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ひぐらしだより


人生はその日暮らし。  映画、アート、音楽、フィギュアスケート…日々の思いをつづります。
by higurashizoshi
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カミングアウト・レターズ

毎日、新聞を開いても、ネットのニュースや情報を見ても、「生きづらい」というのが今の日本のキーワードなんだろうか、と思ってしまう。
派遣社員の使い捨て、過労死、自殺者の増加、いたましい犯罪や事件。
ただ、少し希望を感じるのは、たとえば不安定な就労形態の人たちが集まってユニオンを作ったり、犯罪被害者の家族が会を作り活動したり、そういう当事者によるつながりが少しずつ増えてきているように思えることだ。

余裕を失った社会は、特に少数者(マイノリティ)を隔離し、追いつめる。
多くの人が、自分だけはマイノリティに《転落》しないように必死にペダルを漕ぎつづけながら、自分と異なる人間を排除することで安寧を得ようとする。ストレスを発散させる。
その縮図といえるのが、ときには標的にされた子どもを死の淵まで追いこむような、学校でのいじめだ。
大人がしていることを、子どもは自分たちの社会の中でやっている。

ほんとうは、多数派(マジョリティ)なんて幻想みたいなものだ。
ほんのごくひと握りの特権的な人たちを除けば、今はいつでも《転落》は起こりうる。
その不安が、ますますマイノリティへの排除を生む。悪循環だ。

思えば、学校に行かず育っているタタもミミも、親である私も、立派なマイノリティ。
私は、基本的には「マイノリティがかっこいい。」と思っているので、そうであることはちっとも苦にならない。
でも、差別されたり、排除されたりするのは嫌だ。権利が認められないのも、おかしい。

とはいえ、たったひとり、心の中でそう思っているだけではしんどくなる。
社会の圧力は、いろいろな形でマイノリティをしんどくさせるのである。
今の私には、思いをわかち合える家族や友だちがいて、学校に行かず育つ子どもと親たちとのつながりもある。そのことにとても支えられていると思う。
マイノリティであることは、楽ではない。
でも、多くの人がおそれる《転落》は、実はそれまでと違う視野や生き方を見つけるきっかけにもなりうる。
それまでは出会えなかった人たちとの出会いも、そこにはある。
カミングアウト・レターズ_d0153627_2213734.jpg
この本「カミングアウト・レターズ」を作ったのは、いわゆるセクシャル・マイノリティの人たち。
彼らにとっては、自分がたとえば同性愛者であるとか、性同一性障害であるとかを公表する=カミングアウトするというのは、とてもハードルが高いことだという。
それは、そうだろう。いくら最近はマスメディアでもセクシャル・マイノリティが取り上げられることが増えたといっても、一般的にはまだまだ差別意識だらけ。彼らが身近にいるとは考えもしない人も多いと思う。
もしかしたら、マイノリティの問題、というときにも、セクシャル・マイノリティはその中に想定されていない場合も多いかもしれない。

この本の編者のひとり、RYOJIさんがこの本を作ることを思い立ったのは、今の日本でセクシャル・マイノリティの子どもたちが自分を隠して、自己否定しながら育つしかない現実を少しでも変えたいという願いからだったという。
この本を作る以前にも、HIV予防に取り組む活動などをしてこられた人らしい。
そして、そのRYOJIさんがいまだ、自分の親にはゲイであることをカミングアウトしていない、と知って、私はそのことをとても重く感じた。

私は、自分の娘たちが異性愛者とは限らない、将来女性を好きになるかも、なんて可能性を普通に考えるような人間なので、セクシャル・マイノリティに対して偏見とか何もないつもりでいた。
でも、いろいろな本を読んだり、ゲイの方のブログを読んだりしているうちに、やっぱりわからないところがたくさんあるし、自分の中にもまだまだ受容できない部分があるなあと思うようになった。
そして、この「カミングアウト・レターズ」を読んで、またひとつ視界が開けたような気がしたのだ。
マイノリティとしての自分と、ああつながるなぁ、という実感が初めて持てた。

この本についてもう少しくわしい話を、次回に書こうと思う。
# by higurashizoshi | 2008-06-20 22:15 | 観る・読む・書く・聴く

ニコ・ピロスマニ

昨日は私の誕生日だった。
ずいぶん前からコトブキにこの画集をリクエストしていて、とうとう昨日贈ってもらった。ニコ・ピロスマニ_d0153627_1739233.jpg

ニコ・ピロスマニはグルジアの画家で、日本でいうと明治維新のちょっと前に生まれて大正時代に亡くなっている。
8歳で孤児になり田舎から首都チフリス(現トビリシ)に出てきて、正規の美術教育を受けることなく職を転々としながら絵を描いた。絵の主題はグルジアの庶民やその生活、動物などが多い。職を失ってからは食事や酒と引き換えにレストランや居酒屋の壁に絵を描くこともよくした。
50歳のころ、たまたまロシアから来た美術家グループに「発見」されて、天才画家としてロシアで展覧会に出品、芸術家協会の会員にもなったが、ピロスマニ本人はチフリスで漂泊の生活を変えることなく、やがて酒に溺れながら56歳で誰にも看取られず亡くなった。

その後彼の絵は収集され、主な作品はグルジアの国立美術館に所蔵されて、ヨーロッパのあちこちで回顧展も開かれ、素朴派の画家として世界に知られることになった。今はグルジアを代表する画家として、紙幣に肖像画が使われるほど国民に愛されているという。

私が初めてピロスマニの絵を見たのはゲオルギー・シェンゲラーヤ監督のグルジア映画『ピロスマニ』(1969年)の画面の中だった。
これはニコ・ピロスマニの生涯を描いた映画で、大阪の自主上映館で観た当時私は20歳くらいだったと思う。そのときの異様な感動は今でもまざまざと覚えている。それまで観たこともないような、静謐で残酷で美しい映画だった。
その映画の中に、実際のピロスマニの絵が次々と登場する。ほとんどその絵と映像が一体になっているかのような不思議な感覚におちいる。
ピロスマニはあらゆる束縛や人間関係からこぼれ落ちるようにのがれて、憑かれたように絵を描きつづける。自分が社会的存在として生きていることから眼をそむけるように。
特に私が強い印象を受けたのは、彼の動物画だった。まるではりつけになったように奇妙なポーズで静止した動物たち。その眼は澄んでいて、深い悲しみと不思議なあたたかさを発している。

その映画を観て以来、ずっとピロスマニの絵をこの目で見てみたいと思いながら果たせずにきた。1986年に東京と大阪でピロスマニ展があったそうだが、そのころ私は何をしていたのだろう?知らずに過ぎてしまった。
いまや映画『ピロスマニ』をもう一度観たいと思っても、ビデオもDVDもすでにどこでも在庫切れになっているようだ。
ときどき無性にピロスマニの絵を見たくなることがあって、ネット上の展示などを眺めていた。
ロシア語版で比較的最近出たピロスマニの画集があることがわかって、辛抱強く辞書と格闘するつもりで思い切って買おうかと考えていたら、この3月に思いがけず、日本語版の本格的な画集が出るというではないか! 
それで一も二もなく誕生日プレゼントとしてコトブキに頼んでいたというわけだ。

今日は静かな雨。朝から何度もページを繰って、やっと手に入った画集をながめている。
カラー図版189点というのは、残っている作品数の少ないピロスマニの画集としてはかなりの収録数だ。
全体を見ると、意外に人物画が多い。でもやはり惹きつけられるのは彼の動物画である。
何度も見ているうちにふと気づいた。ああ、ピロスマニという人は、人間より動物にずっと近さを感じていたんだ、と。というよりむしろ、動物画はみんな彼の自画像なんじゃないか、そんな気がした。
奇妙で美しいキリン、つぶらな瞳の鹿や牛たち、彼らは皆すべてを受けいれるようなまなざしで静止している。

表紙に使われている絵は「女優マルガリータ」。ピロスマニが恋に落ちたフランスの旅芸人一座の女優の肖像画だ。
真偽のほどはわからないが、この恋のエピソードが「百万本のバラ」という歌になったといわれている。この恋は実らずにマルガリータは帰国、この肖像画はそれから十年以上たって描かれたものらしい。
どこか菩薩をおもわせるような、優しいけれども悲しさのただよう絵だ。

図版もきれいだし、巻末には池内紀、小栗康平、スズキコージ、山口昌男、あがた森魚、四方田犬彦など豪華な顔ぶれのエッセイも収録されていて、これで5800円は安い。今回の刊行でやっとピロスマニ好きが日本語で彼の画業を気軽に見渡せるようになったわけで、文遊社という出版社は聞いたことがなかったけれど、偉いっ! ありがとう! と声を大にして言いたい。
# by higurashizoshi | 2008-06-05 17:40 | 観る・読む・書く・聴く

お味噌汁の話

体調が回復してきて、なにげないもの、ただ一杯のお味噌汁などがたいへんありがたくておいしい。
でも調子がようやくよくなってきたころに、あさりのお味噌汁を食べたらその濃厚さにくらくらっときた。
やっぱりまだ弱りの残るときは、あっさりした具のほうがよろしいようだ。
豆腐とわかめとか、大根とえのきとか。
ナスとみょうが、というのもいい。じゃがいものお味噌汁もほっこりしてよいものだなー。
そういえば以前、料理本に「トマトの味噌汁」というのが載っていてびっくりした。いまだ勇気がなくて試したことはないけど、意外にいけるのかも? どうなんだろう。

家庭料理の基本中の基本である味噌汁というもの、それだけに具の種類や組み合わせは、けっこう家によって違いがあるみたいだ。
マンガ『あたしンち』にギョーザの味噌汁というのが出てくるが、私の友だちは沖縄の人と結婚して実家に初めて行ったとき、朝食の味噌汁の具がコンビーフだったそうだ。
沖縄では「ポーク」といわれるランチョンミート缶がおかずにいろいろ使われる。味噌汁にもふつうに入れるそうである。その延長線でコンビーフ、ということらしい。

よく言われる「人生最後の食事には何を食べたいか」というやつ、献立を考えたら私はぜったいそこにお味噌汁が入る。
炊きたての白いごはんに、ぬか漬けのきゅうりとナス、豆腐とえのきのお味噌汁、おいしいお茶。
あっでもそこにちょっとだけ、生うにが添えてあるとうれしいな、なんてことも思う。
んん?人生最後の献立、なんて発想が出てくるあたり、まだ何となく回復途上なのかなあ。
景気づけにトマトの味噌汁でも思い切って作ってみるか…。
# by higurashizoshi | 2008-05-31 22:54 | 雑感

神童

神童_d0153627_18332626.jpg体調そのほかでしばらく映画を観ていなかった。
ひさしぶりに観る映画はあまり重くないもので、これまでと少しちがう感じの作品がいいな。
と思って借りてきてもらった一本が『神童』(2006年・萩生田宏治監督)。

「だいじょうぶ。あたしは音楽だから」。
そう宣言する天才少女ピアニスト・うたと、才能にめぐまれない音大生・和音(わお)。
勝気で生意気なうたは、どこでも孤独で、つよい不安を胸に秘めている。
愛する音楽を思い通り奏でられない和音は、いつも逡巡し、もがく。
年の離れた二人の、恋愛とも、きょうだいのような愛情ともいえる不思議な関係。
その名づけらない関係を支えているのは、始まりから終わりまで音楽。

魅力的な筋立ての物語で、強く脆い少女うたを演じる成海璃子も、平凡で繊細な和音を演じる松山ケンイチもよかった。
評価の高い原作漫画(同タイトル)は読んでいない私としては、純粋に映画だけを観て、感じたことを書いてみたい。

この映画の主役は「神童」であるうたではなく、音楽。そう感じさせられないと、うたは音楽そのものである、ということを観る側に確信させられない。
水や緑、空などの自然や静かな室内、作品に映し出される空間を、音の共鳴する舞台として感じられるかどうか。
音楽そのものが、作品の中でどんなふうに鳴っているか。
登場人物の中で、音楽がどう鳴っているのかを、感じとれるか。
そういう点でいえば、全体的にどうも物足りない、というのが率直な気持ちだ。
うたを包む空気、人間関係、自然、その中でうたがどう音楽であるのか、それをもっと感じさせてほしかった。
演奏シーンも、これこそ音楽であるうたのピアノなんだ、と思わせる強さがない。
それがあれば、後半で明らかになる、うたの過去と現在の苦しみについてもさらに説得力があったと思う。
音楽でいっぱいにさせてくださいね!と期待して作品の前に2時間座ったけれど、ひざ下くらいが音楽で浸されたところで終わってしまった…そんな気がする。

感じのよい作品ではあるし、好演の主演ふたり以外の役者も、個人的に好きな西島秀俊が出ていたり、かつて自由劇場で名コンビだった串田和美と吉田日出子が粋な中年カップルで出てきてオッと思わせてくれたり、そんなところも楽しめた。
皮はなかなかおいしいが、期待した肝心のあんこの味が薄いまま食べ終わったおまんじゅうのような。
私にはそんな作品だった。
# by higurashizoshi | 2008-05-25 18:35 | 観る・読む・書く・聴く

13年?

書きかけの山野井夫妻が気になって、さあ書くぞと思っていたら、思いがけず体調をくずしてしまった。
ときどきこの手の不調はあるのだが、とにかく食欲ゼロで、パソコンの前に座っても、しゃんとしてるのはちょっとの間。そのうちアメーバのようになってしまってものの役に立たず。
そこにさらに大事な友人のお父さんの訃報があり、ボー然と日がすぎた。

ふだんの私は食べることは大好きだし、けっこうしっかり食べるほうなのだけど、いったん不調になるといきなり食べられなくなる。極端である。
数日もほとんど食べてないというのが続くと、べつにお腹はすかないのだが、
「これでいいのかね?」
という気持ちになってくる。
やっぱり人として、というか生きものとして、少々は日々の栄養を入れないと、まずいのではないか?
いや、日頃の蓄積があるから、別にかまわないのだろうか?
いったい何日くらい、食べなくてもいいものだろう?
比叡山にこもるあの過酷な修行は何日だったか…いやいや、あれはあくまで修業としての断食だから話は別か。

そんなことを思っていて、たまった新聞を整理していたら、ななんと!
「一日青汁一杯だけで13年間健康に生きている女性がいます。あなたは信じますか?」
という、本の広告が!
一日青汁一杯…? 13年間…?
そしてその本の題名は『食べること、やめました』。
ひえええー!

昨日今日と、私が食べたのは一日クリームパン一個とか、一日雑炊一膳とかだから…
「一日クリームパン一個で13年」
あ、これではただの貧乏…。
「一日雑炊一膳で13年」
正真正銘、…清貧。

だいたい、それが13年も続いたら私はミイラになってるとしか思えない。
この方は、食べることやめましたと言い切るからには、きっと何か確固たるものがあるのだろう。
ということは。
人間、確固たるものがあれば食べなくても生きていけるのだろうか?
また、人生のナゾが増えてしまった。
お腹に力はいまいち入らないが、よく考えてみようと思う…。
# by higurashizoshi | 2008-05-21 22:12 | 雑感

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