゃく書くねんよ」
「うわー古い映画やなー。『望郷』」
「ボーキョー?」
「フランス映画。ジャン・ギャバン。おばあちゃん世代の大スター」
「ボーキョーって?」
「ふるさとをのぞむ…望、郷、とこう書く」
「希望の望だね」「で、郷ひろみの郷」
「…それ誰?」
とかいうようなやり取りをしながら、映画と言葉の学びを少しずつ。
ミミが観たがっていた『オズの魔法使い』もストックの山の中から出てきた。なかなかきれいな字で全部タイトルを書いてくれて、完成。
過去の時間のなかで手つかずになっていたものを取り出して、こうして整理できるのは、ちょっぴりでも気持ちがいい。
肌寒いほど涼しくなってきたせいか、明け方に眠りが浅くなって、たくさんの夢を見る。
ああ、これは夢だ…とわかっていながら、映画のようについ筋を追ってしまう。
私の夢はいつも、見知らぬ場所と見知らぬ人たちが出てきて、私はどこかへ行こうとしていたり、帰ろうとしていたりする。
それなのに、いろいろなことが起きて、なかなか行けなかったり、帰れなかったりする。
そしていっしょうけんめい帰ってみたら、自分の家ではなかったりするのだ。
眼が覚めると、しばらくの間、私はどこにもいないような気持ちがして、夢と現世のさかいめがはっきり見えるまでじっと横になっている。
どこかさびしく凛とした気持ち。秋の一日はそんなふうにして始まる。
#
by higurashizoshi
| 2008-10-04 15:11
| 雑感
春にBSで放映された、第80回アカデミー賞の授賞式。テレビの前で、私は主演男優賞に輝いたダニエル・デイ・ルイスのスピーチを見ながら、年月をへたエレガントな美男子ぶりにうっとりしていた。
受賞作品は、寡作のクセもの監督、ポール・トーマス・アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』。アメリカ20世紀初頭の、石油採掘で成り上がる男の話。授賞式で流れたスポットでは、ダニエル様は例によってまるで別人になりきって、脂(油?)ぎった強欲オヤジを演じているようだった。
別人になりきる、といえば、このとき主演女優賞のほうを受賞したフランス人女優マリオン・コティヤール。授賞式ではういういしい可憐なお嬢さんといった風情のマリオンさんだったが、受賞作『エディット・ピアフ 愛の讃歌』をこの前観て仰天した。伝説の歌姫ピアフの猛々しい娘時代から老醜すさまじい晩年まで、どこからどう見てもあのお嬢さんと同一人物とは思えない。役になりきってその生涯の変化を生きている気迫に圧倒された。もちろん、撮影やメイクの力もあるだろうけれど、役者が一世一代の演技をする、というのはなんともすごいことなのだと再認識したのだった。
さて『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の話。映画館で観られない身としてはDVD化されてレンタルを待つしかなく、人気作ゆえ待たされて、やっとこの前借りることができた。
石油で成り上がる男といえば、『ジャイアンツ』のジェームス・ディーンを思い出す。ついに掘り当て、噴き出した石油を両手を挙げて浴びるシーンが忘れられない。彼はとても若かったので(といっても遺作になったわけだが)、後年を描いたあたりはどうしても無理があったけれど、はるか昔に観たのに、映画全体を含めてとても印象に残っている。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公プレインビューは金採掘からスタートして生身で土を掘り、岩を削り、石油を掘り当てていく、自称「石油屋」。あるとき、見知らぬ青年ポールが彼を訪ねてきて、自分の家の牧場に石油が出るという。これが転機となり、プレインビューはその牧場一体の土地を買い占め、そこに住み、油井を次々と開拓していく。
その彼の前に立ちはだかるのが、ポールの双子の兄弟で牧師のイーライ(不思議なことにポールの方はその後一度も登場しない)。
このイーライは一見、温和で謙虚に見えるが、実はプレインビューと表裏一体ともいえる存在だ。プレインビューがひたすら求めるのが石油であり金であり、実世界の王者であろうとするのに対して、イーライは宗教の仮面をかぶって人心を支配し、精神的世界で王者になることを目指している。彼らはお互いの利権争いを長く繰り返しながら、近親憎悪的な感情でつよく結びつく。
プレインビューには、かつての仕事仲間が事故死して遺した、血のつながらない息子がいる。石油関係の契約の場や、土地買収の住民説明会などに必ず、まだほんの子どもであるこの息子を連れて行く。その方が相手の心証をよくし、信頼を得やすいからだ。いわば息子はブレインビューの小道具なのである。
ただし、このプレインビューという男は、たんに強欲で血も涙もない人間というわけでもない。息子に対しては、細やかに気づかいし、抱擁し、キスする。それが虚栄心からなのか、心からの愛情なのか、そのあたりが判然としない。やがて油井で思いがけない事故が起きたり、腹違いの弟と名乗る男が現れたりする。そのころから、プレインビューの心が加速度的に闇に向かい始める。成り上がる快感と、ふくれあがる憎悪に引き裂かれて彼はいくつもの罪をおかしていく…。
とにかく、これは男の映画である。原作、脚本、監督、主演すべて男、それどころか2時間半近い映画の中には男しか出てこない。お飾りでも女は登場しない。ひとりだけ、プレインビューの息子と親しくなる女の子(イーライの妹)がいるが、セリフはほとんどない。
強欲成り上がり男を描いた作品なのに、強欲を描く常套手段である女が出てこない。これは特異なことだ。
そして幾重にもかさねて描かれるのは、父―息子、兄―弟のねじれた関係だ。《ゼア・ウィル・ビー・ブラッド》、血は流される。どろりと黒く光る石油は、流れ出る濃い血。むせかえるように胸が重くなる。プレインビューが求めたものが何だったのか、次第に観ているほうもわからなくなってくる。
ダニエル・デイ・ルイスは、アドレナリン全開で休むことなく終局までを駆け抜ける。ここまでやるかという狂気の演技と見せて、強い理性ですみずみまで制御している。たった数秒のショットの中でプレインビューの傲慢と哀しみの間をゆれる感情を見せつけ、暴発する憎悪で観るものを凍りつかせる。もはや観客は彼の手のひらの上でひたすらこの嵐を見続けるしかないという感じだ。
対する牧師イーライを演じるポール・ダノは『キング 罪の王』『リトル・ミス・サンシャイン』と観てきたが、印象深い風貌と演技の若手である。いわば怪物対怪物というこの大役を果敢に演じていて、かなりの線まで達しているのだが、さすがにダニエル・デイ・ルイスが相手では分が悪かった。骨の髄まで主人公の愛憎の対象になる人物としては、いささか説得力が足りなくて惜しい。
監督ポール・トーマス・アンダーソンは絵画的な独特の色彩感覚とカメラワークが特徴で、これまで観た作品(『ブギー・ナイツ』『パンチドランク・ラブ』)からいうと、個性的だけれど私にとってはピタリと好みに合うタイプではなかった。今回は、もしかするとまだ30代のこの監督の転機になる作品なのかもしれない。これまでと大きく色合いを変えて、スケールと奥行きのあるドラマを作ろうとする意図が強く感じられた。どこかキューブリックのような硬質な狂気とユーモアを感じたのは新しい発見。
また、この作品で強い印象に残るのが、ロックバンド・レディオヘッドのギタリストが担当している音楽だ。冒頭のまったくセリフのない数十分ほど、荒涼たる山と砂地、ひたすら地下にもぐりツルハシをふるいつづける男にかぶさってくる歪んだ弦楽器の緊張感。そして、ときおり流れ出す美しいソナタ。緊迫した場面になだれこむ、叩きつけるようなリズム。全編こんな調子で、いささか音楽が自己主張しすぎでは? と思うほどの存在感。あと少しでやりすぎ、のギリギリの線で、私は個人的には好きだった。
ダニエル・デイ・ルイスはこの作品が5年ぶりの映画出演だという。観終わってから、アカデミー賞での美しい笑顔を思い出そうとするのだけどプレインビューの黒光りする面影しか浮かばない。まったく違う人物を造形できるすぐれた演技というのは、たんなる技術ではなく、なにか人智をこえたところにあるもののように思う。
そんなことを思わせてくれるダニエル様には、今度は5年も間をあけず、また新しい人物になりきった神業を見せてもらいたい。
受賞作品は、寡作のクセもの監督、ポール・トーマス・アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』。アメリカ20世紀初頭の、石油採掘で成り上がる男の話。授賞式で流れたスポットでは、ダニエル様は例によってまるで別人になりきって、脂(油?)ぎった強欲オヤジを演じているようだった。
別人になりきる、といえば、このとき主演女優賞のほうを受賞したフランス人女優マリオン・コティヤール。授賞式ではういういしい可憐なお嬢さんといった風情のマリオンさんだったが、受賞作『エディット・ピアフ 愛の讃歌』をこの前観て仰天した。伝説の歌姫ピアフの猛々しい娘時代から老醜すさまじい晩年まで、どこからどう見てもあのお嬢さんと同一人物とは思えない。役になりきってその生涯の変化を生きている気迫に圧倒された。もちろん、撮影やメイクの力もあるだろうけれど、役者が一世一代の演技をする、というのはなんともすごいことなのだと再認識したのだった。
さて『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の話。映画館で観られない身としてはDVD化されてレンタルを待つしかなく、人気作ゆえ待たされて、やっとこの前借りることができた。
石油で成り上がる男といえば、『ジャイアンツ』のジェームス・ディーンを思い出す。ついに掘り当て、噴き出した石油を両手を挙げて浴びるシーンが忘れられない。彼はとても若かったので(といっても遺作になったわけだが)、後年を描いたあたりはどうしても無理があったけれど、はるか昔に観たのに、映画全体を含めてとても印象に残っている。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公プレインビューは金採掘からスタートして生身で土を掘り、岩を削り、石油を掘り当てていく、自称「石油屋」。あるとき、見知らぬ青年ポールが彼を訪ねてきて、自分の家の牧場に石油が出るという。これが転機となり、プレインビューはその牧場一体の土地を買い占め、そこに住み、油井を次々と開拓していく。
その彼の前に立ちはだかるのが、ポールの双子の兄弟で牧師のイーライ(不思議なことにポールの方はその後一度も登場しない)。
このイーライは一見、温和で謙虚に見えるが、実はプレインビューと表裏一体ともいえる存在だ。プレインビューがひたすら求めるのが石油であり金であり、実世界の王者であろうとするのに対して、イーライは宗教の仮面をかぶって人心を支配し、精神的世界で王者になることを目指している。彼らはお互いの利権争いを長く繰り返しながら、近親憎悪的な感情でつよく結びつく。
プレインビューには、かつての仕事仲間が事故死して遺した、血のつながらない息子がいる。石油関係の契約の場や、土地買収の住民説明会などに必ず、まだほんの子どもであるこの息子を連れて行く。その方が相手の心証をよくし、信頼を得やすいからだ。いわば息子はブレインビューの小道具なのである。
ただし、このプレインビューという男は、たんに強欲で血も涙もない人間というわけでもない。息子に対しては、細やかに気づかいし、抱擁し、キスする。それが虚栄心からなのか、心からの愛情なのか、そのあたりが判然としない。やがて油井で思いがけない事故が起きたり、腹違いの弟と名乗る男が現れたりする。そのころから、プレインビューの心が加速度的に闇に向かい始める。成り上がる快感と、ふくれあがる憎悪に引き裂かれて彼はいくつもの罪をおかしていく…。
とにかく、これは男の映画である。原作、脚本、監督、主演すべて男、それどころか2時間半近い映画の中には男しか出てこない。お飾りでも女は登場しない。ひとりだけ、プレインビューの息子と親しくなる女の子(イーライの妹)がいるが、セリフはほとんどない。
強欲成り上がり男を描いた作品なのに、強欲を描く常套手段である女が出てこない。これは特異なことだ。
そして幾重にもかさねて描かれるのは、父―息子、兄―弟のねじれた関係だ。《ゼア・ウィル・ビー・ブラッド》、血は流される。どろりと黒く光る石油は、流れ出る濃い血。むせかえるように胸が重くなる。プレインビューが求めたものが何だったのか、次第に観ているほうもわからなくなってくる。
ダニエル・デイ・ルイスは、アドレナリン全開で休むことなく終局までを駆け抜ける。ここまでやるかという狂気の演技と見せて、強い理性ですみずみまで制御している。たった数秒のショットの中でプレインビューの傲慢と哀しみの間をゆれる感情を見せつけ、暴発する憎悪で観るものを凍りつかせる。もはや観客は彼の手のひらの上でひたすらこの嵐を見続けるしかないという感じだ。
対する牧師イーライを演じるポール・ダノは『キング 罪の王』『リトル・ミス・サンシャイン』と観てきたが、印象深い風貌と演技の若手である。いわば怪物対怪物というこの大役を果敢に演じていて、かなりの線まで達しているのだが、さすがにダニエル・デイ・ルイスが相手では分が悪かった。骨の髄まで主人公の愛憎の対象になる人物としては、いささか説得力が足りなくて惜しい。
監督ポール・トーマス・アンダーソンは絵画的な独特の色彩感覚とカメラワークが特徴で、これまで観た作品(『ブギー・ナイツ』『パンチドランク・ラブ』)からいうと、個性的だけれど私にとってはピタリと好みに合うタイプではなかった。今回は、もしかするとまだ30代のこの監督の転機になる作品なのかもしれない。これまでと大きく色合いを変えて、スケールと奥行きのあるドラマを作ろうとする意図が強く感じられた。どこかキューブリックのような硬質な狂気とユーモアを感じたのは新しい発見。
また、この作品で強い印象に残るのが、ロックバンド・レディオヘッドのギタリストが担当している音楽だ。冒頭のまったくセリフのない数十分ほど、荒涼たる山と砂地、ひたすら地下にもぐりツルハシをふるいつづける男にかぶさってくる歪んだ弦楽器の緊張感。そして、ときおり流れ出す美しいソナタ。緊迫した場面になだれこむ、叩きつけるようなリズム。全編こんな調子で、いささか音楽が自己主張しすぎでは? と思うほどの存在感。あと少しでやりすぎ、のギリギリの線で、私は個人的には好きだった。
ダニエル・デイ・ルイスはこの作品が5年ぶりの映画出演だという。観終わってから、アカデミー賞での美しい笑顔を思い出そうとするのだけどプレインビューの黒光りする面影しか浮かばない。まったく違う人物を造形できるすぐれた演技というのは、たんなる技術ではなく、なにか人智をこえたところにあるもののように思う。
そんなことを思わせてくれるダニエル様には、今度は5年も間をあけず、また新しい人物になりきった神業を見せてもらいたい。
#
by higurashizoshi
| 2008-09-30 13:02
| 観る・読む・書く・聴く
平穏をのぞむ ということは
あたりまえのふちにつかまりながら
奈落を見ないでもちこたえることだ
たとえば今日たったひとふさ残った冷蔵庫のぶどうを
その家にすむ人の数で分けようとして
最後まで笑顔で話し合いをまっとうすることができたら
おっとあぶない というところを
うまく互いにそれあって慎重に ことばをつないだり
部屋のすみにうすく積もるあのくらいものは
見ないようにさらりと視線をずらせたりして
おいしいね
みんな唇のはたにむらさきの汁をつけて
ほんとうのなかよしみたいに向きあってすわっている
小動物みたいに罪なくすわっている
そのかなしいほどのけんめいさを
まやかし というのなら
かたい宇宙のぶあついらせんを手品のように
するする解いてみせておくれ
ぶどうの種よ
*****
なにごとも穏便に。なんて臆病もののセリフだとおもっていた。
昔は。
今夜すこし気持ちがななめになりつつ書いた詩。
あたりまえのふちにつかまりながら
奈落を見ないでもちこたえることだ
たとえば今日たったひとふさ残った冷蔵庫のぶどうを
その家にすむ人の数で分けようとして
最後まで笑顔で話し合いをまっとうすることができたら
おっとあぶない というところを
うまく互いにそれあって慎重に ことばをつないだり
部屋のすみにうすく積もるあのくらいものは
見ないようにさらりと視線をずらせたりして
おいしいね
みんな唇のはたにむらさきの汁をつけて
ほんとうのなかよしみたいに向きあってすわっている
小動物みたいに罪なくすわっている
そのかなしいほどのけんめいさを
まやかし というのなら
かたい宇宙のぶあついらせんを手品のように
するする解いてみせておくれ
ぶどうの種よ
*****
なにごとも穏便に。なんて臆病もののセリフだとおもっていた。
昔は。
今夜すこし気持ちがななめになりつつ書いた詩。
#
by higurashizoshi
| 2008-09-26 21:59
| 詩